幸福*3
アシル・グロワールは目を覚ました。
そこは野営用のテントの中であったらしい。見慣れた色の天幕が見えて、一瞬、強い安堵を感じた。
……だが、落ち着いても居られない。次の瞬間には途切れた記憶が繋がり始め……そして、自分が犯した失態を思い出す。
「フローレン、は……」
声を出すと、喉が痛んだ。咳き込んでから見回せば、枕元に水差しがあった。ありがたく中身を飲み、そして、苦い記憶を順に思い出す。
魔物の待つ中に突入し、交渉しようと試みた。だが、部下の裏切りに遭った。
……副団長が親勇者派であることは知っていたが、まさか、自分を殺そうとまで思っていたとは、思えなかった。
それから魔物達は交渉決裂とばかり、副団長の配下達を含め、兵士達を次々に殺していき……。
「……俺は、一体、どうしたのだ」
そこで自分が、人ならざる力を使った。
じっと、手を見る。何か変わったところがあるわけでもない手だが、この手に握った剣から風の刃が巻き起こり、自分の脚が人ならざる速さで魔物達を追った。
奇怪な力であったが、使い方は、分かった。まるで自分の手足を動かすように、人ならざる力を使った。
……まるで、勇者のように。
「騎士団長殿!お目覚めですか!」
そしてそこへ、兵士が1人、入ってくる。アシル自身がよく気にかけてやっていた、反勇者派の兵士だ。アシルはほっとしながらも彼を迎え入れ、自分が気を失ってからのことを聞こうと、口を開きかけ……。
「騎士団長……その瞳は……」
そこで、驚いた顔の兵士を見て、アシルは悟る。
……瞳。そう。人ならざる力をただ持つのではなく、『神に愛された者』の証が、瞳であった。
古くから、人々を助け、魔を払ってきた者達の瞳は……神に愛されし、青空の色なのである。
「……今、俺の目は、青空色をしているか?」
半ば確信をもって尋ねれば、兵士は確かに、頷いた。
「はい。まるで……勇者の、ように」
それからアシルは状況を聞いた。
『騎士団長殿が神によって選ばれた!』と興奮気味の部下を宥めつつ確認すれば、概ね、自分の記憶通りに物事が運んでいたらしい。
……フローレンを取り戻そうと躍起になるあまり、少々聞き苦しいことを言ったようであったが、それすらも熱狂的なこの兵士には『とても浪漫的でありました!流石は騎士団長殿!』と好評であったので、その辺りは定かではない。
そして……最も重要であろうことを3点、確認した。
まず、副団長の処遇。
彼の剣を弾き飛ばして拘束させたところまでは覚えていたので然程心配はしていなかったが、ひとまず、きちんと生かしたまま本国へ護送することが決定しているらしい。現時点で生きているとのことなので、後程拷問にかけて裏で糸を引く者の存在を吐かせてもいいかもしれない。あまり期待はできないが。
次に、自分自身の状況。
兵士曰く、『魔物を単身追って行かれて……その後、我々が追い付いた時には既に、騎士団長は倒れておいでで……』とのことであった。
……状況から見ても、自分は魔物に負けたのだろう、と思われた。だが、その割に外傷が無い。魔物は自分を殺さなかったのか、と、不審に思う。
だが……最後の1つを確認する中で、その疑問も大方、解けた。
「フローレンは、どこへ」
「分かりません。……我々が到着した時には魔物の姿は無く、フローレンもまた、居ませんでした。恐らくは、連れ去られたのかと……」
……心臓が鉛のように重くなる。フローレンを救い出せなかったことは、アシル・グロワールにとって酷い痛手であるのだ。何せ……フローレンは、およそ初めて現れたアシルの理解者であり、アシルが守りたいと思えた相手なのだから。
リュミエラと婚約していた時には、彼女に対し義務的に『守らねば』と思っていた。だが、それとフローレンへの思いは全くの別物であったのだ。
リュミエラとは愛し愛されるべく互いに努力をしていた。リュミエラはアシルのぴしりとした姿を好んでいたようであったし、アシルはそれが分かっていたからこそ、リュミエラにそういった姿を見せようと努力していた。
