来たる朝へ*1
アレット達は枯れ芒の野原に立っていた。
吹き渡る風が、さわさわ、と芒を揺らして通り過ぎていく。その風に髪を靡かせて、アレットはようやく、自分達が転移の魔法によってここへ移動したのだ、ということを思い出す。
「成功、したか……」
レリンキュア姫は安堵の表情を浮かべると……その場に倒れた。
「姫……姫!」
姫に真っ先に駆け寄ったのはガーディウムであった。ガーディウムは依然として魔法の影響を受けており、自分がどこに居るのか、何故ここに居るのか、意識が混濁して現実に追い付いていない様子ではあったが、それはそれとして姫が倒れれば駆けつける、と彼自身の中に刻み込まれているらしい。
「ふふ、ガーディウム。無事か」
「何故、俺の魔力を使わなかったのです!」
姫の体を抱きとめたガーディウムは、我を忘れたように姫に詰め寄る。
「その分の魔力は、まさか、姫が……」
「案ずるな」
だが、狼狽するガーディウムに呆れたような顔を向けた姫は、よいしょ、と、ガーディウムの腕の中、体を起こす。
「……死んだ者の魔力が、大地に、染み渡り……妾を、助けたのだ」
未だ、姫の肩は荒い呼吸に揺れ、その顔には血の気が無い。魔法を行使しすぎたのだ。
「……我が盾を失わずとも、よいように、と」
だが、青ざめた顔の中でも、姫の黄金の瞳はぎらりと輝いて強い意思を宿していた。
「これ以上、失ってたまるか」
「姫……」
……ガーディウムはあそこで死ぬつもりだった。だが、姫はそれを良しとしなかったらしい。
勇者を防ぐ壁となって死んでいった魔物達の魔力を扱うのは、そう易しいことではなかっただろう。だが、それをやってでも、姫はガーディウムを死なせたくなかったのだ。
「勘違いするなよ、ガーディウム。妾は未来を見据え、あそこでお前を捨てるべきではないと踏んだのだ」
姫は地面に腰を下ろすと、そこでじとり、とガーディウムを睨んだ。
「これから先、神殿を巡り、邪神様のお力を授かるにあたって……間違いなく、人間との交戦は避けられんだろう。どこかでは必ずまた、戦うことになる。その時に戦士は1人でも多い方がよい。違うか?」
「……仰る通りです」
「その命までもを妾に捧げるという忠誠はまこと大したものよ。だが、命を粗末にはするな」
姫はそう言うと、ふ、と息を吐き出した。
「……疲れた。少し休む」
更に、その場にころりと横になってしまったので、慌ててガーディウムが自分の外套を姫に被せる。
……かと思えば、もう姫は意識を手放しており、すうすうと静かに寝息を立てていた。
「お疲れだったんだな」
「……ああ」
姫が寝入ってしまった様子を覗き込んで、ソルとガーディウムはため息を吐く。安堵であり、心配でもある息を長く細く吐き出して、それからソルは、唇を噛む。
「……まあ、無理もねえか。牢から出されてすぐ、立て続けにあの魔法だ。お命があることだって幸運だと思わなきゃあな」
「おい、ソル」
ソルの無礼ともとれる発言にガーディウムは憤りかけたが、冷えたソルの瞳を見て、すぐにその熱を収めた。
「事実だ。姫様も俺達も、死んでいたっておかしくなかっただろ」
「……そうだな」
ガーディウムもその場にどかりと腰を下ろすと、苛立ちとやるせなさに任せてがしがしと首の後ろを掻く。
「くそ、勇者、か……あれはまた、追ってくるだろうな」
「ああ。間違いねえ」
ソルはその場に座ることはせず、ただ遠く、地平へ目をやった。
「……次はいよいよ、俺達が死ぬかもな」
吹き抜けていく風のような冷たさと空虚さを伴ったソルの言葉を聞いて、アレットは思い出す。
勇者に対して、自分が向かっていこうとしたあの時の恐怖を。そして……そんなアレット達の代わりに死んでいった、魔物達のことを。
……フローレンの、ことを。
フローレンが死んだ。
アレット達を……魔物の国の希望である姫を、逃がすために。その礎となって……死んだのだ。
あんなことをする少女だと、知らなかった。芯の強さは知っていたが、それにしても、まさか、あのように勇者に立ち向かっていくなんて。
