遺す者*2
ふと皆が目を開けた時、そこは雪の降り頻る山の麓であった。どうやら、西の神殿のある山の麓に飛んだらしい。
「……大して飛んだようには見えんな。全く、運の悪い……」
姫はそうぼやくと血を吐いて咳き込んだ。雪が薄く積もった地面に赤く点が散る。
「くそ、くたばる前にもう一度、必要か……全く」
「お止めください!今度こそ、お体が持ちません!」
次いで、再び動こうとした姫を、今度こそガーディウムが止めた。掴んだ肩は酷く華奢で、握れば壊してしまいそうに思えた。
姫は、こんなにもほっそりとしていただろうか。堂々と歩き、よく笑い、時折ガーディウムを揶揄っていた姫は、いつも大きく見えていたというのに。
ガーディウムがどこか愕然とする中、姫はそっと、ガーディウムの手を払いのけようとする。その手にはまるで力が入っていない。それがまた、ガーディウムを動揺させた。
「止めるな。体が持たぬというのならば……」
そして姫は、笑って言うのだ。
「この体を、お主らが食らえばよい。それで何も変わりなく、我らの未来を繋ぐことができよう」
「妾を食って魔力をものにしろ。そして……妾を食って魔力を得て、勇者に対抗し得る力となれ」
姫の言葉は、皆を唖然とさせた。
「それ以外に方法は無い。……今の妾には最早、次なる魔法を使って生き残る体力が無い。そしてお主らには瞬間移動の魔法を使う程の魔力が無い。だが今、この場に留まっていては確実に勇者に追いつかれる。……ならば、妾が魔法を使って死んだ後、食ってお主らが魔力を得て、そして妾の代わりに魔物を率いればよかろう」
ガーディウム以外にとっては今初めて聞いた話であり……ガーディウムにとっては、既に知ってはいても到底受け入れられない言葉である。
「なんと残酷なことを仰るのです、姫!俺は、俺は……貴女を食らうためにお守りしてきたわけではない!」
血を吐くように叫ぶガーディウムの声が、周囲の大地を震わせた。
「せめて……貴女の死を避けられぬとしても、弔いを」
「くだらん。ならば命令だ。妾を食って力とせよ」
だが、ガーディウムの悲痛な叫びも姫はバッサリと切り捨てる。構っている余裕が無い以上に、姫の決意が固いからなのだろう。
「……そして未来へ繋げ」
「姫……」
結局は同じことである。王都を出立する際の、多くの魔物達と。姫は自らが死んででも、自らが望む未来へと同胞達の手が届くようにと願っている。それだけのこと。
……だが、それこそ、ガーディウムにとっては許し難い。
「……だとしても姫が魔物達の希望であることに変わりはありません!あなたが次期魔王であるからこそ賛同し、共に行こうと思う者は多いはずです!」
「その程度、力で捻じ伏せて従わせろ。それに……どのみち妾は持たんよ」
ガーディウムの言葉も空しく、姫は首を横に振った。
「……神の力はちと、一介の魔物の身には強すぎる。本来なら1つにつき半年程度の時間を掛けてゆっくり吸収するものなのであろうな」
そんな、とガーディウムは絶句した。
ならば半年の時間を掛けてくれれば、と思い、そう口に出しかけ……だが、それはできない。
姫が北の神殿でも無理をしていたことを、ガーディウムはよく知っている。だが、あの時にそうしていなかったなら、公開処刑のあの日、王都を脱出することも難しかっただろう。或いはそもそも、姫が生きてあの場に居ることが無かったのかもしれない。
……必要なことだった。だが、許し難いことでもあった。ガーディウムは理性と感情の板挟みになって口を噤む。
或いは……忠義と、忠義以外のなにかの板挟みになっていたのかも、しれないが。
ふ、と息を吐いて、レリンキュア姫は存外落ち着いた気持ちで居た。
「仕方あるまい。あの場から逃げ出すにはこうするのが一番であった。違うか?」
