大地を離れて*2
アレットは海を、然程よく知らない。海の上をほんの数度飛んだことはあるが、その程度だ。
鈍く青い波に揺れる船体の上で、アレットはぼんやりと、遠ざかっていく大地を見つめていた。つくづく、不思議な気分だ、と思いながら。
「こんな所に居たのか、フローレン」
「騎士団長殿」
そんなアレットに声を掛けに来たのはやはりと言うべきか、騎士団長であった。『フローレン』を気にするあまり、わざわざ探しに来たらしい。
「船は苦手か?」
「ええ、まあ……少し、不慣れなもので」
ゆらりゆらりと揺れる船に、アレットはどうも、違和感を拭えない。自分の力で飛べる魔物であるからかもしれないが、自分の身を自分以外のものに委ねる感覚に、どうも抵抗感があるのだ。
「はは、そうか。お前にも苦手なものがあると聞くと、少し安心する」
そんなアレットの心境を知らず、騎士団長は楽し気に笑う。
「お前はいささか、完璧すぎるように見えるからな」
「勿体ないお言葉です」
アレットはにっこり笑って答えつつ、『やっぱり、人間は完璧すぎる相手にはどうも安心感を抱きにくいらしいなあ』と学習する。人間の国で暮らすなら、こうした人間の心の機微にはより敏くならねばならないだろう。
それから少々の雑談を重ねた後、アレットは騎士団長と別れて、船室の一番奥……倉庫になっている場所を、覗きに行った。
倉庫には、食料や物資が積み込まれている。船旅の間に食べるための食料や、着替えなどの生活用品。そして魔物の国での戦利品……即ち、魔物達が磨いた宝石や、魔物達が採掘して加工した黄金細工の類が積み込まれている。
……そして、そんな物資の箱の間に。
「ヴィア」
「おやっ、見つかってしまいましたか!」
やはり、ヴィアが居た。どうやら、荷馬車の隙間に乗り込んだ後、上手い具合に体を分散させてそれぞれの物資の木箱の隙間に潜り込み、そしてこの倉庫に運び込まれたところでまた合体し直したらしい。
「はい、これ」
そして、アレットはそんなヴィアに、差し入れを持ってきたのである。
「おお、お茶ですか!更にお菓子まで!」
「さっき作ったやつ。よかったらどうぞ」
アレットは船でも、細々と働いている。厨房に入っては食事の準備を手伝い、空いた時間で茶を淹れ、素朴な菓子を焼き……そうして騎士団の者達を大いに喜ばせていた。
「ええ、ええ!ありがたく頂きますよ!」
「じゃあ、頑張って隠れてね」
「ありがとう、お嬢さん!完璧にやってみせますよ!」
ヴィアは手を振り振り、アレットを見送った。……まあ、恐らく、倉庫の食料を盗み食いしてはいるのだろうが。それはそれとして、アレットはちゃんと、ヴィアにもおやつを支給しに来たかったのである。
……やはり、人間としてずっと暮らしているのは、多少、息が詰まるのだ。その点、小さいヴィアを懐に忍ばせ、大きいヴィアを見に倉庫へ赴き、とやっていれば、多少、気分が紛れる。
アレットはそうして、閉鎖的な船での生活を上手くやり過ごしていくのだった。
船での旅は、ほんの2日程度のものであった。アレットが空を飛べば1日と掛からなかっただろうが。
そうしてアレットは(おそらくヴィアも)生まれて初めて、人間の国の大地を踏みしめる。
「わあ……久しぶり」
アレットが戸惑いと喜びを表情に滲ませていると、それを見た騎士団長は少々複雑そうな顔をしつつ、アレットをじっと見つめてくる。……要は、『フローレン』が人間の国に対してあまり良い思い出が無いらしい、という点を気にしているのだろう。
「騎士団長殿!ようやく、ですね!」
なのでアレットは元気よく、満面の笑みで騎士団長へ向かう。
「騎士団長殿の名誉とこの国の平和のためにも、裁判での証言を完璧にやり遂げてみせます!」
そして積極的な様子を見せて士気を鼓舞してやれば、騎士団長は笑って、『よろしく頼む』と嬉しそうな声を漏らすのだった。
人間の国の北部……海へ面したそこに、魔物の国と人間の国とを結ぶ港がある。尤も、魔物であるアレットは、この港を初めて見たが。何せ、魔物達は侵略してくる人間達を殺しはするが、人間の国へ攻め入ったことは未だかつて一度たりとも無いのだ。
果たして、人間の国の港は、魔物の国に勝手に造られた港よりも華やかで絢爛な場所であった。ここはやはり人間にとっては『輝かしい』歴史の第一歩を象徴する場所なのだろう。『悪しき魔物の国の制圧』を象徴するこの港だからこそ、華々しく飾り付けてあるのだ。