何も知らなかったな、と、アレットはふと、思う。
フローレンとずっと一緒に居たと思っていたが、フローレンのことがよく分からないままだ。
そして、最早永遠に、分からないままなのだ。もう二度と、語り合うことも笑い合うことも、できない。
……大切なものを失った悲しみもまた、じわじわとアレットを侵食していく。
「……お前らに見張りは任せられそうにねえな」
悲しみに沈みきりかけたその時、ばさり、と漆黒の翼がアレットに被せられる。
「わぷ!」
アレットから少し離れた位置では、アレット同様にソルの翼を被せられたパクスが居た。
パクスもまた、ずっと厩で一緒だった魔物達が死んでいくのを目の当たりにしている。アレットがフローレンを失ったのと同様、パクスもまた、やりきれない思いを抱えているのだろう。だからソルは、2人纏めて翼の内側に入れた。
「お前らも休め。見張りは俺とガーディウムでやる」
ソルの力にぐいぐいと押されれば、パクスはともかく体の軽いアレットはすぐに動かされてしまう。そのままアレットはパクスと一纏めにされて、背後からすっぽりと、漆黒の翼に包まれることになる。
滑らかな手触りの羽毛の下で、とくとくと、血が流れているのが分かる。そして左肩に感じるパクスの体温と、背中に感じるソルの体温とに、アレットの心が少しずつ融けていく。そんな気がした。
「隊長、俺、俺……やっぱりあの時、あいつらと一緒に勇者のところへ行ってた方が良かったんじゃないかって、思ってて……」
アレットよりはパクスの方が、気持ちを言葉にするのが上手いらしかった。アレットがどこかで思い、それでいて口には出せなかった言葉を、パクスは真っ直ぐに吐き出した。
「俺は生き残ってよかったんでしょうか」
「……よかったさ。少なくとも、俺にとってはな」
ソルは自分自身にもまた言い聞かせるようにそう言うと、より一層強く、2人を抱きしめる。
「パクス。アレットも……よくやった。流石、俺の自慢の隊員だ」
「……たいちょおー」
ぐす、とパクスが鼻を啜る。声が揺れて震えて……やがてパクスは彼の膝の間に頭をしまい込むようにして蹲った。
「泣くなとは言わねえ。今は戦士だって泣いても許されるだろうよ」
「泣いてませんー、泣いてませんよぉおー……」
すっかり涙声になっているパクスの様子にソルは苦笑しながら、ぱふ、と翼でパクスの背を叩いてやる。
アレットもまた、パクスの様子にどこか安堵めいたものを感じながら、パクスの頭に手を乗せて、よしよし、と揺らした。
……そうして、アレットは静かに決意する。
必ず、死んでいった者達の意思を継ぐ。そのためにアレットは生き残ったのだ。
生き残ったことを後悔などしてなるものか。アレットが生き残ったことを悔やむのは、いずれアレット達に殺される人間達だけでいい。
そう。そのためにアレットは戦う。戦って1人でも多くの人間を殺し、そして、魔物の国を取り戻すのだ。
「ほら、アレット。お前も寝ちまえ」
「……ありがとう、ソル」
温かな漆黒の翼に包まれ、今だ顔を伏せたままの後輩に凭れて。アレットは、眠りに就く。
胸にぽっかりと開いた穴は、いずれ、憎悪と復讐の決意で埋められるだろう。だが、今は……今だけはぽっかりと開いた穴の底、深い深い悲しみに、ゆっくりと支配されていたかった。
再び目覚めた時、また、戦えるように。
+++++
「……逃がした、のか」
勇者は、魔物達の死体をようやく退かして、その先に何もないことを確認した。
「……くそ!」
腹立ち紛れに剣を放り投げて、勇者はその場に座り込む。
……魔物の姫は、ここで仕留める予定だった。今後の計画の為にも、魔物の姫は殺しておくべきであったのに。
「勇者殿。首尾はいかがですか」
苛立つ勇者の下へ、従者がやってくる。国王から賜った従者だが、それ故に今一つ、信用できない。勇者は従者をそう評価している。
「……逃げられた」
「逃げられた……?」
「ああ、そうだ」