姫はすこぶるあっさりとしていた。自らの死は、来たる未来への一歩に過ぎない。これは必要な過程なのだと、納得していた。自らもその一部であると。
「そしてこの先、勇者を殺し、我らの国を立て直すには……やはり、これが一番であろう。違うか?」
姫は自らを先駆者として自覚していた。即ち……未来へ駆けていく者、ではなく、未来の可能性を同胞へ遺す者、として。
それが王たるものの役目であると、そう理解していた。かつて、魔王がそうだったように。
魔王が死んだ直接の理由は、勇者に負けたからである。
そして何故魔王が勇者に負けたのかといえば、勇者がそれほどまでに力を手に入れたことが何よりの問題であったが……同時に、魔王が全ての力を自らのものにしていなかったことも、一つの要因であったと姫は見ている。
……魔王は自らの魔力を、大地へと還元していた。そうすることで生まれ来る魔物を増やし、強化していったのだ。
常々魔王は言っていた。『力は周囲へ分け与えておけ。自分一人で全てをやらずともよくなる』と。
魔王は、最強の者が1人いることより、ほどほどに強い者が複数いることを望んだ。その方がより効率的に戦力を向上させることができると考えており、また、自らが唯一の存在であることを恐れてもいた。
そうして姫は魔王の傍ら、その姿勢を学ぶ中で同様に考えるようになっていったのだ。
……それはきっと、独りにならない為。ある種の独善であり……それでもそれが、彼女にとっての希望であった。
「……ま、世話を掛けたな。その代わり、皆、妾の肉を食らって魔力を得ていくがよい。何、神の力を吸収しやすい形にしておいてやったようなものであるからな。食らえば即座にある程度の強化が望めるはずよ」
「姫。始めから、こうするおつもりだったのですか」
「さて、な」
咎めるようなガーディウムの言葉を笑って流しながら、姫は思う。
確かにこうするつもりであったのだろう、と。
……人間達の手に捕らえられ、捕虜として過ごす傍ら。姫は幾度となく命を絶つことを考えた。だがそうしなかったのは、自らの持つ魔力を引き継ぐ必要があったため。姫は、ただ死ぬわけにはいかなかったのだ。
であるからして、今は……重荷をようやく下ろせるような気持ちで居る。
「まず……パクス」
「は、はいっ!」
「お主、阿呆であろう?」
「はい!アホです!すみません!」
ぴん、と尻尾を立てつつ敬礼の姿勢を取るパクスを見て、姫は笑う。やはりこの犬は中々良いなあ、と思うのだ。
「なら妾の脳は食うな。阿呆のままで居ろ」
「ええええええ!?どういうことですか!?なんで!?なんで!?」
「その方が良い。……最強の魔王1人で居るよりも、お主のような者が共に居る方が、よいのだ」
姫はふっ、と笑う。パクス以外の皆にはその意味がよく分かるだろう。……今までの旅路は決して長いものではなかったが、それでも、パクスによって楽しく過ごせた経験は数多い。今後の旅路にはパクスのような者が必要なのだ。
「……ま、そういうわけだ。脚でも食っておけ。食いではあるだろう」
「えええ!?姫の脚をですか!?なんで!?」
「……未だに話についてこれておらんこの阿呆に誰か教えてやれ。妾はこれから死ぬのだと」
「ええええええ!?姫、死んじゃうんですか!?なんで!?」
おろおろしているパクスを引きずってソルとアレットが諸々を説明しに行った。その間に姫は、ヴィアへ向き直る。
「ヴィア。……ま、今後もよく皆を助け、魔物のために生きるように」
ヴィアは強く困惑した様子で帽子を取り、姫の傍らに跪いた。短い付き合いであったが、姫はヴィアのことを不審には思っていない。裏があろうともその裏まで含めてこの者は確かに魔物であると、姫はそう、踏んでいる。
