空の彼方*2
青々とした海と空に挟まれてしばらく行けば、やがて、魔物の国の上空へと差し掛かる。
……人間の所為で荒れ果ててはいたが、懐かしく愛おしい大地がそこに在った。
この大地はこれから生まれるであろう魔物達の揺篭。そして、生きる魔物の為の家であり、死んだ魔物の為の棺である。
アレットはほっとしながら降り立って、そこに満ちる空気を吸い込む。
魔力に満ちた空気は、どこか甘く懐かしい。久々に、生きている実感を得て、アレットは『やっぱり人間の国って魔力が少ないんだなあ』と思い出す。
帰ってきた。1人で。
……喜びと悲しみを抱えて、アレットはそっと、歩き出す。久しぶりの大地を、皆の分まで味わうために。
冬の長い魔物の国も、そろそろ春めいた季節になってきている。まだまだ雪が残っているが、雪の隙間からは草の芽吹きが見られた。いずれ、青々とした草に覆われ、花が咲き誇ることだろう。
そして、町の様子も春めいてきていた。……かつてのように。
アレットが立ち寄った町では、人間が居なくなり、魔物達が活発に働いていた。
壊された建物を建て直し、荒らされた畑を耕して。
そして、墓が、作られている。
……死んで、死んだまま弔われなかった多くの魔物達が、弔われている。
「……やっと、ここまできたんだね」
アレットは、墓の中に見覚えのある名前をいくつか見つけて、そこに座り込む。
ようやく、弔うことができる。踏み越えてきた数々の骸が、ようやく、眠りに就くのだ。……それすらできなかった今までを想い、そして、未来を想い、アレットはしばらく、そこに居た。
長い冬が終わろうとしている。
「あれ、アレット……?」
そんなアレットに、話しかける魔物がいた。
久しぶりに自分の名前を呼ばれた気がして、アレットは随分と驚き……驚いた自分に『ああ、そういえば私はアレットだったなあ』と思い出す。
「アレット!アレットだよね!」
「よかった、無事だったんだね!」
近づいてきたのは魔物の子供だ。どこからか見つけてきたらしい花を持っているあたり、墓に供えにきたのだろう。
……そう。彼らは、フローレンが匿っていた子供である。アレットも彼らと共に眠り、共に食事を摂って、時には遊び、笑い合っていた。
そんな子供達を、アレットは両腕で抱きしめる。
……子供達とフローレンのために働き、食料を得て、なんとか皆を生かそうと必死だった2年。
あれは無駄ではなかった。抑圧されて抑圧されて、それでも懸命に藻掻いて生きていただけの苦しい2年であり、その後にはフローレンをはじめとして、多くのものを失った。二度と取り返しのつかないものを、失って、失って……それでも、未来に残るものがあったのだ。
「……ありがとう。生きててくれて」
子供達の存在は、アレットには救いのように感じられた。
子供達はあの日、騒ぎが収まるまで王都に隠れ、そして、勇者が消えると同時に逃げ出したらしい。その後は森や寂れた町に身を潜め、人間達から隠れつつ、食料をなんとか探して生き延びたという。
そうして、最近人間達の姿が少なくなったのを見て町の方まで出てみれば、何時の間にやら人間達はすっかり少なくなっており、残った人間達についても、魔物達が反旗を翻して立ち向かい、皆殺しにしたという。
子供達も、戦ったのだそうだ。そして人間を殺したと、嬉しそうに教えてくれた。彼らは子供であったが、それでも立派に、強い魔物であったのだ。アレットはそれが、只々嬉しい。
「アレットは?今まで、どうしてたの?」
「私?私はね……人間の国を、滅ぼしてきたよ」
アレットが答えれば、子供達は表情を一気に明るくして、すごい、すごい、とはしゃぎ回る。そして根掘り葉掘り、今までの旅路について聞かれるものだから、アレットとしては、少々、困った。仲間達を食らってきたことを教えてよいものか、迷ったのである。
……だが、結局は全て、話すことにした。
アレットが話し始めると、やがて、他の魔物達も集まってくる。ある程度魔物が集まれば、その集まりを見た魔物が『何だ何だ』とまた集まってくる。……そうして何時の間にやら、アレットの周りには多くの魔物達が集うことになっていた。
その中で、アレットは話す。
誇り高き仲間達のこと。神が残した力の欠片の物語。人間相手に謀った策略。勇者と王権の争い。そして、仲間の死。
……話していく内に、アレットの中で思い出が物語になっていく。砂に水をかけて固めたように、今まで手に取ればさらさらと零れ落ちていきそうであったものが、はっきりと形を成すようになっていったのだ。
アレットの話に聞き入る魔物達の前で話して聞かせながら、アレットは、思う。
恐らくこれもまた、自分が前に進むために必要なことなのだろう、と。
その日、アレットはその町に泊まることになった。気のいい魔物達が、『そんなに今まで頑張ってきたなら少しはちゃんと休んでくれ』と寝床を提供してくれたのである。
温かな食事も与えられ、それを皆で食べた。アレットは久しぶりに、食べるものを美味いと感じた。
……そうして与えられた湯で沐浴し、ほこほこと温まったところで寝床……程よい梁がある部屋でぶら下がりつつ眠れば、すぐに眠気が訪れる。
久々の、幸せな就寝だった。
翌朝、アレットは町の魔物達に聞いて回ることにした。
『勇者に力を与える存在を探している。何か心当たりは無いか』というように。
