落陽*2
裂かれた玉座に潰れた王冠。そして、最早一欠片たりとも残っていない、人間達の意思。
人間達の滅びの瞬間は、静かだった。ソルは王冠の残骸から足を退かして、改めて、ここを見回す。
人間の王が長らく君臨していた玉座の間には、もう二度と、人間が踏み入ることがない。確かにここに存在していた数々の人間達は、もう、どこにもいない。
人間は滅びた。
それを確かに感じて、ソルはそっと瞑目する。
弔うこともできなかった仲間達への、心ばかりの弔いにはなっただろうか、と。
「ソル」
「アレット」
名を呼ばれて、ソルはアレットの元へ戻る。アレットは浅く呼吸を繰り返しながら、薄く笑って応えた。
「ありがとう、ソル……これで、あいつ、死んだんだよ、ね」
「ああ。ようやく、だな」
「よかった……これで、皆の願いが、一つ、叶ったね。皆に顔向け、できる」
倒れたまま笑うアレットの隣に腰を下ろすと、ようやく、ソルの体に疲労が戻ってくる。
……酷く、疲れた。もう動きたくない、と思うほどに。
アレットもそうなのだろう。今も、眠そうに目を瞬かせている。それもそのはず、アレットの体からは血が失われている。もう、長くないだろう。……このままでは。
「アレット……俺達はまだどうやら、やらなきゃならねえことが、あるらしい」
ここで2人、共に死んでしまえたら楽なのだろう。だが、まだ、2人の仕事は終わっていない。
「勇者が二度と生まれないように、しなきゃ、いけない。……分かってる」
アレットもまた、瞳に光を取り戻して、小さく頷いた。
「少なくとも、ここでどっちも死ぬってのは、ナシだな」
……どちらも死ぬことは、許されない。満身創痍の2人だが、少なくとも片方は、生き残らなければならない。
自分達は、生き残ってしまったのだから。仲間達の意志を、引き継いでしまったのだから。
ひとまず、ソルは自分とアレットの止血を行う。僅かな延命措置だが、それで十分だ。
「さて……お前も分かってるだろうが、今、俺達には3つの道が用意されてる」
ソルはそう言いつつ、アレットの上体を起こさせた。そのまま適当な柱に凭れさせて、お互いにもう少々、話ができる体勢になる。
「1つはこのまま何もかも諦めて、ここで終いにする方法だ。……悪いが、お前を抱えて魔物の国まで飛ぶ気力は俺に無えな」
「ああ、なら駄目だ。私達二人とも、魔物の国に帰らなきゃならないから」
アレットはなんとも嫌そうな顔をした。アレット自身、もう眠ってしまいたいような心地であるはずだが、それでもアレットはこう言うのだ。それを心底嬉しく、誇らしく思いながら、ソルもまた、『俺もだ』と同意して笑う。
自分達は魔物の国へ還らなければならない。帰還して、そして、大地へと。……たとえ死んでも、その死体は必ずや、魔物の国まで運びたいのだ。そうすることで、自分達の魔力は魔物の国へ行き渡り、多くの仲間達を救う材料となるだろうから。
「じゃあ、2つ目だ。このまま回復を待つ。……薬が多少はある。それと止血と休憩で、どれぐらい治るか、だが……」
「……それだと、私、生き残れそうにないなあ。まだ死なないつもりだけれど、『まだ』っていうだけだとも、分かってるんだ」
アレットが力無く笑う。ソルはその答えに胸を引き裂かれるような心地がしたが、そんな心地は言葉に出さない。ただ、『随分思い切りよく刺したな。大した度胸だ』とアレットを褒めるに留めた。自分の右腕たる副長に贈るべき言葉は、ただ、賞賛であるべきなのだから。
「だよな。なら、3つ目だが……」
そうしてソルは、『どうせこうなるだろう』と考えていた案を、出す。
「どっちかがどっちかを食う。そして恐らく、魔王様を超える魔力を、手に入れる。……そうなれば、死にかけの自分を救う魔法が手に入るかもしれねえ」
アレットは、はっきりとソルの言葉を理解していた。失われていく血の分、思考には靄がかかったが、それでもすぐに、覚悟を決める。
「なんともならないとしても……試さずに死ぬのは、矜持に反する。そうだよね、ソル?」