そして勇者が自らの失態を報告すれば、従者は唖然とした。『有り得ない』と言わんばかりの表情を見て、勇者は益々苦い気持ちを抱えることになる。
「それは……仕方ありますまい。相手は魔物の姫。魔王に匹敵する力を持つ魔物でしょうから」
従者は勇者を気遣ってか、取りなすようにそう言う。それすら勇者の苛立ちを助長させたが、流石に従者に当たり散らすまでには勇者も落ちぶれてはいない。
「逃げた、というのは……具体的には、どのような?警備に穴がありましたか?」
「分かるものか。相手は魔物だぞ。理屈の分からない魔法を用いて逃げたらしいが、それ以上のことなんて分かるわけがない」
「成程……」
……ちら、と従者が勇者を見る。どうせ『勇者も魔法を使うだろう』とでも思っているのだろうが、勇者の力は神より賜った神聖なものだ。穢れた魔物達のそれとはまるで異なる。
であるからして、勇者は、魔物達が使う魔法を見ただけでその詳細を理解できるようなことはないのだ。
「しかし……そもそも魔物の姫が勇者様の斬首を待たずして町の外へ出ていたということ自体、奇妙な話ですね。警備はどうなっていたのでしょうか」
従者はそう呟くと、ふ、とため息を吐く。姫を逃がしたことは勇者にとっても従者にとっても……人間全員にとっての、損害なのだ。
「町の中で何があったかは派遣していた兵士達から聞けばいい。義勇兵だって来てるんだろ」
「生きていれば、いいですが」
「やめろ、縁起でもない」
勇者が従者を睨むと、従者は勇者と目を合わせるでもなく地面に視線を落として、ぽつり、と呟いた。
「……国より派遣した義勇兵達の一団が、道中で死んでいるのが見つかっています」
「なっ……」
今回、魔物の国の『開拓』にあたって送り込まれた兵士達や義勇兵達の中には、勇者が知る者も居た。彼らがまさか、死んだなどとは。
「姫の公開処刑に合わせて魔物達が奮起してくるだろうとは思っていましたが……それにしても、違和感が……」
従者はそう、訝しむ。何か思うところがあるのかもしれない。
……従者の思う『違和感』と同一のものではないだろうが、勇者もまた、久しぶりに訪れた魔物の国で、違和感を覚えている。
「……魔王を倒した時とは、魔物が変わっている」
「え?」
……つい先ほどまでの魔物達の様子を思いだして、勇者は身震いする。身の毛がよだつような光景であった。
魔物の姫を逃がすため……自らの肉や骨を盾として、次々に死んでいった魔物達。
群がる蟻のような、脆弱ながら鬱陶しい魔物達を切り払いながら、勇者は何か、ぞっとするものを感じていたのだ。
「まるで、一つの意思を持った一体の生き物を見たような気分だ」
それは、ある種の予感。
『魔法』を使う者特有の感覚であったのかも、しれない。
「しかし……念のため、確認いたしますが。勇者様は、本当に、魔物の姫を仕留めるつもりでおいでだった、のですね?」
「……どういう意味だ」
従者から向けられた言葉に、勇者は不快感を露わにした。
「いえ……疑うわけではないのですが」
「『用済み』にならないように、わざと仕事の手を抜いているって言いたいのか」
「い、いえ!決してそのようなことは……」
勇者はため息を吐く。
……魔物の国の掃除が終われば、いよいよ自分は用済みである。それは勇者にも分かっているが……それを防ぐために魔物の掃討に手を抜くなどあり得ない。神の力の代行者として、悪しき魔物を滅ぼすのが勇者の役割であり、勇者自身の望みでもある。
それに、用が済んだとして、すぐさま処分されるようなことも無いだろう。そのために勇者はいくらか手を打っている。
神の力を欲する者達は数多い。開墾できていない土地を拓くにも、神の教えを知らしめるにも……犯罪者を裁くにも。勇者の出番は人間の世が続く限り、永遠に生まれ続けるだろう。
「魔物の姫の首は必ず獲る」
勇者はため息交じりにそう答え……先ほどまで魔物の姫が居た場所を、じっと見つめる。
「そして魔物を根絶やしにする。必ず」
神に愛されし者特有の青い瞳には、形の無い憎悪が渦巻いていた。