そして……この飾りはどうやら、帰国した第二王子を迎え入れるためのものでもあるらしい。
暢気なことだなあ、とアレットは内心で呆れつつ、騎士団長に連れられて港を進む。騎士団長が桟橋に降り立てば、港の責任者と思しき人物がやってきて、大仰な挨拶を述べた。
それから騎士団の者達が列を成して港の大通りを進めば、港に暮らしているのであろう人間達が歓声を上げて迎え入れた。その歓声に応えながら、騎士団長は常にアレットへ気を配り、アレットが離れていかないようにしていた。……どうやら、ここに住まう人間達にも『フローレンは自分にとって特別な存在である』と印象付けておきたいらしい。
アレットは『この人大丈夫かなあ』と若干心配になりつつ、正直に戸惑いを表出しつつ、騎士団長に付き従って過ごすことにする。
……後で困ったことになるのは、どうせ騎士団長である。アレットはそう、割り切ることにした。
港町を出たところに待機していた馬車に乗って、騎士団はぞろぞろと、人間の国の王都へ向かうことになった。
馬車の列が続く中に、美しく飾った豪華な馬車が一台と、鉄格子を備え付けた、捕虜や罪人を運ぶための馬車が二台交じる。言うまでもなく、豪華な馬車は騎士団長が乗る馬車であり、鉄格子の馬車は勇者レオ・スプランドールとその従者をそれぞれに運ぶ馬車である。
……そしてアレットは、騎士団長の馬車に乗せられていた。要は、最も豪華な馬車に、である。
「乗り心地は悪くないか、フローレン」
「え、ええ……このような馬車は初めてで、その、不思議な感じがしますが……」
王子であり騎士団長であり勇者でもあるアシル・グロワールのための馬車は、ふわふわとしたクッションが敷き詰められ、頑丈な造り故かあまり揺れず、そして、豪華に飾られて広々としたものであった。
騎士団長自身はこういった馬車に乗り慣れている様子であったが、方やアレットは自分の力で飛ぶことはあれども、こういった乗り物に乗ることは滅多にない性分である。強いて言うなら、人間達に紛れて荷運びの仕事をしていた3年間の間に、魔物が牽く荷馬車には何度も乗ってきたが……今、アレット達が乗っている豪華な馬車は、荷馬車の類とはまるきり異なる乗り物であった。
「そうか。まあ、寛いでくれ。無理を言って来てもらっているのだ、できる限り、不自由のないようにする」
「勿体ないお言葉です」
騎士団長は向かいの席から、なんとも愛おし気にアレットを見つめて笑う。アレットが今、この馬車に乗っていることすら嬉しいのだろう。アレットとしては少々頭が痛いことだが、騎士団長のこの盲目ぶりが有利に働くなら贅沢を言っている場合ではない。
「城に到着してから裁判まで、少々時間がかかるだろう。レオ・スプランドールの供述も聞けるだけ聞かなければならない」
「拷問が必要ですか?でしたら、私が」
「いや、城の係の者に任せるとも。証言者が裁判の前に被告と会っていたとなると、余計な疑いを生みかねない」
「ああ……それもそうですね。失礼しました」
アレットは気を引き締めつつ、再度、確認する。
……アレットの目的の一つは、勇者レオ・スプランドールの処刑を執り行わせることである。直接戦って殺す算段をつけられないなら、人間の国で、人間の手によって殺させなければならない。
そしてもう一つの目的は、勇者の遺体から魔力を回収することだ。勇者が勇者である以上、多大な魔力を持ち合わせている、ということは既に分かっている。ならば、今後の魔物の国の為にも、勇者に宿った魔力を回収していかねばならない。
特に、勇者の従者が何を企んでいるのかよく分かっていない状況である。下手に敵陣へ魔力の塊を残しておきたくはない。
……と、アレットがそのように考えていると。
「そこで……その、フローレン。裁判までの時間、少々退屈させることになるかもしれないが……」
「えっ、いや、あの、騎士団長殿、大丈夫です。そんなこと、お気遣いいただかずとも」
騎士団長が何かを申し出そうになったので、慌ててアレットはそれを遮る。
……騎士団長が何を言い出すつもりだったのかは分からないが、あまり色々と重ねられると、アレットとしても処理しきれなくなる。人間のふりをするだけでも、アレットにとっては中々の苦労なのだ。そこに更に、未知の土地で未知の活動などに巻き込まれてしまっては、尚更、適応が難しくなる。
「そ、そうか……いや、しかし」
