光、一筋*3
ソルの姿は以前とさほど変わっていなかった。
濡れ羽色の美しい翼。両足の鋭い鉤爪。空飛ぶ者特有の、細身の体躯。翼と同じ色をした髪は少々伸びて、うなじのあたりで括ってある。
懐かしい姿をもう一度視界に収めて、アレットはゆるゆると息を吐き出した。旧知の魔物と再会できた喜びであり、強い魔物の戦士を見つけられた喜びでもあり……とにかく、喜ばしい以外の何物でもない。
「上手く化けたもんだな、アレット」
「ふふ。人間かと思った?」
「ああ。近づいてみるまで分からなかった。……俺も鼻が鈍ったかな」
ソルはそんなことを言いつつ、アレットがソルを見つめたように、アレットをまじまじと見つめた。
「……痩せたな」
そして、ぽつり、とそう、痛まし気に呟く。
……アレットはソルほどには『変わっていない』とは言えないだろう。少々疲れ、少々痩せた。人間の社会の中で魔物達を密かに守りながらの生活を送ることで、確実にアレットの生命はすり減っていた。
「んー、まあね。そんなことより、久しぶりだったな。ソルに殺す気でかかってこられるの」
ソルの痛まし気な視線から逃れる為に少々笑ってそう言ってやれば、ソルはばつの悪そうな顔をする。
「あー……悪かったよ。近づくまで気づかなかったんだ。匂いが人間っぽかったもんで、人間だと思った」
「いいよ。こっちは人間に化けて生活してるし……そもそもよく見えてないんでしょう?鳥目だもんね」
「俺はこれでもまだマシな方なんだがな」
ソルは夜目がそれほど利かない。だからこそ、ソルは夜空を得意の戦場とするアレットを副長として隣に置いていた。ソルが襲い掛かってきたのには、彼自身のそういった性質の為と……何より、疲労しているにもかかわらず神経を尖らせて警戒の任にあたっているから、ということに尽きるだろう。
「……ま、詫びっていうわけでもないが。飯、食うか?」
「えっ、あるの!?」
「人間の肉でよければ」
「やった!食べる!」
何はともあれ、久しぶりに再会した隊長と副長は、連れ立って岩場の奥へと進んでいくのであった。
「ほら。こっちだ」
そうして、ソルは岩と岩の割れ目をするすると降りていき、その下に隠された空洞へとアレットを案内した。
「えー……こんなに人間の肉があるのに、全然、匂いに気づかなかったなんて」
そこには食料がそれなりにきちんと備蓄されていた。
人間の荷馬車を襲って手に入れたのであろう麦の袋が積み上げられている他、塩の塊が置いてあったり、食べられる野草の類を干したものが吊るしてあったり……そして何より、塩漬けにしたり干したり燻したりしてきちんと貯蔵されている、肉の塊。
その肉の大半が人間のものなのだろうが、これだけ肉があるならパクスが気づいてもよさそうなものである。アレットは少々、不思議に思いつつ、すん、と匂いを嗅いでみる。だが、微かに血の香りがする程度で、然程匂いがしない。余程念入りに血抜きをしたのだろうか。
「お前はそれほど鼻が利く性質じゃあないだろ」
「私はね。でも、パクスだって分からなかった」
「パクス?パクスも居るのか!」
「人間に飼われてる。ついでに私に使われてるけど……」
アレットはそこでソルに現状を軽く説明した。パクスの名を聞いたソルはなんとも嬉しそうな笑みを零す。……ソルにとっても、パクスは可愛い後輩である。人懐こく忠実で、明るく場を和ませてくれるパクスのことを嫌う者などそもそも居ないだろうが。
「それで、この匂いの無さは何?何か秘密があるの?」
「まあな。パクスだって人間のところに居るんだ。なら、もっと嗅覚に優れた奴が人間に脅されて使われて、俺達を探し出さないとも限らない。だから匂いで辿られないように、匂いの対策はしてたんだ」
ソルは少々自慢げにそう言って、吊るされた肉の塊をちょこんと翼の先でつつく。肉の塊はふらふら、と揺れるが、やはり匂いは然程しない。
「どうやって?これ、血抜きを念入りにしたり、よく塩につけたりした程度じゃこうはならないよね?」
「そういう魔法があるんだよ。古代魔法らしい。教わって覚えたんで使ってる」
……聞きたいことだらけである。その魔法とはどのようなものか。効果の程は。性質は。そして……誰に教わったのか。
そういった疑問が渦巻く中、そんなアレットの様子を見て取ったのか、ソルはにやり、と笑って言う。
「ああ。……こっちにはパクスより鼻の利く奴が居るんだ」
そしてソルは、そっと暗がりの奥へ入っていって……そこで、魔物を1人伴って戻ってきた。
