03:悪いことと、良いこと
「あれ、駒村さーん。これってその書類じゃないですか?」
まるで別の方角から聞こえてきた声は、よく聞き覚えがある。
見ると、そこには手にした書類をひらひらと揺らす男性社員の姿があった。
「何!? 本当だ、どうしてお前がこれを持ってるんだ!?」
「持ってたんじゃなくて、他の書類に紛れてたんですよ。多分、シュレッダー用の方に混ざっちゃってたんじゃないですか?」
「茂木さん……! やだ、ありがとうございます!」
「いや、僕じゃなくてお礼なら桜川さんにじゃないかな」
「あ……えっと、桜川さん。ごめんなさい」
「いえ、気にしないでください。見つかって良かったです」
渋々といった風に謝罪をしてくる沼田さんに、私は首を横に振ると問題は解決したと自分の席に戻る。
他の社員たちも安心したようで、各々の仕事に戻っていく姿が見えた。
「災難だったね」
「……茂木先輩、ありがとうございました」
そんな私のところにやってきたのは、書類を見つけてくれた茂木先輩だ。
仕事ができる上に物腰柔らかで、爽やかなルックスは多くの女性社員を虜にしている。
「いや、シュレッダーにかけられる前で良かったよ」
「そうですね、大事な書類がどうしてそんなところに紛れ込むのか不思議ですけど」
「アハハ、確かに。それじゃあ、僕も仕事に戻るね」
普段から特別話す間柄というわけではないのだが、気まずい思いをした私を気遣ってくれたのかもしれない。茂木先輩の人気が高いのも理解できるような気がした。
気持ちを切り替えて、その日やるべき仕事をいつも通りに片付けていく。
あんな一件があったというのに、沼田さんはまたしても私のところに仕事を持ってやってきた。
「桜川さん、ちょっとだけお願いできないかしら? 抱えてる仕事がどうしても終わらなくって……!」
「……いいですよ、どれですか?」
自分の仕事は終わりかけている。引き受ける義理はないのだけれど、彼女の手が回らないと後々こちらにも面倒ごとがやってくるのだ。
明日は休みに入るし、休日を跨ぐと余計に仕事が積み上がる。
それをわかっているから、私は週明けの自分のためなのだと言い聞かせて書類を受け取った。
そうして今日も、仕事が片付いたのは終電を気にし始めるような時間帯だ。
当の沼田さんはとっくに仕事を切り上げていて、軽い足取りでオフィスを出て行ったのを横目に覚えている。
仕事が終わらないとは言っていたが、正確には『夜の予定までに仕事が終わらない』ということだったのだろう。
(今日は、何だかすごく疲れたな……)
急いで帰ったところで、私を待つ人間はいない。約束もない。
残業代は入るのだからと仕事に打ち込む日々だが、そこで稼いだお金を使う機会も無かったりする。そうすることを選んだのは、他でもない自分自身なのだけれど。
沼田さんのように、もっと要領よく生きればいいのかもしれない。だけど、そうできないのが私という人間なのだ。
一生のうち、良いことと悪いことは同じだけ起こるなんて話がある。
悪いことばかりではないけれど、私の人生に同じだけの良いことは起こってきただろうか?
『オネーサン偉くね!?』
そんなことを考えた時、思い浮かんだのは昨日の青年の姿だった。
良いことをしても、馬鹿にされるかそれが当たり前だと受け止められることばかりだったのに。
(あれは……ちょっとだけ、良いことだったかな)
少しだけ緩む口元も、夜だから誰にも見られることはない。
そう思いながら昨日の自動販売機のところまで歩いてきた私は、そこにある人影を見て驚いた。
「あっ、オネーサン! こんばんは、今日も遅いじゃん」
「え、キミ……昨日の……」
「春海怜央。覚えてくれた?」
自動販売機に凭れ掛かるようにしていた彼は、私の姿を見つけると見えない尻尾を振って近づいてくる。
偶然そこにいたというよりは、まるで私を待っていたかのようだ。
「こんなところで、何してるの?」
「オネーサンのこと待ってた」
「私……? どうして、私何かしたっけ?」
まさかとは思ったが、本当に私のことを待っていたらしい。
彼がそんなことをする理由がわからなくて困惑するが、当人はそんなことを気にしていない様子だった。
「いや、オレが勝手に待ってただけ。オネーサンに会いたかったから」
「会いたかったって……」
「あ、コレ。良かったらドーゾ」
そう言って差し出されたのは、自動販売機でよく見かける缶コーヒーだ。
「今日も遅くまで頑張ってるオネーサンに、お疲れ様のご褒美」
「受け取れないよ。そんなことしてもらう理由ないし」
缶コーヒーの一本とはいえ、昨日初めて会ったばかりの相手にそれを貰う理由はない。
両手でガードして拒絶の意思を示すと、彼は何やらうーんと唸り始める。
「もしかして、警戒してる? 変なモン入れてんじゃないかとか」
「それは、思ってないけど……」
「そ? じゃあさ、昨日のお詫びってことでどう? 縁切ったとはいえ、一応オレのツレが嫌な思いさせたわけだし」
「でも……」
「それに、受け取ってもらわないと困るんだよ。オレ、コーヒー飲めねえし」
そう言って押し付けられる缶を、私は受け取るしかなくなってしまう。飲めないのに、わざわざコーヒーを買って待っていてくれたのか。
会えるかどうかもわからない、私のために。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして。オネーサンってさ、いつもこんな時間まで仕事してんの?」
「そうだけど」
「うわ、スゲーな! みんなこんな遅くまで働いてるモンなのかよ」
「どうかな。私は残業があったから残ってたけど、定時で上がる人も多いよ」
せっかく貰ったコーヒーなので、まだ温かさが残るうちにとプルタブを起こす。
それに口を付けながら返すと、彼はますます驚いたような顔をして私のことを見た。
「じゃあ、オネーサンは特別頑張ってんだ? やっぱスゲーんだな」
「別に、特別ってことは……」
「だって、他の奴より頑張ってんだろ? こんな時間まで働くのって大変じゃん」
自動販売機の明かりに照らされて、彼の純粋な瞳がキラキラと光り輝いているのがわかる。
大したことをしているつもりはないのに、こうも褒められるとどう反応をしていいのかがわからなかった。
けれど、そんな私の反応すら気にすることなく、彼はポケットから取り出した自身のスマホを一瞥する。
「あっ、オネーサン電車だよな? 途中まで一緒していい?」
「いいけど、キミは電車じゃないよね?」
「そうだけど、こんな暗いのに女の人一人じゃ危ないじゃん。オレ、喧嘩けっこー強いよ?」
「……喧嘩は、あんまりしない方がいいと思うけど」
夜道を歩くのは危ないだなんて、心配されたのは子どもの頃以来かもしれない。
平気だと言いかけた口を閉じて、私は大人しく彼に駅の近くまで送ってもらうことにした。
「それじゃ、気ィつけてね。オネーサン」
昨日別れた場所と同じところまで来ると、彼はあっさりと踵を返してその場を去ろうとする。
「あの……っ!」
その背中を呼び止めてしまったのはどうしてなのか、自分でもわからない。
ただ、気づいたら口を開いてしまっていたのだ。
「私ッ、桜川凛……!!」
遠目にもわかるほど目を丸くした彼は、確かに笑ってくれたのが見えた。
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