02
「…………無い」
古びたアパートの階段を上って玄関の扉を開けると、室内は予想を上回る蒸し風呂になっていた。
帰宅するまでにシャツから絞り出せるほど汗をかいていたので、そこから追加で汗をかこうが大した差はない。
けれど、汗を流した後ならばそれはまた別の話だ。悩みはしたが、背に腹は代えられないと、エアコンの電源ボタンを押した。
そうしてシャワーを済ませてさっぱりした俺は、意気揚々と快適な部屋の中に戻ったのだが。
明日の面接の支度をしようとひっくり返した鞄の中に、マイナンバーカードが見当たらないことに気がついたのだ。
「え、朝は確かに持って出たよな? ここに入れといたはず……もしかして、あん時か?」
毎日しっかり持ち物の確認はしている。だから持ち出し忘れということは、俺の性格上まず無いといっていいはずだ。
ということは、外に出てから帰ってくるまでの間に、どこかへ落としたということになる。
そこまで考えて、俺は帰りがけに立ち寄ったコンビニを思い出した。
マイナンバーカードはICカードと同じ、鞄の外側のポケットに入れている。
おそらく会計でICカードを取り出した時に、気がつかずに落としてしまったのだろう。
「マジかよ……取りに行くか?」
幸いにも店内に落とした可能性が高いから、店員が拾ってくれていることだろう。
店の人間ならさすがに悪用されるようなことはないはずだ。多分。
せっかくシャワーを浴びたというのに、また外に出れば帰る頃には汗だく必至。
ならば明日、面接に行く時にでもあのコンビニに立ち寄れば済む話なのだが。
「……クソ!」
Tシャツにトランクス一丁だった俺は、ハーフパンツを穿いてポケットに財布とスマホを押し込む。
「鵜九森琥太郎くん?」
「は、っ……!?」
玄関の扉を開けるのとほぼ同時に名前を呼ばれて、俺は驚いた声を上げてしまう。
そこにはなぜか、あのコンビニ店員の男が立っていた。
「やっぱり、アタリ」
悪戯を成功させた子どもみたいな顔で、男は笑っている。
扉を開けただけで外はうんざりするほど暑いというのに、この男は涼しげな顔をしているのが不思議だ。
「な、なんであんた……ここにいるんだよ? つーか、なんで俺の名前……」
「なんでが多いね。はい、マイナンバーカード。落としていったの気がつかなかったでしょ?」
「あ……」
男が差し出してきたのは、まさに今から取りに行こうとしていた俺のマイナンバーカードだ。
名前を知っていたのは、これを見たからなのだろう。顔写真も載っている。間違えようがない。
「ドーモ……けど、なんでわざわざ……」
「うーん、ちょっとこの辺りに野暮用でね。それより、お水を一杯もらえないかな?」
「え、水?」
「外がすごく暑くてさ、喉が渇いたから。ソレの届け賃ってことで」
「別に構わねえけど……」
本来ならば、この暑さの中をコンビニまで取りに行くはずだったのだ。
それをわざわざ届けてくれたのであれば、水の一杯くらい渋る理由はない。
玄関のすぐ目の前にある狭いキッチンスペースに向かう俺の背中に、男の視線が無遠慮に向けられているのがわかる。
自分の部屋だというのに妙な居心地の悪さを感じながら、俺はコップに水を注いで手渡した。
「水道水しかねえから、あんま冷えてねーかも」
「ありがとう、助かるよ」
文句を言われても他に出せるものなどないのだが、男は受け取ったコップの中身を瞬く間に飲み干す。
空になったそれを受け取ろうとした俺は、差し出した腕を掴まれてぎょっとした。
「なっ、なんだよ……!?」
「琥太郎くんさ、最近落とし物拾ったりした?」
「は……?」
突然なにを言い出すのか。声音は穏やかそのものなのに、妙な圧があって腕を振り払うことができない。
「落とし物、って……一週間くらい前に、ハンカチ拾った覚えはあるけど。それがなんだよ?」
「そのハンカチ、持ち主は見つかったのかな?」
「知らねーよ、交番届けて帰ったし。探してんならソイツも交番行っただろ」
「……交番には、行けなかったみたいだね」
「あ……?」
なぜだろう。会話をしているはずなのに、言葉が素通りしているようなこの感覚は。
