04:電車の中
目覚めは最悪だった。
起床して早々に、昨日はどうしてあんなことをしてしまったのかと後悔の念が襲い掛かってきたのだ。
もう会うこともないだろうと思っていた彼が、私のことを待っていてくれた。
その事実になぜか浮かれてしまった自分がいたことに、帰宅をしてから気がついたのだが。
(ありえないでしょ……あんな、年下の男の子に)
買い置きの菓子パンの袋を開けながら、私は大きく溜め息を吐き出す。
正確な年齢を聞いたわけではないものの、彼は確実に私よりは年下の青年だろう。
オネーサンという呼び方からも、向こうも私を年上として認識しているであろうことはほぼ間違いない。
少し褒められたくらいで、一体何を浮かれることがあるのだろうか?
(ああいう子って、何にでも興味示しそうだしなあ)
初めて会った時に一緒にいた人たちを見ても、恐らく私のようなタイプの人間とは縁が無いはずだ。
私だって、これでも学生時代からずっと品行方正な生活を送ってきている。
彼のような、不良と呼ばれる類の人間とは関わる機会なんてあるはずもなかった。
いつもの日常に、少しだけ違うものが紛れ込んだから戸惑っているだけなのだ。
齧りついたコッペパンは苺の甘い味がする。
コーヒーが苦手だと言っていた彼は、逆に甘い物を好むのだろうか?
「いやいや、何考えてんの……! さっさと支度しよ」
咀嚼していたパンをカフェオレで流し込むように飲み込むと、丸めた包装をゴミ箱に放り込む。
慣れないことが続いて、少し頭がおかしくなっているのかもしれない。
(気分転換すれば、すぐに元通りになるよね)
クローゼットの中から選んだのは、いつものオフィスカジュアルではなく、薄手のニットにジーンズだ。
今日は仕事が休みなので、今週必要な分の食材の買い溜めをするつもりでいた。
(せっかくだし、少しだけ足を伸ばしてみようかな)
近場で買い物を済ませることもできるとはいえ、今日は貴重な休日なのだ。オシャレをして出かけるような場は無いといっても、新しい服だって欲しい。
そう思った私は、電車で数駅先にある大型のショッピングモールを目的地とすることにした。
(……どうしてこういうことになるかなあ)
そこそこ人の多い電車の中で、私は頭が重くなるのを感じる。
気分転換のつもりだったというのに、それをぶち壊す出来事というのは容赦なしにやってくるものだ。
(痴漢、だよね)
被害に遭っているのは私ではなく、斜め前に立つ大人しそうな女子高生だ。
顔が青ざめているので始めは具合が悪いのかと思ったのだが、よく見れば背後に立つ男が不自然に密着している。
男の両手は吊り革に捕まっていて、一見すると無関係のようにも思えるのだが。
よくよく観察していると、電車の揺れに合わせて女子高生の後頭部に鼻先を近づけているのがわかる。
以前、ネットニュースか何かで目にしたことがある。あれは触らない痴漢というやつだ。
(どうしようかな)
痴漢には違いないのだが、触れていない分それが痴漢なのだと立証することが難しいと聞いたことがある。
指摘をしても証拠になるようなものはないので、とぼけられればそれで終わりだ。
そうかといって、下手に介入しても彼女が余計に嫌な思いをすることになるかもしれない。
「ねえ、あゆみちゃんだよね?」
「えっ?」
それらを踏まえた上で、私は人の合間を縫って声を掛けながら彼女のところまで移動した。
こちらを向いた女子高生の瞳には涙が滲んでいるように見えたが、私は努めて明るく言葉を続ける。
「久しぶり、覚えてないかな? 従姉妹の凛だよ」
「あの……」
「随分大きくなったよね、今日学校? あ、もしかして部活かな。休日まで大変だね」
戸惑う彼女に構わず、私は男と女子高生の間に強引に割って入る。男は何かを言いたげな様子だったが、私は気がついていないふりをして話し続けた。
そのうち、彼女も状況を理解してくれたのだろう。私の話に合わせて、適当な作り話をしてくれる。
「えっと、凛さんはお休みですか?」
「うん、私はちょっと買い物に行こうかなって。あゆみちゃんに会えてラッキーだった……ッ」
「……凛さん?」
「いや、何でもないよ。電車混んでるね。あゆみちゃんはどの駅で降りるんだっけ?」
「あ、私は次の駅です」
背を向ける彼女を庇うように立っているので、背後の状況が見えていないのは幸いかもしれない。
私が割り込んだことで諦めたかと思った男は、驚くことに今度は私の髪の匂いを嗅ぎ始めたのだ。
(コイツ……女なら見境ないわけ!?)
嫌悪感よりも怒りの方が先立つが、女子高生からターゲットを移すことに成功したのには違いない。次の駅で降りるというし、そこまで私が我慢をすればいいだけなのだ。
(けど、気持ち悪っ……)
ヒールの効果もあってか、女子高生よりも私の方がもう少し背が高い。だからだろうか、匂いを嗅ぐ男の生温かい鼻息が丁度耳元の辺りを擽ってくる。
自然と鳥肌が立つが、次の駅に到着するまでの辛抱だ。そう思っていたのだが。
「アンタさ、いい加減にしろよ」
「!?」
聞こえてきた声と共に、先ほどまで密着していた体温が離れたのを感じる。
振り返った先で目に飛び込んできたのは、眩しいほどの金髪だった。
「さっきから見てたけど、アンタこの人の匂い嗅いでたよな? そういうのも痴漢になるってわかってやってんだろ」
「い、いや……何言ってるのか意味が……」
「わからねえっていうなら、撮った写メ見せてやってもいいけど?」
「ヒッ……!」
誤魔化そうとした男は、彼の言葉でみるみるうちに情けない表情になっていく。そうこうしているうちに、電車は駅に到着した。
扉が開いたのを見るや否や、男は女子高生に体当たりをするように外へと飛び出していく。
後ろから突き飛ばされる形になった彼女は無防備なまま倒れ込みそうになって、咄嗟にその腕を掴む。
けれど、私の力では支えきることができずに一緒に倒れ込んでしまった。
「…………?」
だというのに、痛みも衝撃も感じなかったのが不思議で、私は恐る恐る目を開ける。
「……っと、大丈夫かよ?」
私たちを庇うように下敷きになって倒れ込んでいたのは、春海怜央くんだった。
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