「ああ。お前なら分かってくれるだろうと思ってた」
ソルは安堵したようにそう言って、ふ、と息を吐いた。
……お互い、覚悟はもう決まっている。いつか、自分が最後の一人になると、どちらも思っていたのだから。そして、お互いにお互いがそう思っているということを、何となく、知っていた。
ソルが最初に覚悟を決めたのは、魔王が死んで数か月後。森の中、自分が守るべき者達を食らってその魔力と意志とを引き継いだ時だった。
自分が生き残ってしまったことを、ソルは悔やんでいたのだ。だからこそ、生き残ってしまった自分が今後死ぬことは許されないだろう、とも思った。
生き残ることは、途方もない悲しみであった。ソルは然程、群れることを好む性質でもなかったが、それでも、ずっと何もない雪原に1人ぽつりと佇むような、あの寂しさは忘れられない。
……そしてその悲しみを仲間に味わわせないことと、自分がその悲しみを背負い続けることが、生き残ってしまった自分の贖罪だとも、思っていた。
自棄的であったのだ。ソルは、ずっと。
仲間と共に抱いた夢を叶えるため、という前向きな動機の背後には、何時でも贖罪という後ろ向きな動機が付きまとっていたのだ。
……そうしてソルの中に覚悟が降り積もっていった。苦しみを抱え続け、1人、途方もない雪原を歩き続ける覚悟が。
ただ。
もし、願っても許されるなら……その時、アレットに、隣に居てほしかった。更に欲を言うなら、パクスも。ガーディウムも。ヴィアもベラトールも、少々恐れ多いがレリンキュア姫にも。
だがそれは叶わなかった。叶わなかったのだ。仲間達は皆、その命ではなく、意志だけを残して死んでいった。
ならばせめて、その意志と共に進みたい。それがソルの贖罪であり救いである。仲間達を救うための希望が形を変えて、ソルの覚悟になっている。
アレットが最初に覚悟を決めたのは、何時だっただろう。
……レリンキュア姫を食らった時だっただろうか。あの時にはなんとなく、独りは嫌だなあ、と思い……思いながらも、どこか、そうなるような気がしていたかもしれない。だが、いよいよ現実味を帯びてきたのは、パクスが死んだ時、だっただろうか。
パクスのことは、生かしてやりたかった。自分が死んでも、パクスだけは、と。……自分が最後の一人になることを厭う割に、可愛い後輩を生き残らせたいと思う矛盾は、確かに感じていたが。それでも……それでも、パクスには、暖かな日向の花畑で、ゆったり尻尾を振っているのが似合うと思ったのだ。
だが、パクスはアレットが思っていた以上に、立派な戦士だった。彼にも彼の覚悟があった。パクスの美しく気高いその意志を引き継ぐと同時に、アレットは、自分一人が生き残ることを覚悟した……ように思う。
自分が死ぬ覚悟は、フローレンが死ぬ前から、ずっと心の内にあった。それは覚悟でもあり、望みでもあったのかもしれないが。
……自分を踏み越えて、誰かが望みを果たしてくれたなら。そう願ったことは数知れない。フローレンとも、そんな話をよくしていた。
だが、自分の命如きを代価にしたところで、自分の望みは叶わないのだということも、アレットはよく知っていた。自分の大切な仲間達も犠牲にして、そして、自分の死という安らぎをも犠牲にして……そうしてようやく得られる望みだ、ということも、分かっていたのだ。
それほどまでに、魔物達は絶望していた。ずっと。
そして、アレットも。
「さて、どうする、アレット。どっちが貧乏くじだ?」
「このままいくと、私が先に死ぬと思うけれど」
「ああ、そうだな。そうなったら俺が貧乏くじ、って訳だ」
探り合うように言葉を交わして、どちらからともなく、視線を合わせる。漆黒の瞳と深紅の瞳がそっと見つめ合って、それから、互いに細められた。
「まあ、俺の方がいいだろうな。もし傷を癒すような魔法なんて手に入らなかったとしても、俺の方がまだ、傷が浅そうだ。お前を食ってから飛んで、魔物の国へ帰れる」