……新たに現れた魔物を見て、アレットは息を飲む。
全身を覆う銀の毛並み。アイス・ブルーの鋭い双眸。鋭い牙と爪と、何より鍛え上げられたその体躯。
……魔物の国で最も名を馳せたであろう、人狼の姿がそこにある。
「初対面じゃあないだろうが、だが一応、紹介しておこうか。アレット。こちら、ガーディウムだ。……『姫君の盾』の人狼ガーディウム。知ってるだろ?」
「……勿論。知ってる」
圧倒されながら、アレットは目の前に立つ人狼を見上げる。
見上げるだけでも、彼が確かな実力を持つ魔物だと、はっきり分かった。……魔物であるならば、皆が同じように感じるだろう。何せ、魔力が多い。見て分かる程に。
「ガーディウム。こっちはアレット。俺のところの副長だ。話したこと、あったか?」
「ああ。何度も聞いている」
人狼ガーディウムは少々呆れたようにソルを小突き、ソルは『そうだったか?』とそれに笑う。気安い間柄のように接しているが……アレットは副長とはいえ王都の警備を行う兵士に過ぎないのに対し、ガーディウムはこの国で最も尊い者を守る任務に就いていた近衛兵である。身分が違う。
「『姫君の盾』ガーディウム殿。お会いできて光栄です。えーと……」
少々緊張しながらアレットが進み出ると、目の前の人狼は、ふ、と息を漏らして笑った。
「畏まらずともいい。俺も貴殿も、今は一介の魔物であり、戦士だ。地位も何も在りはせんだろう」
「こいつはこういう奴だ。アレット。気にしなくていいぜ」
更にソルもそう言って笑って、ガーディウムの肩に翼を回す。ガーディウムはそれに嫌な顔をするでもない。成程、どうやらソルの言う通り、彼は『こういう奴』のようだ、とアレットは納得した。
「アレット。俺達は姫を救い出す。協力してくれるか」
「勿論。私、それを言いたくてあなた達を探してたんだから!」
アレットは真っ直ぐにアイス・ブルーの双眸を見上げ、微笑んだ。
ガーディウムは強い戦士だ。そしてアレットもまた、誇り高き戦士である。
平時ならともかく、今、この時世で身分など関係ない。互いに戦士。それだけだ。
アレットはそう割り切って、新たに出会った仲間に接することを決めた。
それから、アレットとソル、ガーディウムの3人は、食事を摂ることになった。アレットは食事より先に情報の交換や姫君救出に向けた話をしたかったのだが、ソルは『いいから食え。食いながらでも話はできるだろ』と強硬に主張し、肉を焚火で炙り始めたのだ。
……ソルとしては、自分の副官が痩せ細って尚食事を疎かにしようとしているのが我慢ならなかったらしい。
昔っからこうだったっけなあ、などとアレットは思い、可笑しさと呆れと申し訳なさが入り混じった気持ちで焚火と焼けていく肉とを見つめた。
ぱちぱちと爆ぜる薪の音と、焼けていく肉の香り。夜風の冷たさと焚火の温かさ。煙が少々目に沁みるこの感覚が、ひどく懐かしい。
兵士として働いていた頃、野営をする時、こんな調子だった。仲間と共に焚火を囲んで、食料を焼いたり火で温まったり。気は抜けないながらも穏やかな気持ちで過ごすことができたあの時を思い出して、アレットはそっと微笑む。
「……おい、何しんみりしてるんだ。食え」
そんなアレットの眼前に、焼けた肉の塊がずい、と差し出される。ソルが翼に埋もれ気味の手に握って差し出してきたそれを受け取って、アレットは現実へ意識を戻す。……アレットはどちらかと言えば花の蜜や果物を好む生き物ではあるが。それはそれとして、肉も食らう。
そして何より……今、正に空腹であった。
「やったー!お肉!」
懐古はこの程度にして、今は目の前の肉に意識を集中させるべきだ。アレットは瞬時に頭を切り替えて、香ばしく焼けた肉へ向かう。
アレットの口には少々大きすぎる肉の塊ではあったが、小さな口で懸命に齧りついて肉と格闘する。香ばしく焼けた肉の表面を噛み破れば、中から溢れる肉汁とその旨味が口の中に広がる。脂を落とさないように気をつけながら、もう一口、更に一口、と食べ進めていくと、体に力が漲るような心地さえした。
「ははは。沢山食えよ」
ソルはアレットの背を翼でもそもそと軽く叩きながら、何とも嬉しそうにしている。……ソルの趣味はよく分かんないなあ、とアレットは以前から思っていたが、まあ、要は世話好きなのだ。この男は。
腹が減っている隊員が居たら屋台の軽食を奢ってやり、体調の優れない隊員が居たら自分が当番を代わってやる。以前からソルはそうだった。
……今、こうして『世話』をされているということは少々癪ではあるが、食事無くして戦士が働けるはずもない。今はひたすらに食い、休むことがアレットにできる仕事の1つなのだ。
