02:楽しい職場
「ねえ、ちょっと……! 私こっちなんだけど!」
「え、ゴメン」
押されるままに歩いていた私も、駅への道とは別方向へ行こうとする彼に気がついて咄嗟に抗議の声を上げる。
彼はあっさりと背中を押していた手を離して、顔の横に両手を挙げて見せた。危害を加える気はない、と主張しているつもりなのだろうか?
「オネーサン、さっきは嫌な思いしたでしょ。オレが代わりに謝るよ、ゴメン」
「別に……キミが謝ることじゃないし」
「でもさ、偉いって思ったのはマジだから! ポイ捨てとか蹴り飛ばしてく奴も多いのに、わざわざ拾って捨てるってスゲーよ」
「そのくらい、褒められるようなことじゃないよ」
「そうか? オレはめちゃくちゃ褒められるべきだと思うけど」
何だろう。彼と話していると、調子が狂うような気がする。
ただ、私のことを本心から褒めてくれているのだということだけは理解できた。
「それより、良かったの?」
「ん?」
「お友達、あんな風に置いてきちゃったけど……戻った方がいいんじゃ」
他人事ながら、あんな別れ方をしてきて良いとは思えない。
和解をするなら早い方が良いだろうと考えたのだが、彼は先ほどと同じようにきょとんとした顔をしている。
「いいんだよ。つるんでたけど、アイツらもうダチじゃねーし」
「え、でも……」
「オネーサン何も悪いことしてねえのに、あんな風に馬鹿にするとかさ。ああいうの無理なんだよ、オレ」
口先を尖らせてそう告げる青年は、まるで自分にされたことを怒っているように見えた。
初対面の人間が馬鹿にされただけだというのに、どうしてここまで怒ることができるのだろうか?
「そっか……それでいいなら、私から言うことはないけど」
「ん、オネーサンの気にすることじゃねーよ。つーか、駅向かおうとしてる?」
「え、そうだけど」
「なら終電ぼちぼちじゃねえ? 間に合う?」
「あっ!」
彼に指摘されて、私はスマホを確認する。
会社を出た時には余裕があると思っていたのに、何だかんだとしているうちに時間が迫っていることに気がつく。
「それじゃあ、私行くね! えっと、ありがとう」
「どーいたしまして?」
そのお礼は、時間を教えてくれたことに対してか。それとも、庇ってくれたことに対してか。
自然と己の口から出た言葉を疑問に思いながらも、私は駅に向かって小走りになる。
「あっ、オネーサン!」
そんな私の背中を呼び止める声に少しだけ足を止めて振り返ると、彼がこちらに向かって大きく手を振っているのが見えた。
「オレ、春海怜央!」
もう会うこともないだろうに。
名乗る彼にどうしていいかわからずに、軽く手を振り返してから私は駅の方角へ続く道を駆け出していった。
翌朝。
いつものように家を出て、満員電車に揺られながら会社に到着する。
始業時刻より三十分以上も前に到着するのは、もはや体に染みついた習慣と化しているのだろう。
誰もいないオフィスを軽く掃除してから、自席について通勤途中に購入したコーヒーのペットボトルを開ける。一口飲むと、口内に広がる苦みが一気に眠気を覚ましてくれる気がした。
ボトルの蓋を閉めながら、私はふと昨晩の光景を思い返す。
顔はよく覚えていないのだけれど、目立つ金髪だけはやたらと脳裏に焼き付いている。
(……褒められたの、初めてだったな)
今までも、落ちているゴミを拾って捨てたことなんて数えきれないほどあった。別に誰のためでもない、見返りを求めたわけでもない行為だ。
確実に視界に入っているはずなのに、誰もが素通りしていくゴミたち。
それがまるで、誰にも相手にされない自分のように思えていたのかもしれない。
だから、その行為を認めて肯定してくれる人がいるなんて、考えもしなかったのだ。
「春海……怜央くん」
ぽつりと名前を口にして、途端に恥ずかしくなる。
もう二度と会うこともないと思ったばかりだというのに、その名前を覚えて何になるというのか。
(仕事、しよう)
私の日常の中に、彼のような存在はいない。
今日もいつものように淡々と仕事をこなすだけ――そのはずだったのだが。
「一体どういうことなんだ!?」
「す、すみません……!!」
フロアに響いた怒鳴り声に、社員たちの視線が一斉にそちらを向く。
何やら叱られているのは、昨日私に追加の仕事を持ってきた女性社員だった。
「これから取引先に持っていかなきゃならないんだ。なのに書類を紛失したとはどういうことか説明してみろ!!」
「それが、その……」
「何だ、ハッキリ言え!!」
「さ、桜川さんが引き継いでくれるというので……任せてしまったんですが……」
「何!? 桜川、ちょっと来い!!」
まさかこちらに飛び火してくるとは思わず、私はワンテンポ遅れて立ち上がる。
上司のデスクの前に並んで立つと、彼女はバツが悪そうに視線を泳がせているのが見えた。
引き継ぐとは言っていない、彼女が追加だと一方的に仕事を持ってきたのだ。
そう言ってやりたいのは山々だったが、文句を言ったところで状況が解決するとは思えない。それよりも、書類が見つからなければこの後の仕事にも支障が出るだろう。
「沼田の仕事をお前が引き継いだというのは本当か?」
「……はい、確かに私がやりました」
「……!!」
隣に立つ彼女――沼田さんは、私の反応に驚いた様子だ。私が抗議をすると思ったのだろうか?
「ならば、その引き継いだ仕事の書類はどこにやったんだ」
「仕事を終わらせた後に、沼田さんのデスクに書類を残して帰りました」
「それを見た奴は?」
「いません。最後まで残っていたのは私なので」
「それじゃあ、やっぱりお前に責任があるじゃないか。どうするつもりなんだ!?」
確かに私にも落ち度はあったのかもしれないが、今はもう昼過ぎだ。沼田さんは、出社してきてすぐにデスクの上を確認したのだろうか?
(多分、しなかったんだろうな)
青ざめてオロオロとしている彼女の様子を見るに、私に書類を預けたことすら頭から抜け落ちていたのかもしれない。
だが、彼女がそういう人間だということを踏まえて対策を講じなかったのは、私自身だ。
周囲からも、ヒソヒソと話し声が聞こえる。自分の仕事を片付けるのが早いので、人の仕事を助ける機会も多い。
表面上ではありがたがる同僚たちの中に、実は私のことをやっかんでいる人がいるのは知っていた。
「すみません。データは残っているので、すぐに書類を作り直します」
こんな時、誰も助けてなどくれない。
それをわかっているので、私は上司に頭を下げて自分のデスクに戻ろうとした。
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