「お主には妾の血をくれてやろう。……ま、どうせ皆が妾を食らう途中で漏れるであろうからなあ……その血を効率よく摂取できるのはお主だけであろう?掃除係のようで何やらすまんが」
「いえ……身に余る光栄です」
ヴィアの畏まった態度を見て、姫はふと、笑う。
「ま、妾の血を摂れば必ずや、今までより強くなるであろう。その力を持ってしてお主が何をするのか、この目で見たいようにも思うが……その役は他のものに任せるか」
ヴィアが何を考えているのか、それは分からない。このまま旅路を共にしていればいずれ分かる日も来るだろうが……それは少なくとも、今ではない。
それを少々惜しく思いつつも、姫は恐らく自分の血がヴィアの望みの助けになるであろうことを思って笑った。
「……その心までも美しい姫君よ。気高き花よ。……必ずや、魔物の勝利を捧げます」
「うむ。大儀」
少々硬い言葉を聞いた姫は、次いで戻ってきたソルとアレットに向き直る。
「ソル。アレット。お主らには腕をやろう。右でも左でも好きにせよ。食い足りなければパクスから奪え」
「そんなあ!?」
「よーし、パクス。覚悟しておけよ。アレットはともかく、俺は腕一本じゃ腹いっぱいにならねえ」
ソルはパクスの背中をぺし、と翼で叩き……そして、姫に向き直った。
「……俺は姫様に直接お仕えしていたわけじゃあありませんでしたが、この道中、一緒に居られたことを誇りに思いますよ」
姫はふっと笑って、次いで、アレットを見る。
……アレットは赤い瞳にただ困惑を湛えていたが、それでも、決意は固まりつつあるようだった。
「アレットすまぬな。酷なことをさせるが」
「私は……私は大丈夫です。どちらかというとそのお言葉は是非、ガーディウムに」
「何、そいつには気遣いなど要らぬわ。妾の半身のようなものぞ?」
姫はアレットの言葉にからからと笑う。その返事こそがガーディウムへの気遣いとなるのだろうが、未だ、ガーディウムは決心がつかない様子であった。
「……フローレン達がそうしたように、姫もまた、こうされるんですね」
アレットはガーディウムの為に時間を稼ぐべく……そして、自身の気持ちを整理するべく、言葉を紡ぐ。
「とても悲しいですけれど……まだ多分、気持ちが追い付いていません。その内ちゃんと、悲しさと悔しさが追い付いてくるんだと思うんですけれど」
「なら追いつかれる前に妾を食ってしまえ。くれぐれも、妾の力を悲しみなどにくれてやるなよ?」
「あはは。分かってます。大丈夫です。どんなに悲しくても、私達は……」
にやりと笑った姫につられてアレットも微笑む。傷む傷を庇うような笑みは、悲しみに追いつかれつつあることを如実に物語っていたが。
「……不思議ですね。まるで魔物が、1つの生き物であるみたいで……」
「……それでよい。皆が、皆の為に生きるのだ。我らは姿形こそ違えども、元は同じく魔力でできておるのだから」
姫は目を閉じて、思う。
王都を出る時の、自らが守るべきであった魔物達の死を。
彼彼女らの決意は、自分達を生かした。そして自身もまた、希望を遺すべく動いている。
……身勝手であることだ、と姫は自嘲する。
皆が……特にガーディウムが、自身の死を望んでいないことはよく分かっていた。だがそれでも姫は死ぬ。
そうすべきなのだ。例え、姫の体が健康体であり、今後も旅を続けていられるとしても。それでもいつかは、こうすべきなのだ。魔王としての力を手に入れつつある姫は、確かにそう思う。
……そのいずれ来る『最後』を誰かに任せることを申し訳なく思いはするが、先陣を切るのだから許せ、とも思う。
そして……ここに居る皆の為ではなく、全ては魔物全体の為なのだ。その為ならば、ここに居る皆もまた犠牲になることを厭わないであろうと、姫はよく知っていた。