そうしてアレットが肉の塊を1つ食べ終えた頃、肉を2つ食べ終えたソルと3つ食べ終えたガーディウムは顔を見合わせ『そろそろいいか』というように頷き合うと、話し始めた。
「さて。アレット。もう何も取り繕わずに言っちまうが、こっちは戦力が足りない。俺とガーディウムと、2人しか居ねえ。姫様を救うには心許ない」
ソルの言葉を聞いて、アレットは少々驚いた。この場に居るのは確かにソルとガーディウムだけだが……。
「ガーディウムは……その、姫様や他の近衛と一緒に居たのかと思っていたのだけれど」
正直に、そう尋ねてみた。
……ソルはともかく、ガーディウムは『姫君の盾』である以上、レリンキュア姫と行動を共にしているのだとばかり思っていた。その姫が人間に捕らわれているのだから、何かがあったのだろうが……。
「途中までは、そうだった。だが……」
ガーディウムもアレットの疑問は尤もだと思っているらしく、眉間に皺を寄せながら頷く。だがどう説明したものか、とばかり、言葉を詰まらせて唸るばかりだ。
「あー……そこから先は経緯をそのまま話した方がよさそうだな。じゃあ、ガーディウム。頼んだ」
そこでソルはため息交じりにそう言って、それから隣のガーディウムを羽の先でつつく。
「お前の方から話すものだと思っていたが」
ガーディウムがそう首を傾げると、ソルは苦い顔でぱたぱたと翼を振った。
「俺の今までの生活なんざ、何も面白くねえだろ。ついでに必要でもねえ」
「そうか。俺はそれなりに興味深いと思うが」
「お前みてえな血の気の多いのには、な。アレットの趣味じゃねえよ」
私だって別に、血の気が少ないわけじゃないんだけどなあ、とアレットは内心で思いつつ、だが、ソルに反論することはしなかった。ソルが『アレットの趣味じゃない』と言うのならばそうなのだろう。下手に聞かないに限る。
「……まあ、そういうことなら構わん。王都陥落からの俺の行動だが」
そうして、ガーディウムが話し始める。アレットとしては、ソルの行動もそうだが、ガーディウムの今までにも興味があった。
「俺は他数名の近衛達と共に、レリンキュア姫を連れて王城を脱出した。これは魔王様からの直々のご命令であった。……そうして魔王様が勇者を引き付けておられる間に、俺と他5名の近衛と姫、合計6名で王城を脱出し、北の神殿へ逃れた」
「き、北の神殿!?」
ガーディウムの言葉に、アレットは驚く。気になるところは幾つもあるが、それらを『王城を逃れて北の神殿へ向かった』というその一文への驚きが上回る。
何せ……『北の神殿』は、魔物の国の最北端だ。王都からあまりにも遠すぎる!
「……それだけの距離をどのようにして、と思っているのだろう?」
「え、ええ。勿論。あの包囲を抜けたっていうこと自体、信じがたいくらいなのに……」
アレットは王都陥落の日、市街地で戦っていた。だが、姫を連れた一団が逃げていったという話は聞いていない。どんなに秘密裏に動けたとしても、姫君の一団は必ず目立つはずだ。追う人間が居なかったとも思えないが……。
「王城の地下には魔法仕掛けの脱出経路がある。俺も、魔王様より直々に教えて頂くまで存在を知らなかったが」
「……その脱出経路を使えば、北の神殿まで行けた、っていうこと?」
「そうだ。瞬時に移動できる。にわかには信じがたいだろうが……」
ガーディウムの言う通り、にわかには信じがたい。だが、事実、姫君は逃げおおせた。それも、人間達に『生死不明』と言われる程度には、秘密裏に。
それを実現したのだというのだから、魔法仕掛けの脱出口が存在するという話も本当なのだろう。少なくとも、あの混戦状態の市街地を抜けて脱出したというよりはまだ、現実味がある。
「我々はそこで姫、姫君を次の魔王として即位させるための儀式を執り行うことになった。だが……いや、そうだな。まずは……魔王の座がどのようにして継承されるか、知っているか?」
ガーディウムの話はまた続く。またしても少々不可解な質問をされて、アレットは首を横に振る。
「では、『魔王』という存在について、知っていることは」
「……魔王とは、魔物のための王である。強大な魔力を持ち、その魔力が魔物の国に行き渡ることで魔物達は生きていける。魔物達は魔王の魔力を受けてより強く健やかに生き、魔力が溢れた土地では魔物が新たに生まれる」
教本に載っていた内容をそのまま答えると、ガーディウムはその通りだというように頷いた。
