蝙蝠の反逆*2
王都へ戻る頃にはもう日が暮れている。
荷馬車とパクスを人間の所へ返し、給料を受け取ったアレットは人間の市場で食料を買い込み夜の町を駆けていく。
路地裏、勇者の軍勢に3年前破壊された街並みの奥にあるのは何ということはない、崩れた家屋だ。だが、そこには瓦礫に隠れるようにして地下への隠し扉が存在している。
隠し扉の奥へ身を躍らせたアレットは、その下の地下室に到達した。
「ああ、お帰りなさい、アレット!」
「ただいま、フローレン!」
地下で息を潜めていたのは、アレットとそう齢の変わらない少女だ。
王都陥落前は城の小間使いをしていたフローレンは、鹿の魔物である。鹿の耳があり、尾があり、長いスカートの裾から覗く脚はすらりとした鹿のそれ。後足の先は蹄であるが、前足は人間のものとそう変わりの無い形をしている。
そして、そんなフローレンの後ろからぞろぞろと出てきたのは、まだ小さな魔物の子供達。フローレン程度に人間に近い姿をしている者から完全に不定形のスライムめいた者まで様々だ。
フローレンはここで、幼い魔物達の世話をしている。彼彼女らが人間に見つからないように。
……人間達は弱い魔物を狙う。目の前で子供を嬲れば、魔物達を御しやすくなるからだ。人間達はそれを分かっているから、子供達を人質として使いたがる。
また、そうでなくとも反撃してこない弱い生き物を戯れに傷つけたい人間も多い。現に、この地下室に匿われている子供達の中には、角や手足を折られた者、片目や片翼を失った者などが少なくない。
……アレットが人間達に紛れて生活しているのは、ここに居る子供達とフローレンの命を繋ぐためだ。
アレットが人間として働き、その収入で食料を手に入れてくれば、ここに居る者達を救うことができる。だからこそアレットは仲間達に蔑まれようとも、人間に化けている。
地下室の中は明るかった。
火を灯さずとも光を放つ石のランプを備え、小さいながらも火を使える台所がある。水も井戸から手に入れられる。
また、生活の利便性を求めるのみならず、ささやかながら、ここでの暮らしを良い物にしようと苦心した様子が見られた。少々傷みくすんではいるものの壁紙を貼り、ほつれや焦げがあるものの敷物を敷き、部屋らしく誂えてある。壊れた家具を修理したり、廃材から新たに作ったりして、机や椅子も揃えてあった。
人間に魔物が支配され甚振られる世界ではあるが、その中でもこの地下室は、そう悪い環境ではなかった。
フローレンや子供達にとっても。そして、ここを守ることで心を支えている、アレットにとっても。
「はい、お土産。そんなにたくさんは買えなかったけど」
「ありがとう。十分よ、アレット。……いつも本当にありがとう」
茶色の艶やかな毛皮に覆われたフローレンの手が、アレットの手からそっと、食料の紙袋を受け取る。
中に入っているのは人間向けに売られていた食料品だ。今日アレットが運搬してきた麦の他、ハムやチーズなども入っている。
「それからこっちも」
「まあ、リンゴ!」
「積み荷からくすねてやったんだ」
それから、小ぶりながらも瑞々しく、赤く艶やかなリンゴ。アレットは先程の荷馬車から、これを盗んでいた。
リンゴの木箱を幾つか調べ、蓋の釘の緩く、外しやすそうなものを見つけては外し、中のリンゴを1箱につき1つか2つだけ取る。それから蓋の釘を打ち直し、すっかり綺麗に元通りにしておくのだ。器用なアレットにかかれば、このように積み荷を少々盗むこともそう難しくはなかった。
「さあ、ご飯にしましょう。今日は何にしようかしら」
「リンゴと小麦があるからアップルパイ、って訳にはいかない?」
「いかない、いかない。バターやお砂糖がたっぷり無きゃ。……でも、そうね。リンゴは焼きリンゴにしてみましょうか。皆も手伝ってくれる?」
