05:大型犬
「ご、ごめんね……! 大丈夫だった?」
「オレは平気。つーかあのオッサン逃がしちまったな……怪我は?」
「私は大丈夫。あなたは怪我とかしてない?」
慌てて彼の上から退いた私は、呆然としている女子高生に手を貸しながら様子を窺う。
声を掛けたことでようやく現実に戻ってきたのか、彼女はくしゃりと表情を歪めたかと思うと、突然ボロボロと泣き出してしまった。
「す、すいません……っ、私……怖くて……」
「うん、そうだよね。アイツ最低だった。警察に突き出してやれたら良かったんだけど、私も咄嗟にいい案が浮かばなくて……」
「いえ、大丈夫です。お姉さんが声掛けてくれたから、助かりました。お兄さんも、ありがとうございます」
まだ恐怖はあるだろうに、女子高生は気丈にも私たちに笑顔を見せてくれる。
犯人を捕まえることはできなかったけれど、声を掛けることができたのは良かった。
「学校まで送ってこうか?」
「平気です。本当にありがとうございました」
登校時間も迫っているのだろう。
そう言うと、女子高生は深々と頭を下げてから改札の方へと向かって姿を消していった。
彼の撮った写真が証拠になるのではと思ったのだけれど、どうやらその場でついた嘘だったらしい。
念のため、駅員さんに痴漢があった旨と人相などを伝えてから、私は自分の本来の目的のために改札を出る。
「……で、キミは何で着いてきてるの?」
「オネーサンどこ行くのかなって」
私は一人で買い物をしに来たはずなのだが、なぜか当然のように後をついてくる大型犬が一匹。
彼と会うのはこれで三回目。
初めて明るい場所で彼の姿を目にしたのだけれど、目立つ金髪の右サイドにはピンク色のメッシュが入っている。少し猫目っぽく、笑うと覗く八重歯がちょっと可愛い。
思った以上に整った顔立ちをしているし、身長は180cmくらいあるのかもしれない。
ヒールを履いても170cmもない私は、自然と見上げる形になる。
「買い物だけど……キミは何か用事があるんじゃないの?」
「オレ? 用事済ませて帰るトコだったから、特に何もねーけど。着いてっていい?」
「着いてこられても、何も面白いもの無いけど」
「オネーサンと話せるじゃん。つーか、名前!」
「え?」
今しがたまで上機嫌に見えた彼は、何かを思い出したように口先を尖らせる。
首を傾げた私の目線に合わせるように、背中を丸めて彼はじっと目を見つめてきた。
「オレの名前、覚えてる?」
「名前……春海、怜央くん?」
「そ! キミじゃなくて、怜央って呼んで」
「怜央くん……?」
呼び方を気にしていたのか。
試しに名前を呼んでみると、彼――怜央くんは、満足そうな笑みを浮かべる。
「オネーサン。買い物って、そこのモール行くの? オレ、荷物持ち得意だぜ」
「いや、別に荷物持ちは求めてないけど……」
当然のように着いてくる気らしい彼を止める理由も無く、率先して前を歩いていく怜央くんの背中を私が追いかける形になる。
(っていうか、自分は名前で呼ばせるのに私はオネーサンなの?)
確かに私も名乗ったはずなのだが、彼は自分が名前を呼ばれたことで満足しているようだ。
別に呼び方など何だろうと支障はないのだけれど、私は何となくモヤモヤとした感情を抱いてしまう。
けれど、それを訂正するのもおかしい気がして、私は到着したショッピングモールへと足を踏み入れた。
「オネーサン、今日は何買いに来たの?」
「特にこれっていうのは無いけど、強いて言うなら洋服かな。最近あんまり新調できてなかったから」
食材の買い溜めも目的の一つではあるのだけれど、それは最寄り駅の近くにあるいつものスーパーで事足りる。
平日はなかなか店が開いている時間に買い物をすることができないので、今日の一番の目当ては洋服と言っていいだろう。
「仕事、忙しそうだもんなあ。休日はいっつもそういうラフなカッコなの?」
「え?」
怜央くんからの指摘を受けて、私は自分の今日の格好を見下ろす。誰かに会う予定ではなかったので、決してオシャレとは言い難い格好をしている。
それが何だか恥ずかしい気がして、私は少しだけ歩調を速めることにした。
「だ、だって買い物するだけだし……友達と出掛けたりする時は、もうちょっとちゃんとした格好するけど」
言いながら、私は何を言い訳しているのだろうかと頭を抱えたくなる。彼にどう思われようと、別に構うこともないだろうに。
飾り気が無いのは昔からのことだが、怜央くんがオシャレだからだろうか? 隣を歩くのが妙に恥ずかしい。
「ラフでもいいと思うけど」
「へ……?」
女を捨てていると思われても不思議ではない。
そう考えていたのに、彼の口から出てきたのは思わぬ肯定の言葉だった。
「オネーサン、仕事の時はきっちりした格好してたじゃん? 休日くらい気ィ抜かないと疲れるし、今日のカッコもイイと思うよ」
「……そう、かな」
「そうそう。オレだって、近くのコンビニ行く時とかジャージで出歩いたりするし」
笑われるか無関心を覚悟していたけれど、まさか褒められるなんて想定外だ。
「つーかさ、メイクはきっちりしてるじゃん? オレ的にはむしろそっちの方が大変だと思うんだけど」
「!?」
背を曲げて覗き込んでくる怜央くんの顔が想像以上に近くて、私は咄嗟に飛び退いてしまう。
けれど、そんな私を彼の長い腕が抱き寄せたことでさらに驚きは大きくなる。
「え、怜央く……!?」
「後ろ、ぶつかる」
「え……? あ、そっか……」
振り返ると、丁度私の後ろを通り過ぎようとしている親子連れが目に入る。
ぶつかりそうになったところを、怜央くんが未然に防いでくれたのだ。
「あ、ありがとう」
「いーよ、オレが急に顔近づけてびっくりさせたせいだし」
彼は特に慌てるわけでもなく、とてもスマートな動きに見えた。年下だというのに、女性の扱いに慣れているのかもしれない。
(当然か。怜央くん、モテそうだもんなあ)
背中に回された腕はすぐに離れていったけれど、これは香水なのだろうか?
少し甘くて爽やかな香りが残っていて、私はしばらく煩いままの心臓の辺りを押さえ続けていた。
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