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38:出会いの日


「どこ行くの、オネーサン」


「怜央、くん……?」


 今度こそ、間違いない。私の目の前に立っているのは、怜央くん本人だった。


「何で、ここにるの? 帰ったんじゃ……」


「それはオレのセリフなんだけど。一度は帰ろうとしたよ」


 横断歩道の信号が赤に変わって、彼の姿は確かにどこにも無くなっていた。

 だから、怜央くんはもうこの場を去ってしまったのだと思っていたのに。


「けど、呼ばれた気がしてさ。振り返ったら、バーサンが何か困ってるっぽくて」


「おばあさん……?」


 そうか。車の通りがあったから死角になっていたけれど、怜央くんの方からはおばあさんの姿が見えていたのだ。


「最初は、誰かが声掛けるだろって思ったんだけど。オネーサンなら、ここで人任せにしねえよなって思ったから」


「だから、戻ってきたの?」


「結局、先越されちまってたけどな。オネーサン、やっぱ偉いわ」


「……全然、偉くなんかないよ」


 向けられる怜央くんの笑顔が眩しかった。こんなに好きになってしまったら、もう後戻りなんかできない。


「私は大人だから、正しい判断をしなきゃいけないって思うのに。一度決めたことからも揺らいで、逃げてばっかりで、全然偉くない」


「……オネーサン?」


 人に褒められることは嬉しかった。自分を肯定されるのは、自信に繋がった。

 だけど、心が動くのはいつだって怜央くんにだけだったのだ。

 それは、怜央くんが最初に私のことを認めてくれたからではない。


「怜央くんは、私の感情も全部自分にだけ向けばいいって言ってくれたけど……そんなの、とっくにそうだった」


 言い訳をして、逃げ道を作って、散々誤魔化してきた私の気持ち。

 こんなにも激しくて醜い感情が自分の中にあったなんて、知らなかった。


 怜央くんに、私のことだけを見ていてほしい。


「怜央くんを好きだって気持ち、止めることができなかった」


 彼の瞳が大きく見開かれたのがわかる。もうとっくに、私のことなんて好きじゃなくなってしまったかもしれない。


「これから先、悪いことしか起こらない人生でも構わない。だけど……」


 今さら、こんなことを言われたって迷惑なだけかもしれない。


「この恋だけは、諦めたくない」


「……それは、無理だと思う」


「っ……!」


 もしかしたら、受け入れてもらえるかもしれないと思っていた。けれど、怜央くんから返されたのは拒絶の言葉だ。

 これが現実と向き合った正しい結果なのかもしれない。

 そう思った時、私は力強い腕に抱き寄せられる。


「えっ……? 怜央く……」


「悪いことだけって、無理な話だろ。オネーサンと一緒にいたら、この先起こるのは全部良いことになっちまうんだから」


 これは、私の都合のいい聞き間違いなんだろうか?

 そんな風に思うのに、抱き締める腕の力は痛いほどに強い。


「オネーサンにも、リューさんにも、迷惑かけたくねえと思ったから。必死に諦めようとした」


 間近に届く声は、心なしか震えているようにも聞こえる。


「けど、やっぱ無理だろ。とっくに全部奪われちまってんのに」


 私だって、怜央くんと同じだ。

 自分自身の気持ちだというのに、コントロールできていたのは、彼に出会うまでだったのだから。


「……少しさ、歩かねえ?」


 そう言って、怜央くんは私の手を取った。


「寒くねえ?」


「平気。ここ、いい場所だね。静かでゆったりしてる」


「だろ。墓参りの帰りにさ、よく散歩してんだ」


 怜央くんに連れられて、私は広々とした遊歩道の真ん中を歩いていた。

 葉が落ちて寂しげな雰囲気はあるけれど、季節によっては青々とした緑が目を楽しませてくれるのだろう。


「……オネーサンさ、前にも今日みたいにお年寄り助けてたよな」


「前……?」


 怜央くんの言う前とは、いつの話なのだろうかと首を傾げる。

 これまでに困っているお年寄りに声をかけた経験は何度かあるが、彼と一緒にいる時にそんなタイミングがあっただろうか?