フローレンの呼びかけに、子供達がわらわらと集まってきた。
ここでの家事は、フローレンが1人で行っているわけではない。子供達も皆、生きるために自分にできることを成そうとしている。そうした子供達が次々に食器を用意し、麦を煮込み、萎びかけた根菜の皮を剥き……次第に料理ができていく。
アレットはこの光景が好きだった。
物ができる、というのは、いい。壊され、失い、奪われてばかりの生活の中で、こうして何かが新たに生まれる様子を見ていると、多少、励まされるような気がする。
そうして出来あがった料理は質素なものだったが、丁寧に調理してあり、温かい。そして何より、それを共に食べる仲間が居る。
アレットは小さな幸福を噛みしめながら、塩味の薄い麦粥で胃を温めた。
「今年の冬はどう?」
「そうね……少し厳しいかもしれない」
子供達が寝静まった後、アレットとフローレンは声を潜めて相談する。
目下の問題は迫りくる冬だ。パクスとも話していたことだが、いよいよ、細々とした現実と向き合わねばならない。
魔物の国の冬は長く厳しい。だからこそ、人間は長らく魔物の国に手を出してこなかった。むしろ、3年前になって人間が魔物の国を攻め落としてきたことこそが不思議なほどである。
荒れた土地は魔力こそ芳醇であったが、魔力など関係無い人間にはさしたる旨味は無いだろう。
人間にとっては嬉しくないことに、魔物の国の土地では作物があまり育たない。その上冬が長く厳しいのであるから、人間が住むにはあまりにも適さない土地なのである。
……と、そのように人間が忌避するその厳しい環境にさえ、魔物は生きている。土地の魔力を吸い上げ、或いは魔法を以ってして環境に適応できることこそが魔物の強みだからだ。
だが、それにしても限度はある。
特に、魔王が死んだことで土地の魔力が弱っている。そして食料はあまりにも足りない。魔王が死んでから、毎年冬を越せずに多くの魔物が死んでいるのだ。
……アレットは昨年の町の様子を思い出す。
路地裏で、魔物がただ死んでいた。
雪をうっすらと被って、まるで物のように死体が転がっていて、ただ、それだけ。
……彼らを弔うことも、碌にできなかった。
『魔物に棺は必要ない』。
捨て置かれる魔物の亡骸を見て、人間達がそう言ったことをアレットは強く覚えている。
瓦礫を避けて作った空き地に、適当に穴を掘って、死体を投げ込み、埋めた。弔いの為ではなく、生き物の死体を媒介する病が蔓延することを防ぐためである。
彼らに棺を用意することはできなかった。別れを惜しむ余裕も無かった。確かに路地に生きていたはずの彼らの顔を、今はもう碌に思い出せない。
アレットはそんな記憶と感傷とを振り払う。今はただ、この地下室に匿っている仲間達を救わなくてはならない。せめて彼らだけは、昨年の冬の、あの時のように……ゴミのようにまとめて土に埋め、そしてただ忘れていくような、あんなことにはしたくなかった。
「子供達が、丁度成長期で……たくさん食べるようになったものだから……」
アレットはずっと、この地下室に居る仲間達の元へ食料を運び続けてきた。人間達から報酬や対価として譲り受け、或いは人間達から掠め取ってきた食料は、そのほとんどがアレットの口に入ることなくこの地下で消費されている。
この2年、人間と魔物との間を行ったり来たりすることで要領も掴めた。昨年の冬よりも多くの食料を、運ぶことができた。
やれるだけのことはやってきた、と、アレットは思う。そう悪い成果ではなかった、とも。
だが、それでも足りない。
「ごめん。もっと、蓄えられるくらいに食料を手に入れられれば」
焦燥に駆られる。昨年の冬の様子が脳裏に浮かぶ。或いは、更にその前の……魔王が勇者に殺され、王都が陥落した、あの時の。
