34:演じられた悪役
「痛ってぇな……何しやがる、クソ女!」
「あなたがそんな最低な人だと思いませんでした。この件は上司に報告させてもらいます」
痛みに怯んでしゃがみ込んだ先輩が離れた隙に、私はバッグを手に取って先輩の横を通り過ぎようとする。
「ハッ、やれるもんならやってみろよ?」
けれど、茂木先輩はどういうわけか強気な笑みを浮かべて私を見上げている。
薬を盛ったり、私を襲ったり、どう考えても不利な立場にあるのは彼の方であるはずなのに。
「見てみろよ、こんなに血ィ出ちまってさ。暴力沙汰だぜ?」
「それは、あなたが私のことを無理矢理……」
「証拠は?」
「え……?」
ゆっくりと立ち上がった先輩は、血に濡れた掌を私に見せつけてくる。
傷はそこまで酷くないだろうとは思うのだけど、頭部からの出血なので大怪我をしている状態にも見える。
「この状況見てさ、どっちが信用されると思う?」
「どっちがって……」
「無傷のお前と、血まみれの僕。桜川さんさあ、同僚の女子社員からも陰でコソコソ言われたりしてるよね」
「っ……!」
「僕は色んな人から信用されてるし、上司からの信頼も厚い。『しつこく迫られて、断ったら逆上されました』って……処分されるのは、果たしてどっちかなあ?」
私が被害者であることは紛れもない事実だというのに、彼の言う通り証拠がない。暴行を受けたとはいえ未遂なのだし、実際に怪我をしているのは彼だけだ。
首を絞められはしたが、自信満々な態度を見るに痣になったりはしていないのだろう。
(私は何も、間違ったことなんてしていないのに)
ただ、気持ちに真摯に向き合おうとした。その結果が、これだというのか。
「証拠が必要だというのなら、ここにあるわ」
「何……!?」
絶望に目の前が真っ暗になりかけていた。そんな私の耳に届いたのは、この場にはいない第三者の声だった。
「西条、さん……?」
オフィスの入り口に立って茂木先輩を睨みつける彼女は、手にスマホを持っている。
それは動画の撮影状態になっていて、私は西条さんがこれまでの経緯を録画してくれていたのだと気がついた。
「西条……っ、テメエ……!」
状況を理解した茂木先輩が、反射的にスマホを奪い取ろうと飛び掛かっていくのが見える。
彼を止めなければと思ったのだけれど、先輩の手が西条さんに届くことはなかった。
「ぐあっ……!」
「茂木くん、これでようやく年貢の納め時ね」
「クソ、クソクソ……っ!!!!」
扉の影から現れたのは、屈強な体格をしたこの会社の警備員だった。恐らく西条さんが、ここまで引き連れて来ていたのだろう。
瞬く間に警備員に取り押さえられた茂木先輩は、それ以上の抵抗をすることは叶わなかった。
「西条さん、どうして戻ってきてくれたんですか?」
あれから、西条さんの通報によって警察が到着し、茂木先輩は連行されていった。
上司にも連絡が行ったようで、始めは『あの茂木がそんなことをするはずがない』と疑っていたらしい。
けれど、西条さんが撮影してくれた証拠のお陰で、上司も理解してくれたようだ。
私と西条さんも事情聴取が必要ということで同行し、ようやく解放される頃にはすっかり遅い時間になってしまっていた。
その帰り道、私はタイミングが良すぎる西条さんの登場について、抱えていた疑問をぶつける。
「忘れ物をしたのよ、偶然ね。その時にオフィスの方に向かう茂木くんを見かけて、もしかしたらと思ったの」
「どうして、茂木先輩を見ただけで……?」
「アタシはね、茂木くんがああいう人間だって知ってたの。きっかけは、たまたまだったんだけど」
西条さんは複雑そうな顔をした後、静かに夜空を見上げる。あんな事件など無かったかのように、そこには無数の星が輝いていた。
「茂木くんは、社外ではかなり激しい女遊びをしていてね。それこそ、浮気やヤリ捨てなんて当たり前で……アタシの友達も、その被害者の一人だったの」
「……そうだったんですか」
「それでも、犯罪ではなかったから私も口出しできなかったんだけど。アナタを見る目が、今までとは少し違っていたから」
そうして私の方をチラリと見た西条さんは、片手で赤い眼鏡の位置を直す。
「裏で注意をしたこともあったんだけど、あの男のやり口なのね。アタシの言うことを信用する人間なんていないって、自信満々だったわ」
社内ではお局様として距離を置きたがる社員も多い。
確かに、事情を知らない社員からは茂木先輩の方が圧倒的に支持を得ていただろう。
「だから、茂木くんが尻尾を出す機会を窺いながら、アナタに近づかないよう見張っていたのよ」
だから西条さんはいつも茂木先輩が話しかけてきたタイミングで、会話に割り込んできていたのだ。
自分が周囲からどのように思われているのかを理解して、あえて悪役を演じながら先輩を牽制してくれていた。
「アタシが茂木くんのことを好き、なんて噂も流れてたでしょ?」
「えっ!? それは、ええと……はい」
嘘をついたところで、彼女はもう知っているのだろう。そう思って頷くと、西条さんは予想通りだと言いたげな顔をする。
「やっぱりね。だけど、かえって都合が良かったわ。その噂があったから、茂木くんも動きにくかったんだろうし」
確かに、西条さんに目を付けられたくないと思う後輩などは、茂木先輩に近づけずにいるようだった。
けれど、新たな被害者を生まないという意味では、それが功を奏したのだろう。
「……それに、桜川さん。好きな相手がいるでしょ?」
「へ!? 急に何を言い出すんですか……!?」
「見てればわかるわ。最初はその相手が茂木くんかと思って焦ったけど、そうじゃなかったわね」
まさか、西条さんにそんなことまで見抜かれていただなんて。私の動揺をよそに、西条さんは話を続けていく。
「以前は仕事人間って印象だったけど、ここ最近は……雰囲気が柔らかくなった」
「そうでしょうか……?」
「ええ。いい恋をしているんだと思ったわ、それが誰の影響なのかまではわからないけど」
世間から許されない恋は、いい恋だといえるのだろうか?
けれど、西条さんの目にはそんな風に映っていたのか。
「私はこの歳まで独身だけど、自分で選んだことよ。強がりだなんて言われることもあるけど、誰かを妬んだりしたこともないわ」
それが本心だということは、西条さんの横顔を見ていればわかる。
外野は好き勝手な想像をして心無い言葉を口にするけれど、彼女の人生が満たされているかどうかは、彼女にしかわからないものなのだ。
「だからね、桜川さん」
「はい」
「自分の心に従った選択をしていきなさい」
「自分の心に……?」
「そう。失敗することもあるでしょうし、後悔することもあるかもしれない。だけど、自分の心に嘘をついたらきっと悔やむことになるわ」
西条さんには、今の私の状況なんてわからないはずなのに。
まるで別れ際の時の母のように、心の内を見透かされているような気がする。
「それは……西条さんの経験ですか?」
「さあ、どうかしらね」
そう言った西条さんは、出会ってから初めて見る優しい表情をしていた。
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