……だが、フローレンはどうも、アシルがどういう姿をしていようが関係ない、らしい。フローレンはアシルが弱音を吐こうが、それを包み込もうとした。アシルの代わりに怒り、悲しみ、そしてよく笑った。
それが、酷く魅力的だった。
なのに、失ったのだ。決して放したくなかった手を放すことになり、己の不甲斐なさに周囲が凍り付いていくような、そんな感覚を覚え……。
「それから……これを。手紙のようです。フローレンから、と思われます」
「何っ!?」
だが、落ち込んでいる場合ではない。自らを罰する機会はまた別にあるだろう。アシルは慌てて兵士から手紙を受け取る。
……そこには、あまり文字を書き慣れていないのであろう者の、少々たどたどしく、そしてどこまでも愛らしい文字が丁寧に並んでいた。
フローレンからの手紙を読み終えて、アシルは深く、ため息を吐いた。
並んでいた文章は皆、アシルを気遣うものであった。フローレン自身のことはほとんど書いておらず、ただ、目覚めたアシルを気遣う文章だけがそこにあった。
これを書きながら、フローレンはどんな顔をしていたのだろうか。アシルを慈しみ、包み込み、癒そうと茶を持ってきたあの夜のような、慈愛に満ちた表情を浮かべていたのだろうか。自らの身の危険を案じるよりも、アシルを案じていたのだろうか。
恐らく、今、アシルが無事なのもフローレンが何かしたからなのだろう。勇者としての力を見せたアシルを殺そうと考える魔物も多かったはずだ。それなのに生かされているならば、フローレンが交渉したという結果に違いないだろう。
堪らなくなる。
考えれば考える程、堪らない。今すぐにフローレンを救い出し、魔物達を皆殺しにして……そうしたいと思うが、その力は、アシルには無い。
「まずは、勇者、か……」
何はともあれ、人質として取っている以上、魔物達はフローレンに手出しをするような真似はしないだろう。少なくともあの魔物達は一度、交渉の席に着こうとしたのだ。それを踏み躙ったのはむしろ人間の側なのだから……まだ、望みはある。
「副団長を拷問にかけろ。情報を抜き出せ。そして、本国へ連絡を」
アシルは鮮やかな青空色の瞳にぎらりと強い意思を宿して、兵士へ命じた。
「副団長の裏切りと我々の動向について。……そして、『新たに選ばれし勇者』が『邪神に魅入られた者』を捕え罰する、と!」
*****
そうしてアレット達は、肉の塊を前にしていた。
不思議なものだ。命を預け、共に戦い、同じ望みを抱いていた仲間でさえ、捌いてしまえばただの肉である。そこに宿っていた強い思いも、虚ろな諦めも、全てが最早、消えてしまった。
どこかぼんやりと、現実味の無い感覚の中、皆は滴る濃厚な血を舐めとって、その肉の一切れを口に運び……。
「かったい」
慄いた。
「えっ!?なんだこれ!?硬いですね!?えっ!?えっ!?」
「うっわ、かってえ……予想はしてたが、かってえなあ、おい……」
「……自己申告通り、美味くは、ないねえ」
「え、あの、でしたら私が食べましょうか?私の体で溶かして食らう分には硬さは然程関係が……あっ、中々溶けない!?何故!?えっ、こんなに硬いのか、これは!本当に肉か!?鋼か何かでは……!?」
……ガーディウムの肉は、硬かった。魔物達が皆、慄く程に。
結果、魔物達はそれらを小さく切り分けてはよく噛んで食べることになった。最早生で食べる余裕もない。焼いた。煮た。それでも硬い。
『美味く食べよう』などという気は最早なく、ただ、『どうにかして食べよう』というただそれだけの意思で、魔物達は必死に顎を動かした。
食うのに必死にならざるをえない状況は、彼らにとって救いだったかもしれない。彼らを前に動かすものは、悲しみではなく憎しみであり、そして、その中に混じる笑いや喜びなのだろうから。
こうして、1人の魔物の体が消えるまで、皆は文句を言いながら苦笑いを浮かべ、悲しむ暇もなく、必死に口を動かすことになったのだった。
……そうして、夜が来て、朝が来る。
「……なんか、悲しいって思うより先に終わっちゃったんだけれど」
「そうだな。あと、顎が痛え。まだ痛え。ひでえもんだ」
アレットとソルはそんな話をしながら、夜が明けた空をぼんやり眺めていた。