「ああ。その通りだ。魔王とは、魔物を支え、魔物を生み出す存在でもある。……そして、魔王は代替わりしていくものだ」
「代替わり……つまり、姫様が次期魔王になる、ということだよね」
「そうだ。そして、それは即ち、魔王から次期魔王への魔力の譲渡に他ならない」
魔王は世襲制ではない。そもそも魔物は魔物から生まれるとは限らないのだから、当たり前といえば当たり前だが。
よって、魔王を魔王たらしめるものは、王位の継承であり……魔王としての力の譲渡、ということになる。
「……じゃあ、姫様は、魔王の魔力を」
「お持ちではないのだ」
だが、ガーディウムは苦い表情でそう言った。
「……次期魔王として育ち、魔王の器をお持ちでありながら、魔力を継承する余裕が無かった。それによって姫様は……魔王になることができない」
魔王は死に、そして、魔王の魔力を譲渡されないまま、姫は逃げることになった。
とすれば、魔王の魔力は、一体どこへ行ったのか。次なる魔王は、どのようにして生まれるのか。……否。
「つまり、魔王は……このまま永遠に、生まれない?」
アレットはそう、恐る恐る確認する。
魔物の希望、最後の望みである次期魔王、レリンキュア姫。彼女が魔王となることだけが、唯一、この鬱屈とした状況を打破する方法であるはずなのだ。だが、それが損なわれたとなれば……。
「いや。そういうわけでもねえらしい」
だが、アレットの不安を打ち消すように、ソルがあっさりとそう答えた。
「……そんな顔するなよ。大丈夫だ。まだ望みはある」
「……本当に?」
潰えかけた望みを再び見出し、アレットは藁にも縋るような心地でソルの顔を見上げ、ガーディウムの顔を見つめて問う。すると、ソルもガーディウムも、確かに頷いたのだ。
「まず、魔王様の魔力は、消えてしまったわけではない。自然とこの大地へ還っていくのだ。……だからこそ、魔王無き今の状況でも、俺達魔物は生きていられる」
「ああ……そっか」
アレットは、ふ、と息を吐き出しながら『当たり前』が未だ続いていることに思い当たった。
魔王によって与えられる魔力無くとも生きていられるのは、大地に染み渡った魔力を吸っていられるからであり……そして、その大地に染みた魔力とは、魔王の血と命と共に流れ出たものであったのだ。
今、アレットが座っている大地にも、魔王の魔力が染みている。それを微かに感じ取って、アレットはただ、自らの主君であった魔物の死を悼み、その愛を思う。
「そして、レリンキュア姫が魔王としてこの世界に君臨することはまだ可能だ」
「えっ」
更に続いた言葉に、アレットは驚く。まさか、大地に染み渡った魔力を吸い上げ集めることなどできないだろう。砂の上に零した水を集めることができないのと同じだ。無論、大地から魔物が生まれるという形で魔力が大地から取り出されていくのだろうが、それはあくまでも徐々に、という話だ。魔物が魔王になれる程の魔力をすぐに、という訳にはいくまい。
「魔王様より直々に魔力を、というわけにはいかなくなった。大地に流れ染みわたった魔力を集めることはできまい。だが……我らが神の力が各地に眠っているのだ」
アレット達魔物にも信仰がある。魔物達の神……人間が『邪神』と呼ぶそれは、魔物の始祖であり、全ての『魔』の始まりであったと伝えられている。
無論、神話に信憑性など求めてはいけない。だが、事実、魔力と呼ばれるものが世界に満ち、魔物が生まれてきたことは事実。そして、神の痕跡はそこかしこに残っている。
魔物の存在然り、魔王の存在然り。強大な魔法によって行われた治水の跡も、山を穿って造られた通り道もそうだ。古代の遺跡の中には、膨大な魔力を持ちでもしない限り建設できないような造りとなっているものもある。
その神の力が、集まった状態で残されていたとしたら……確かに、姫が魔王となるだけの力となるのかもしれない。
「……もしかして、北の神殿、って」
「そうだ。北の神殿には、確かに魔力が眠っていた。姫はそれを受け継いでおられる」
そして既に、効果は実証済み。アレットは思わず拍手して、その吉報を迎え入れた。
「そして……だからこそ、姫様をお救いせねばならぬのだ。我らの最後の希望を、ここで潰えさせるわけにはいかん!姫をお救いし、各地に残る神の力を全て、姫に受け継いで頂く。そうすることで新たなる魔王を生み……この世界を人間の手から救い出すのだ」
確かな道が、見える。
あやふやに、ぼんやりとしか見えていなかった希望の光だったが、今ははっきりと、目を灼く程に強かった。