男は俺のことをじっと見ている――いや、正確には、俺の肩の辺りを見ているようだった。
「ッ!!!!」
思わず振り返った俺の目には、当然ではあるが何も映らない。そこに何かが立っているんじゃないかと思って、背筋がゾッとする。
錆びたロボットみたいなぎこちない動きで顔を正面に戻すと、男は相変わらず同じ場所を見ていた。
「事故……かな。落とし主は、どうやら亡くなってしまったらしい。ハンカチは見つけられないままだったみたいだ」
「なんで、あんたにそんなことがわかるんだよ?」
「それは、キミの後ろの彼女が教えてくれたからね」
男の言葉の意味がわからなくて、俺の思考が停止する。
俺は一人暮らしで、ここは手狭なワンルームのアパートだ。性別が男だろうが女だろうが、俺とコイツ以外に誰かがいるはずはない。
「僕には視えるんだけど、やっぱりキミには霊感が無いんだね」
「やっぱりはこっちの台詞だ、うさんくせえ霊感商法なら帰ってくれ」
「生憎とキミに何かを売りつけるつもりはないよ」
「視えるとか視えねえとか興味ねーんだっての、警察呼ぶぞ」
「それは困るな。だけど、僕を追い出して困るのはキミの方だよ。鵜九森琥太郎くん」
「フルネームで呼ぶな」
不審者を追い出して俺が困る理由が見つからない。
どう考えたって、コイツをこの部屋に留まらせることの方が、俺にとってのマイナスだろうが。
払いのければ、男の腕は簡単に離れていく。
「霊感の無いキミが、そのままにしておくと結構マズイんだけど」
「そのままにって……」
「女の人がね、背後からキミの首元に抱きつく感じで――」
「わーっ!!!! ンなこと言わなくていい!! 聞きたくねえ!!!!」
俺は咄嗟に手のひらで自分の両耳を塞ぐ。壁が薄いからデカい声を出すと隣に怒られるかもしれないが、今はそれどころではない。
「……もしかして、琥太郎くんって怖がり?」
「あーあーあー、聞こえねえ。なんも聞こえねえ」
別に全然断じて俺は怖がりなどではない。ただ人より少しばっかり想像力が豊かなだけなんだ。
だから、長い黒髪に赤いワンピースで片方の目玉が腐り落ちた肌の白い女が俺の首に抱きついている姿を鮮明に思い描いてしまったりしても、幽霊の存在なんて信じてないんだから関係ない。
「心配しなくても、キミに危害を加えるつもりはなさそうだよ。ただ、ハンカチがすごく大事なものだったみたいなんだ」
「ハンカチ……?」
「そう。それを見つけたくて、最後に拾ったキミにつきまとってるんじゃないかな」
そろりと背後を見てみても、やっぱり俺の目にはなんの姿も映りはしない。
「……俺にどうしろっつーんだよ?」
「そのハンカチ、どこの交番に届けたのかな?」
どう考えても胡散臭いことこの上ないのだが、あれだけうんざりしていた暑さも忘れて、俺のメンタルは冷え切ってしまっていた。
ハンカチ一枚でこの不安から解放されるのであれば安いものだ。
促されるまま駅前の交番まで足を運んだ俺は、同行した男の口利きもあってすんなりハンカチを返してもらうことができた。
道中で怪しげな勧誘を受けたらそのまま警察に突き出してやろうと思ったのだが、男はどうでもいい雑談を口にするだけだった。
薄いピンク色をしたシルク地の上品なハンカチの隅には、よく見ればイニシャルが刺繍されている。
「大切な人からの贈り物だったみたいだね。これは、あなたのお墓に供えさせてもらうよ」
俺の背後に向けて男がそう口にした時、少しだけ身体が軽くなったような気がした。
よくわからないが、これで俺は取り憑いていた霊から解放されたのだろう。
「んじゃ、ここであんたともお別れ……」
「それじゃあ、本題に入ろうかな」
「は?」
安心して家に帰ろうとした俺の、どういうわけだか足元を見ている男。
俺もつられて視線を落とすのだが、そこにはところどころが擦り切れた、見慣れたサンダルがあるだけだ。
「琥太郎くん。どうやらキミは、本格的に霊感ゼロの人間なんだね」
だから俺は、やっぱりこの男の言っていることが理解できなかった。
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