何せ、魔物の国は広い。人間の国も広いが、魔物の国は更に広い。その分、冬が長く厳しいせいで暮らせる土地は然程広くないが……魔物が踏み入らない土地まで探すとなると、非常に手間がかかる。ならば何か手掛かりになりそうな情報を、他の魔物達から聞いた方がいい。
……そうして聞いていく内に、「そういうことなら、王都の方にも行ってみた方がいいよ。人間に壊された遺跡の修復をしているらしいから、そういうのに詳しい奴が集まってると思うよ」と教えられる。
ならば、と、アレットは早速、王都に向けて旅立つことにした。
王都もまた、生き生きとしていた。
壊された正門は今正に修復されているところで、そこから続く大通りにも、魔物達が行き交う姿がある。
人間が支配していた時のように、身を縮めて移動している魔物は居ない。皆が堂々と、楽し気に、活発に行き交っていた。
かつてアレットが傷みかけの果物を買っていた市場では、品数こそ少なく貧しいものの、活気に溢れて食品や日用品がやりとりされている。広場には子供達が遊ぶ様子も見られた。路地裏も綺麗に清掃され、花が供えてあった。
……そして、城は、今、魔物達の手によって少しずつ、整備されているらしかった。
人間達が無遠慮に踏み込んだ床は美しく拭き清められ、破壊された壁は作り直されて漆喰が塗られ、そして……アレット達がかつて団欒した食堂は、再び、食堂として機能し始めていた。
人が集まる場所に、と思ってやってきた食堂であったが、思いの外、それは、アレットの心を揺さぶる光景であった。
ずっと取り戻したかったものが、戻ってきた。かつてここにあったのと同じ形のものではないが、それでも……それでも、アレットは、救われたような心地になる。
人間達が作った棚は全て壊され、代わりに、廃材からありあわせで作ったと思しき机と椅子が食堂を埋めていた。そして、それらの卓では、休憩する魔物達が食事をしている。談笑もそこかしこから聞こえてきて、まさしく、かつて、アレット達が笑い合った食堂のようであった。
……壁の一部に、パクスが酔った時に付けたワインの染みを見つける。その懐かしさと愛おしさに、涙が零れそうだった。
アレットは壁を、そっと撫でる。罅が入って漆喰が剥がれてしまっている壁なので、いずれ、この壁も塗り直されてしまうかもしれない。……だが、それでもいい。この食堂が、昔の通りになることなど、アレットも望んでいない。ただ、これからの魔物達のために、この食堂がまた、皆の憩いの場になればいい。
食堂で配られていたスープの椀とパン1つとをもらって、アレットは適当な席に着く。スープはかつてここで食べた味とは違ったが、素朴でどこか懐かしいような、そんな味だった。
相席となった相手に『勇者に力を与える存在を探している』という旨で話しかけてみると、気のいい魔物達はアレットの問いに真剣に考え、そして、答えを知って居そうな知り合いに心当たりがあれば、その知り合いを連れてきてくれた。
そうしている間に食堂はすっかり、アレットのために皆が協力する場となっていた。城に居る魔物達の中にも遺跡を調べている者が居て、彼らの協力もあって、アレットは実に様々な情報を入手することができた。少々、整理に時間がかかりそうなほどに。
……そうしてアレットは、その日の内に王都を発った。かつて自分が使っていた宿舎に泊まることも考えたのだが……どうにも、居心地が悪かったのだ。
魔物の国はすっかり平和になって、皆が前向きに、明日をより良くしようと働いている。それは喜ばしいことで、アレットの望みでもある。だが……やはり、少々、寂しかった。自分の中に眠る皆が、忘れられていくようで。
それに加えて、魔物達の内の幾らかが、アレットを見て「あれ?魔王様ですか?」と首を傾げていたのも理由の一つだ。
魔物は魔力を感じ取りやすい。アレット程の魔力の持ち主ともなれば、一目でこの国随一の魔力……即ち、魔王の座に相応しい者として認識されてしまってもおかしくないのだ。
そうして魔王の扱いを受けるのが、少々、気まずかった。本来ならばレリンキュア姫が、そうでなくともソルが、就いていたはずの座なのだ。まだ、これを自分の称号だと思えるまでに、アレットは割り切れていない。
「そう考えると、ソルはすごかったんだなあ」
ぼんやり呟きつつ、アレットはのんびり、野営の焚火を起こす。かつてソルが潜んでいたこともあるという東の森は、アレットにとっても馴染み深い場所だった。……今や、木々は焼け、随分と荒れてしまっていたが、いずれこの森も蘇る時が来るのだろう。
「魔王になる、って自分で決められたんだもんね」
小鳥に話しかけつつ、アレットは少し、笑う。
……ソルが魔王を名乗ったと聞いた時には驚いたが、ソルにはそれがよく似合っていた。それだけの器でもあった、と思う。
それに比べて、自分はどうだろう。アレットはそう考えて……どうにも、自分が魔物の国を率いて治めていくのには不向きではないだろうか、と思うのだ。
良くも悪くも、アレットは戦士なのだ。王ではなく。
「うーん、本当に、貧乏くじ……」
アレットは苦笑しながら、燃え残った木の枝にぶら下がって眠ることにした。
翌日、アレットは各地の史跡を巡り始めた。
それらは人間達に荒らされており、時には最早復元も望めない程に破壊されてもいた。だが、それでも残っているものを探して、少しずつ、細かく、情報を手に入れていく。
というのも……王都で手に入れた情報に、少々思うところがあったので。