「……魔物の王としては落第であろうが、ま、許せ」
姫は魔法を行使し始める。瞬間移動の魔法だ。今度こそはもう少し、勇者から離れた位置に、と願って。
「ああ、無論、弔いは要らぬ。王都の前で死んでいった者達同様、妾にも棺は必要ないぞ。お主らの枷となるために死ぬわけではないのだからな。食べ残しは適当にそこら辺に捨て置け」
そしてそう一言付け加えて、いよいよ、魔法が発動する、という時。
「いいえ」
まるで姫を憎んでいるかのように強く強くこちらを見つめるガーディウムの瞳が、姫の目前にあった。
「一欠片たりとも、残しませぬ」
確かな覚悟を、伴って。
覚悟を決めたらしいガーディウムのその瞳を見つめて、姫はどこか歓喜に似たものを味わう。こんな時、こんな状況であるというのに気持ちが浮き立つような綻ぶような、そんな心地であった。
「そうか。なら、ガーディウム。お主には目と心臓をくれてやる」
綻ぶ口元もそのままに、姫はそっと、ガーディウムの頬に手を添えた。
「妾の目も、心の臓も。……お主だけのものだ」
それからふと気づけば、一行は枯草の大地に居た。明らかに先程までの土地からは離れた場所である。姫の魔法は確かに成功したらしい。
……そして。
「……姫」
姫は、眠るように事切れていた。ガーディウムが呼びかけても返事は無い。
そっと抱き上げてみると、未だ、姫の体にはぬくもりが残っていた。だが残ったぬくもりもそう遠くなく、雪交じりの風に吹かれて消えていくのだろう。
「希望など残らずとも、よかった。俺はただ、貴女だけを、望んで……」
死体となった姫の顔を見下ろして、ガーディウムは呟きかけた言葉を呑み込んだ。
呑んだ言葉の代わりに溢れ出ようとする涙を耐えるべく空を見上げれば、雪が舞う夜空は只々濁って暗い。
ガーディウムは、吠えた。
……ただ、吠えた。言葉にならない諸々はただ遠吠えとなって、平野へと響き渡っていく。
遠吠えが止んだ時、ガーディウムはじっと、姫を見下ろしていた。次第にぬくもりを失っていく体。閉じられたまま永遠に開かない目。
それらをじっと見つめたガーディウムは、姫にそっと顔を寄せる。まるで口付けるかのような動作であったが……姫に触れる直前、ぐわり、と顎が開かれる。そして。
ばくり、と。
一口に姫の頭部を食い千切れば、赤い血潮が吹き出して大地に滴る。咀嚼もそこそこに、ガーディウムは自分が守るべきであった者の頭部を呑み込んだ。
それからは黙々と、作業が進んだ。皆が静かに姫の体であったものを飲み込んでいった。
姫の細い左腕はアレットの腹の中に収まり、右腕はソルのものとなった。ソルは更に、食の進まない様子のパクスを手伝って右大腿部も食べ始める。ソルもアレットも、魔物の戦士である。この程度の覚悟はできていた……と言うには、あまりに重く惨い状況ではあるが。それでも2人は黙々と動いた。
パクスはどうにも、悲しみが先行してしまっているようで、動作が酷く緩慢であった。だがそれでも魔物の戦士として、自らの為すべきこともその意義も、きちんと理解してはいる。
ヴィアは自身の体を薄く伸ばして、まるで絨毯か何かのように皆の下に潜り込んだ。滴り落ちた血はヴィアの上に落ち、小さな波紋を残して溶け込んでいく。
そしてガーディウムは……言葉通り、一欠片たりとも、姫を残すつもりは無いらしかった。
肉を噛み裂き、骨を噛み砕き、それらを一飲みに腹へ送り込んではまた顎を開く。
……パクスとソルが残した大腿骨も、アレットが残した腕の骨諸々も、全て、ガーディウムが噛み砕いて腹に収めた。
そうして……夜が明ける頃、そこには姫の如何なる痕跡も残されてはいなかったのである。