25:いつもの日常
「おはようございます」
「おはよう、桜川さん。早速で悪いんだけど、ちょっとお願いしたい仕事があるんだぁ」
「構いませんよ、どれですか?」
書類の束を受け取った私は、伝え聞いた必要な内容をメモしてから自分のデスクへと戻る。
普段なら気が遠くなるような書類の山も、今は余計なことを考えずに黙々と作業をすることができるので助かっていた。
怜央くんと別れた後、私は家に帰って魂が抜けたような状態になってしまったのだが。
それでも頭の中はどこか冷静で、目を腫らして出社するわけにはいかないと、しっかりと冷やしてから眠ることができた。
お陰で今朝は、メイクをすればどうにか誤魔化せる程度には目の腫れは引いていたのだ。
失恋をした、という言い方は適切ではないのかもしれない。
それでも、胸にぽっかりと穴が開いたようなこの感覚は、間違いなく失恋のそれなのだろう。
(仕事をしてれば、忘れられる)
怜央くんに出会う前の状態に戻っただけなのだから、何も変わったことなどない。
本来なら、私の人生には最初から関わるはずのない相手だった。それがどこかで道を間違えて、うっかり交わってしまっただけ。
「西条さん。手持ちの仕事が終わったんですが、お手伝いできることはありますか?」
「……珍しいわね。それなら、こっちの仕事をお願いしようかしら」
「わかりました」
西条さんは何かを言いたげな様子だったのだが、要求に応じて新たな仕事を回してくれた。 もしかすると、私の顔を見て何かを察してくれたのかもしれない。
昼休憩もそこそこに、私は就業の時間までひたすらにキーボードを叩き続けていた。
仕事は滞りなく片付けることができたし、家に着くまでの道中も問題が起こることはなかった。
適当につけたテレビを眺めながら済ませた夕食は、スーパーで購入した見切り品の弁当だ。
元通りの生活は、なんだか酷く味気ない。
(……慣れって怖いな)
怜央くんのいる日常が、いつの間にか当たり前になりかけていたのだ。
私はテーブルの上に投げ出していたスマホを手に取る。LIMEを開いても、そこにもう見慣れたトークルームは存在していない。
彼と別れたあの日、私がこの手で消したのだ。
中途半端にしているのは良くないと、繋がりをすべて断つことにした。
思い出を消すことはまだできないけれど、それもきっと時間が解決してくれるだろう。
そう思った時、手元のスマホが着信を知らせてくる。
「っ……」
心臓が大きく跳ねたのがわかる。けれど、表示されていた名前を見て私はどこまで愚かなのだろうと自嘲する。
もう怜央くんからの連絡が来ることは無いというのに。
気持ちを切り替えて、私は友人からのビデオ通話に応答することにした。
「もしもし、雪乃? どうしたの?」
『どうしたじゃないよー、凛ってばあれから何も報告してくれないからさあ。進展あったのかなって気になってるんですけど』
「ああ、別に進展なんてないよ。雪乃の方こそ、体調はどうなの?」
『私は大丈夫だよ。この間は迷惑かけちゃったけど、つわりも軽いしこの通り元気! ……って、私の話じゃなくて!』
通話画面の向こうの雪乃は相変わらず元気そうで、彼女と話している時は学生時代に戻ったような気分になれる。
『……もしかして、あんまり上手くいってないの?』
「上手くっていうか、うーん……」
上手くいくもいかないも、始めてはいけない恋だったのだ。先の見える恋をしていただなんて、笑われてしまうかもしれない。
だけど、いっそ笑われてしまえばすっきりするのではないだろうか?
「……雪乃はさ。もし小雪ちゃんが高校生くらいになって、30歳手前くらいの人を彼氏だって連れてきたらどう思う?」
『えっ!? そりゃあ反対するよ! 私もだけど、多分旦那が許さないと思う』
「アハハ、やっぱりそうだよね」
考えるまでもないほどの即答ぶりが、いっそ清々しい。
『何で急にそんなこと……え、もしかして、この間のデートの相手って……』
怒っていた雪乃の表情が、みるみるうちに驚愕のそれへと変化していく。我が友人ながら、察しが早くて助かる。
『じゃあ、未成年の子ってことだよね……? 歳いくつ?』
「18歳」
『えっ、職場の人の親戚とか?』
「ううん、道端で偶然出会ったっていうか……」
『何それ!? まさかナンパ!? 凛ってば18歳にナンパされたの!?』
「ナンパじゃないよ、ホントにそういうのじゃなくて」
なぜか興奮気味の雪乃に、私はこれまでの経緯をかいつまんで話して聞かせた。
こういう時、雪乃は黙って私の話を聞いてくれる。
普段はどちらかというとお喋りな方なのだけど、彼女のそんな性格に助けられたことは数えきれない。
元カレに『可愛げがない』とフラれた時だって、まるで自分のことのように怒ってくれた。
今にして思えば、若さゆえの勢いだけの恋愛だったというのに。雪乃がいなかったら、私はあんな失恋ですら引きずり続けていたかもしれない。
『そっかあ……私の知らない間に、凛にそんな色んなことが起こってたんだ』
「いい大人が恥ずかしいよね。年下の子にまで現実見ろって諭されて。そうじゃなきゃ、告白の一歩手前までいってたんだから」
『まあ、そういうこともあるんじゃない? 私だって、高校の頃担任の先生と付き合ってたし』
「えっ、うそ!? 初耳なんだけど」
『だって言わなかったもん。それに、卒業したら終わるんだって思ってたから』
そういえばと、卒業式の日に雪乃が号泣していた姿を思い出す。
卒業をするのが寂しいのだと思っていたけれど。もしかするとあの涙は、失恋の涙だったのだろうか?
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