08:先輩と不良クン
「うわ……」
自動ドアを潜って店内に足を踏み入れた私は、思わず小さく声を漏らしてしまう。
来る前から予想していたこととはいえ、昼休憩ど真ん中のタイミングで訪れたカフェの中は、空席を探そうとするまでもなく満席状態だった。
あれから資料の訂正作業に追われていた私は、時間丁度に昼休憩に出る同僚たちから少し遅れてオフィスを後にしたのだ。
その結果がこの満席の店内なのだが、嗅ぎ慣れたコーヒーの香りや焼かれた香ばしいパンの匂いが食欲を刺激する。
会社の隣のビルの中にあって、チェーン店ではあるもののお気に入りのカフェだ。
数十分前まではこのカフェで昼食を済ませる気満々だったのだから、後ろ髪を引かれるのも仕方がないことだろう。
けれど、席が空くまで待つには昼休憩の時間が足りない。今日は諦めることにして、コンビニにでも向かおうかと思った時だった。
「桜川さん、こっち!」
「え……茂木先輩?」
少し離れた場所から私の名前を呼ぶ声がして、振り返った先にいたのは茂木先輩だった。
おいでおいでと手招きをしているので、私は周囲のお客さんにぶつからないよう気を配りつつそちらへ歩み寄っていく。
「もしかして、席探してる? 二人掛けだから少し狭いけど、良かったら相席しない?」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。レジも並んでるし、早く買っておいで」
「それじゃあ……お言葉に甘えさせてもらいます」
思わぬ助け舟に感謝しながら、私はレジに続く列の最後尾へと足を向けた。
「急ぎじゃないって言われてたし、休憩済ませてからやっても良かったのに」
「でも、ミスをしたのは私なので。それで西条さんたちの仕事が滞っても困りますし」
「相変わらず真面目だなあ、桜川さんは」
お目当てのコーヒーとサンドイッチにありつきながら、私は茂木先輩と向かい合ってそんな話をする。
仕事の最中に会話をすることは何度もあったけれど、こうしてオフの状態で話をするのは、実は初めてのことかもしれない。
穏やかに微笑みながらカップに口を付ける姿が、まるでドラマの一場面を切り取ったかのようだ。
(これは西条さんが好きになったとしても、不思議じゃないよなあ)
茂木先輩に好意を寄せているのは西条さんだけではないのだろうが、その理由もわかる気がする。先ほど私に声を掛けてくれた時といい、言動がスマートなのだ。
押しつけがましくもなく、困っている相手に自然と手を差し伸べてくれるような印象だろう。
「だけど、さっきはありがとうございました。お陰でお昼を食べ損ねずに済みました」
「アハハ、どういたしまして。僕も昼抜きで仕事したことあるけど、やっぱり食事はしっかり摂らないと頭が回らないからね」
「お腹が鳴るのも恥ずかしいですからね」
「そうそう。それじゃ、僕はそろそろ戻るよ。桜川さんはゆっくり食べて」
「はい、ありがとうございます」
私よりも先にカフェにいた茂木先輩は、当然先に昼食も食べ終えていた。
席を立った彼の背中を見送りつつ、昼休憩の残り時間を確認しようとスマホを手にした時のだが。
『オネーサン』
(……あれ、怜央くんだ)
タイミング良く、短いメッセージが送られてくる。
どうしたのだろうかと思いつつ返信をしようとすると、私が文字を打つよりも前に新たなメッセージが表示された。
『後ろ』
(後ろ? 後ろって……)
「えっ!?」
言葉の意味がわからないまま後ろを振り向いた私は、手にしていたサンドイッチを取り落としそうになる。
「ハハッ、めちゃくちゃイイ反応」
「れ、怜央くん……!?」
そこに立っていたのは、紛れもなくメッセージを送ってきた張本人だったのだ。
「ココ座っていい?」
「いいけど……怜央くん、どうしてここにいるの?」
まだ驚きが抜けない私をよそに、許可を得た怜央くんは嬉しそうに向かいの席へと腰を下ろす。
その手に持っているのは紙でできたテイクアウト用のカップで、店内で飲食をしようとしていたわけではないことがわかる。
「偶然寄っただけだけど、並んでる時にオネーサンのこと見つけたからさ。仕事の休憩中?」
「うん。怜央くんは学校帰り……って感じじゃなさそうだね」
「あー、まあね。今日はこれからバイトっていうか」
「そうなんだ?」
今日の怜央くんは、パーカーにカジュアルなジャケットを羽織っている。
平日ならば学校があると思うのだが、そういえば制服を着ている姿を見たことはまだない。
(っていっても、まだ三回しか会ったことないんだけど)
「時間潰しのつもりだったけど、オネーサンに会えたからラッキー」
「またそういう……昨日はあれからちゃんと寝たんでしょうね?」
「寝た……けど、何かソワソワしてすぐは寝付けなかった。だからオネーサンとの会話見返してたよ」
その言葉に、私の心臓はドキリと音を立てる。
特別な意図はないのだろうけれど、怜央くんも同じことをしていたのかと驚いたのだ。
「じ、じゃあ寝不足なんじゃないの? バイト中に居眠りなんかしたら大変だよ」
「そういうオネーサンこそ、何か眠そうに見えるけど?」
両手でカップを持ちながら中身を冷ましていた彼は、そう言いながらじっと私の目を見つめてくる。
コーヒーのお陰で頭も随分と冴えてきたし、寝不足を見抜かれるようなことはないはずなのだが。
「私は、午前中ずっとパソコンと睨めっこしてたから。疲れ目なだけでしょ」
「そーかなあ。……そういうことにしといてもいいけど。それよりさ」
「うん?」
どこか不満げな様子にも見える怜央くんは、一度背後を確認してからカップをテーブルに置く。
「さっきの、会社の人?」
「さっきのって……?」
「一緒に座ってた男の人。黒髪のさ」
そう言われて、思い当たる人物は一人しかいない。
先ほどまで一緒に昼食をしていた茂木先輩のことを言っているのだろう。
「ああ、そうだよ。会社の先輩」
「ふーん。いつも一緒に昼飯食ってんの?」
「いつもじゃないよ。今日はたまたま満席で、帰ろうとしてたところを相席しようって声掛けてくれたの」
「……そっか」
怜央くんの質問の意図がわからずに首を傾げると、何かを納得したように彼は頷く。
そうしてスマホを操作したかと思うと、私の方へと画面を向けてきた。そこに映っているのはカレンダーだ。
「オレ、次の土曜ヒマなんだけど。オネーサン予定は?」
「へ? 特に用事は無かったと思うけど……」
「じゃあさ、この日にしよ。デート」
爪先で数字をカツカツと叩く怜央くんの言葉に、そういえばデートに誘われていたことを思い出す。
半分冗談なのではないかと思っていたのに、あの誘いは本気だったのか。
「っし、決まり! んじゃ時間とかは後で連絡する。オネーサンぼちぼち仕事戻るんだろ?」
「うん、そろそろ休憩終わる時間」
「んじゃコレ片付けとくから、行っていーよ。あ、約束忘れんの禁止な!」
「えっ……ありがとう」
皿の上もカップの中身も、すっかり空になっていることに気がついていたのだろう。
立ち上がった怜央くんは、それらの乗ったトレーを持ち上げて返却口へと歩いていってしまった。
(……デート、かあ)
遊びに出掛けることを便宜上デートと称しているのだろうけれど、暫く無縁だったその響きに何だか胸の辺りがむずむずとする。
こちらを振り向いた彼に軽く手を振ってから、私はひとまず会社へ戻ることにした。
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