「いや……私、だと思うよ。もしまた、あいつの意思が蘇って私達を阻もうとしたら、その時、私の方が、勝算がありそうだから」
ソルの言葉を遮るように、アレットがそっと、告げる。
「……それに、もう、ソルは許されていいと思うから」
「お前だって、そうだろう、アレット」
ソルの返事はどうにも乾いて、滑らかには紡がれなかった。それを見て、アレットはまた、優しく笑う。
「もう、夜が来るよ、ソル。ここから先は、私の時間だ」
崩れた玉座の間の壁の隙間から、斜陽が差し込む。橙の光を浴びて、アレットの瞳はますます赤く、美しい。
「大丈夫。多分、ソルよりも私の方が、向いてるから。ね、任せて。それで……もしダメだったら、ごめんね?」
アレットの言葉を聞いて、ソルは、『任せてもいいのか』と、思う。
ずっと1人で背負っていく覚悟を決めていた荷物を、横からひょい、と持ち上げられてしまう。
そうしておいて、アレットはにっこり、微笑むのだ。
「私が、あなたの棺になる。ソルの……皆の意志を収めて、ちゃんと、帰るから」
ソルが、ずっと、何よりも、聞きたかった言葉を伴って。
……ソルは、意志を手放すことにした。皆の意志を引き継いで、それをアレットに託して……そうして、自分自身の意志、全てのケリを自分が付け、それを贖罪にしようとしていたその決意を、手放す。
仲間達の誰よりも早くから魔物達を食らい、彼らの意志を背負ってきたソルも、ようやく、眠りに就く時が来た。
どうしようもなく申し訳なく、そして、どうしようもなく気が楽だ。
無責任だろう、と自分を責める自分の声も、最早薄れて聞こえない。アレットの甘やかな誘いに、ソルはすっかり魅了されている。ああ、そういやこういうのはアレットの得意分野だったな、と思い出し、ソルは自嘲した。元より、こんな譲り合いの勝負において、この頼れる副長に勝てる訳が無かったのである。
「……アレット」
みっともねえ、と思いながらも、震える声をソルは絞り出す。
「愛してる。誰よりも強く、お前の味方でありたかった」
人間の愛と、魔物の愛は性質が違う。魔物は魔物を縛ろうなどとはしない。魔物の愛はアシル・グロワールのそれのように、粘着質なものではない。
……ただ、祈っている。強く、強く。それが、魔物の愛である。
「私も、ソルのことを愛してるよ。あなたの背中を、あなたの夜をずっと、守りたかった」
アレットの瞳が瑞々しく、柘榴の粒のように揺れる。瞬きと同時、湛えられた涙がするり、と零れ落ちるのを、ソルはただ、美しいと思った。そして、愛する副長に、このように涙を流させることを心底申し訳なく思う。
驕りかもしれないが……もっと、ずっと、傍に居たかった。
ソルは、急に霞がかってきた意識の中、アレットに頼む。何を頼めばよいのか分からず、何を伝えればよいのかもわからず……しかし、どうせこの賢い副長には全て伝わっているだろう、とも、思いつつ。
「なあ、アレット。俺のことはいい。ただ、お前を……それから、どうか、他の、皆を」
「だめだよ」
ソルの言葉を遮って、アレットは笑う。
「ソルのことも、連れてく。それで……」
どこまでも深く広い優しさを湛えたその笑みに、ソルは、大地を思う。
魔物達が還る場所。魔物達を許す存在。
そんな大地が、アレットの瞳の奥に広がっているような、そんな錯覚すら覚える程に……ソルは、アレットに、大地に、救われていた。
「……大地に還ったら、また、昔の話でもしようよ」
「……ああ」
アレットの手が、そっと、ソルの目を覆い隠す。投げかけられていた斜陽もすっかり遮られて暗闇の中、ソルの意識もまた、夜へと沈んでいく。
消えゆく意識の中、ソルはただ、祈った。強く、強く。
アレットはそっと、倒れたソルから魅了の魔法を解く。死者にこんな魔法は……痛覚をぼやけさせる魔法は、必要ない。
ソルの腹には、アレットの胸の刺し傷より遥かに酷い傷があった。痛みを誤魔化して居なかったなら、動くことなどできなかったはずだ。
「……ゆっくり、休んでね」
愛する者達の棺となるべく、アレットは、口を開いた。