「多分、丁度一年くらい前の話」


「一年前って……私たち、まだ知り合ってないよね」


 私と怜央くんが出会ったのは、そもそも今年の秋に入った頃なのだ。一年前なんて、記憶に無くともおかしくはない。


「その反応だと、忘れてんだ? まあ、オネーサンにとっちゃ人助けはそんくらい日常ってことか」


 一人で納得しているらしい怜央くんに、ますます私の疑問は深まってしまう。


「そん時はさ、親切な人もいるもんだ。くらいに思ったんだよ」


 話についていけていない私に構わず、怜央くんは思い出話を進めていく。


「そんで、次は電車ン中。席譲ろうとしてる親切な人に、なんか見覚えがあるなと思って」


 そう言いながら、怜央くんは私の方へ視線を向ける。

 その瞳が柔らかく甘さを含んでいて、私はどうしていいかわからずに視線を泳がせてしまう。


「けど、譲られた側のバーサンがさ。年寄り扱いすんなってブチ切れてんの」


「……え?」


 そういえば、少し前に電車で座席を譲った時に、そんなことを言われたことがあったと思い出す。


『あたしを老人扱いするつもりかい!?』


 確かあれは、怜央くんと出会った日の朝だっただろうか。


「完全に逆ギレだし、電車ン中もうわ……って空気になったわけ」


 その空気には、よく覚えがある。


「なのにさ、その親切な人はそれが当たり前みてえな顔して座り直したんだよ。感謝されないのが普通だって感じてるみたいに」


 まさか、あの電車の中に怜央くんも乗っていただなんて、考えもしなかった。


「それ見て思ったんだよ。何で誰も庇ってやらねえのかって。何で……誰も褒めねえのかって」


 繋いだ怜央くんの手に、少しだけ力が篭ったような気がする。怒っている……というよりも、何かを悔いているようにも聞こえた。


「満員電車で身動き取れなかったけど、オレが傍にいたらって思ったよ。オレなら、真っ先にスゲーって声掛けんのに」


 怜央くんがそんなことを思う必要なんてないというのに、そんな風に思ってくれていたなんて。


「それがずっとモヤモヤしててさ。次にそういう場面に出くわしたら、絶対声掛けようって決めてたんだ」


 話をする彼の足が突然ぴたりと止まるので、私も自然と足を止める形になる。不思議に思って怜央くんの方を見ると、彼もまた私のことを見つめていた。


「そしたらさ、同じ日にチャンスが訪れて。声掛けてやろうって近づいたら……オネーサンだった」


「私……?」


「モヤモヤ晴らせりゃ誰でも良かったのに、まさかの三度目の正直。この人、またいいことしてんのかって」


 誰に見られていなくても構わなかったのに。

 そんなに目撃されていたことを知ると、なんだか途端に羞恥心が込み上げてきてしまう。


「見返りも求めずに、こんな人いねえって……尊敬した」


「尊敬なんてされるほどのことは……」


「謙遜。前にも言っただろ、意外とできねえモンなんだって」


 そうだ。初めてデートをした時にも、怜央くんはこうして私のしたことを肯定してくれたのだった。


「実際話して、一緒に過ごして、オネーサンはやっぱオネーサンだった」


「それって……褒められてる?」


「もちろん。オレにとって理想の、最高のひと」


 直球でそんなことを口にしてくる怜央くんに、私は顔が熱くなっていくのを感じる。年齢なんて関係無く、私は彼にドキドキさせられ続ける運命なのかもしれない。


「色んな奴に、オネーサンは最高なんだぞって自慢して回りてえ。……けど、誰にも教えてやりたくねえ気持ちもある」


 正面から向かい合うように立った怜央くんは、軽い深呼吸をした。


「好きだよ、凛さん」


 ずっと待ち焦がれた、彼からの言葉。


「だけど、恋人にはなれねえ」


Next→「39:未来の話」

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