先程まではアレットとベラトールが見張りの任に就いていたのだが、朝陽が差し込んだことでソルが目覚め、今はベラトールと交代してソルがここに居る。アレットも本当ならパクスと交代する予定だったのだが、パクスは食べ疲れてすっかり眠りこけていた。もう少し寝かせておいてあげようかな、ということで、アレットはパクスとの交代をせず、見張りを続けている。
「……なんか、慣れちゃったね」
……それに、少し、話したい気分でもあった。アレットがこのような話をしたい時には、可愛い後輩は居ない方がいい。
「ま、2度目だ。良くも悪くも、慣れたな」
「……慣れない方がいいって、分かっては、いるんだけどね」
「そうか?俺は慣れちまった方がいいと思うがな。……やらなきゃならねえことだ。魔物の未来の為に、必要なことだ。なら、一々気に病まない方がいいだろ」
ソルはアレットより、強い。アレットはそう感じながら、何か許しを得たような気持ちで、息を吐く。
そう。必要なことだ。いずれは、行わねばならないことであった。だから、慣れていくことはきっと、悪いことではない。……それでも慣れようと思えない気持ちもどこかにあり、アレットは考えを振り払う。
「……私とパクスはあなたの隊員だけれど、ガーディウムはそうじゃなかった」
代わりに、自分より強い隊長に、そう聞いてみる。
「ソルにとって、唯一の友人と呼べる相手だったんじゃないか、って、そう、思って。だから……」
「馬鹿言え。唯一、ってこた、ねえよ」
だが、ソルはへらりと笑って片翼を広げ、黒く大きな翼でアレットの肩を包み、引き寄せた。
「……なあ、アレット。お前はそう簡単に死んでくれるなよ」
頭まですっぽり翼にうずめられてしまえば、アレットからはソルが見えなくなる。
「あんな馬鹿なことするのは、ガーディウムだけでもう十分だ」
ソルの声だけを聴きながら、アレットは黙って頷く。
……同時に、趣味が悪いかなあ、と思いながら、アレットは安心するのだ。
ソルもまた、強いばかりではない。守るべき部下は居ても、対等な『友人』は貴重だろう。それを喪って、彼とて、平常心で居られる訳がない。
少しばかり震える声が、努めて明るく発されるのを聞きながら、アレットは黙って、ソルの翼に包まれていた。
冷たい北風の中でも、寄り添えば温い。寄り添える相手が居るということは、幸せなことだ。いずれ誰か1人になるとしても、その時まではこの北風の中を、寄り添って生きていたい。
「すみません、先輩ー!寝坊しましたー!」
そこへ元気に明るい声がやってくる。どうやら、パクスがようやく目覚めたらしい。アレットもソルも顔を見合わせて笑うと、パクスに手を振ってみせる。
「遅いよ、パクス。ほら、入って入って!」
「ああー、すみません、お邪魔します!わー、あったかーい!」
「俺は暖房器具じゃねえんだぞ」
アレットがパクスをソルの翼の内側へ招き入れると、パクスはとろん、と幸せそうな顔で『あったかーい!』と笑う。
……その顔を見てソルもアレットも笑いながら、思うのだ。
辛く悲しいことがあろうとも、寄り添う相手が居るならば、きっと生きていける、と。
……そして、その思いを糧に、1人でだって、生きていってやる、とも。
「東の神殿へ向かおうと思う。いいか?」
「異論はないとも。……既に勇者に荒らされた後、でなければよいがね」
そうしてすっかり太陽が昇って、一行は次なる神殿へ向けて旅立つことになる。
「これで神殿4つ分、か。……東西南北以外にも、神殿がどっかにあるんだっけか」
「姫の話だとそうだったよね。見つかればいいけれど……」
南の神殿では、神の力の欠片は既に失われていた。東の神殿はどうか同じようであってくれるな、と思いながら、一行は北東に向けて、進み始める。
「……東、か」
その道中、ふと、ヴィアは零した。
「ん?何か思い入れでもあるのか」
「ああ……いや、大したものでもないのだがね」
ソルに問い返されるも、ヴィアは曖昧に答えてそれきり、口を噤む。
……だが、ヴィアは考えていた。
到着までにもう少し、銃の腕を磨いておきたいものだ、と。
次回更新は7月6日(水)を予定しております。