それでも騎士団長が申し訳なさそうに、かつ残念そうに食い下がるのを見て……アレットはふと思いついて、ぽふ、と手を打った。
「あっ、でしたら、1つ我儘を申してもよろしいでしょうか」
ここぞとばかり、輝くような笑顔を浮かべて、アレットは騎士団長に願い出ることにした。
「薬缶を1つ、お借りしたく!」
「薬缶?……ああ、茶のための、か?」
「はい。1人用の、ごく小さなもので構いませんので……或いは、お鍋でも、いいのですが」
アレットの欲のない願い出に、騎士団長はぽかん、として……そして数秒後には笑いだしていた。
「ははは、欲のないことだな、フローレン!そのくらい、いくらでも叶えよう!」
騎士団長としては、『フローレン』があまりに遠慮がちなよりは、ほんの少しでも願い事を申し出てくる方が嬉しいらしい。相手が何を思っているのか分からないよりはその手掛かりがあった方が取り付きやすく、理解もしやすい、ということなのだろう。
「……それで、その、カップは幾つ、必要だ?」
「へ?」
そして騎士団長は、更に重ねて聞いてきた。耳の端を少々赤くしつつも、至って平然とした様子を努めて保ちながら。
「……茶を飲むにしろ、薬缶から直接、というわけには、いかないだろう?」
アレットは少しばかり、騎士団長の言葉の意味を考え……そして、意図をくみ取って、少しばかり目を伏せて照れたように、答える。
「……でしたら、その、2つ、お願いします」
そう答えた途端、騎士団長の表情に光が差す。そして、安堵と期待と少々の不安が混ざった表情で、更に尋ねてくるのだ。
「分かった。なら……その、時々、俺も茶を飲みに行ってもいいだろうか?」
「はい。是非!」
……答えながら、アレットは、またも、思う。『この人、大丈夫かなあ』と。
そして、同時に思うのだ。
『これは、騎士団長を誘惑するよりも、騎士団長を誘惑しながらも他の人間達の反感を買わないように立ち回ることの方が難しそうだなあ』と……。
そうして数日間の旅路の果てに、騎士団は王都へと帰還した。
聳える王城は、魔物の国のそれとは異なる意匠の建造物であり、どうにも、アレットからしてみれば違和感が拭えない。
そもそも、人間の国の街並み自体、初めて見るようなものなのだ。王城ともなれば、尚更、馴染みが無い。
「フローレン、大丈夫か?」
「ああ、はい……すみません、王城があまりに大きくて、圧倒されてしまって」
田舎者の傭兵崩れらしく尻込みした様子を見せれば、騎士団長はくつくつと笑いながらアレットを城内へと誘っていく。
門を抜け、正面の庭園の広々として整えられた様子を眺め、大きく開いた玄関口から入れば、広々としたホールに出る。磨かれた大理石の床には金糸が端に織り込まれた赤い絨毯が敷かれ、天井からは金銀細工のシャンデリアが吊るされ……如何にも絢爛な様子である。
魔物の国の王城は、もう少々素朴な風合いであった。皆が集まり、働き、笑い合う場所が王城であった。人間の国の王城は、魔物の国のそれとは機能が異なるらしい。
魔物と人間との違いを強く感じながら、アレットは騎士団長に連れられるまま、城の奥へと進んでいった。
「この部屋を使ってくれ」
そうして通された先は、階段を3回ほど上った先にある部屋であった。客室、ということなのだろう。煌びやかという程ではないが飾られた室内の様子に、アレットは少々、戸惑う。
「あの、ここは……」
「私の部屋はこの階の南側にある。この部屋から見ると、中庭を挟んで反対側の棟だ。渡り廊下には衛兵が居るが、フローレンは通すように言ってある。何かあったら遠慮なく訪ねてくるといい」
「えええ……」
アレットは大いに戸惑ったが、騎士団長は『父上に報告に行かねばならないので、少々失礼する。夕食の頃に一度訪ねに来るのでそれまで自由に過ごしてほしい』という旨をアレットに伝えると、足早に去っていってしまった。本来なら真っ先に国王へ謁見する予定だったのだろうと思われる。
……いよいよ、騎士団長について不安になりつつ、アレットは気を取り直して室内を見回す。
人間のための部屋は、アレットにとってはやはり、馴染みのないものである。ぶら下がるのに丁度良さそうな場所があまり無い。やはりベッドで眠るしかなさそうだ。
アレットはきょろきょろと視線を動かしつつ、室内の様子を見て……そして、早速、夕食までの過ごし方を決めた。
『とりあえず、この部屋に抜け道を作ろう』と。