「そんなこと言わないで。食糧が無いなんて、どこもそうよ。しょうがないわ。アレットが気にすることじゃないし……アレットに気にされたら、あなたに守られて生き延びてる私達の立つ瀬が、ないわ」
だが、アレットは逆戻りかけた自身の記憶を引き戻す。
自分が焦燥に駆られている間、フローレンもまた、同じように感じているのだ。アレットが自分を責めれば、フローレンもまた、自分を責めてしまう。
……生産的じゃ、ないよね。
アレットはそう心の中で呟く。互いに互いを摩耗させるなんて、馬鹿げている。ただでさえ皆、疲れ切って擦り減って、今にも死んでしまいそうだというのに。
「ね。だから、どうやって生き延びるか考えましょ。前向きに、前向きに!」
「うん……そうだね。ありがとう、フローレン」
フローレンもアレットも、それぞれが胸の内に抱える不甲斐なさは押し殺し、努めて前向きに話し始める。
前を向いていれば、後ろは見なくても済む。そして動き続けていれば、動いていられるものだ。
……立ち止まって振り返ったなら、その場で倒れてしまいそうだった。
「まあ、今年も土の力のお世話になれば寒さは凌げるかしら……」
フローレンの言う『土の力』とは、魔法のことではない。
土に野菜の皮や木の葉などを混ぜ込んでおくと、それらが腐る時、僅かに熱を発する。フローレンはアレットからそれを教わり、冬の間のささやかな暖房としている。
……無論、この地下室で物を腐らせるので、臭いが酷いのだが背に腹は代えられない。多少の臭気と引き換えに凍えから逃れられるなら、そうするしかないのだ。
「もっと毛布の類があればいいよね」
「そうね。……でも、大丈夫。枯草を編んで、敷物を増やしたの。これで去年よりは暖かく過ごせるわ」
物資がもっとあれば、とアレットは歯噛みする。そうすれば、フローレンに腐葉土や枯草の敷物の上で過ごさせるようなことをせずとも済むのに。
「それから、食料も、だよね」
「……そうね」
足りない。全てが足りない。
もっと食料が欲しい。毛布も服も足りない。暖かな寝床を手に入れたい。
そして安らかに眠りたい。神経を張り詰めさせ、微かな物音に目を覚ますような日々から抜け出したい。
それらを全て手に入れられるような、力が欲しい。
……欲すれば、きりがない。
だが……その内の一欠片くらいは、手に入れなくては。
アレットはそっと、思索を巡らせる。
足りない資源はどうすればいいか。答えは至極簡単だ。
奪えばいい。
かつて、否、今も魔物達が人間達にそうされているように。魔物もまた、人間から奪い返せばいいのだ。
……アレットは人間に化け、人間の中に溶け込みおおせた。荷運びの仕事を買って出たのも、全てはこのため。
「近々、馬車の積み荷を奪おうと思う」
アレットはそう、フローレンに告げた。
「積み荷……って、今日のリンゴみたいに?」
「ううん。もっと大規模に。馬車一台、丸ごとだよ」
「そんなことして大丈夫なの?あなたも、それに、他の魔物達だって……」
アレットの言葉に、フローレンは驚く。
フローレンが濁した言葉の終わりに続くものは、アレットにも分かっていた。
『下手に魔物が騒ぎを起こせば、その分、人質になっている魔物達が嬲られる』。だからアレットも他の魔物達も、不用意に人間を襲うことができないのだ。
……だが。
「大丈夫。任せて。どうせいつかはやらなきゃいけないと思ってたんだ。絶対に上手くやってみせる」
それでもやらなければならない。そして、アレットにはそれができる。
蝙蝠である、アレットならば。
フローレンと別れたアレットは、地下を出て、空を見上げる。月も無い、どろりと曇って只々暗い夜である。
……こうした夜は、アレットの為の時間だ。
アレットは薄く笑うと、背中の翼を広げて夜空に飛び立った。
盗むのも、奪うのも、殺すのも。そう難しいことではない。
そう、人間達が教えてくれた。