落陽*1
アシル・グロワールの意思が今ここにあるのか、と問われれば、アシル・グロワールの意思が『是』と答えただろう。
そう。少なくとも彼自身の意思は、彼自身の存在を認識していた。その認識が歪み誤ったものであったとしても、その歪みも誤りも、アシル・グロワールは認識していない。狂人が自らを正常か異常か判別できないのと同じように。
……そしてアシル・グロワールの意思は多くの人間達の意思を率いて、今、ここに在る。
無論、それら数多の人間達の意思は、アシル・グロワールの意思と混じり合い、溶けあっていたものの……如何せん、勇者の意思というものは、強かったのだ。良くも悪くも。それ故に、これだけ多くの人間の意思と魔力が寄せ集められて溶け合った中であっても、アシル・グロワールの意思は自らの存在を認識できるまでに、強固であった。
そんな強固な意思で何を思っていたかといえば……至極単純に、『フローレン』のことである。
『どのように』思っていたかは判然としない。只々、『何を』思っているかだけで、その意思は成り立っている。
愛しいのか憎いのかも判然としない。この後自分がどうすべきなのかは分からない。だが、1つ確かなことがあるならば……ただ、愛されたい。
フローレンという存在に、愛されたい。自分に唯一残ったそれを、手放したくない。それだけのことだったのだ。
恐らくは、それ故にだろう。アシル・グロワールと多くの人間達の意思の寄せ集め、人間のなれの果ては、鴉の魔物の姿を取った。
フローレンに最も愛してもらえるであろう姿で以てして、魔物達に相対したのである。
……この時点でアシル・グロワールの意思は、既に、人間である以上、自分がフローレンの憎悪の対象になることはあっても愛情の対象にはならないであろうことを悟っていたのだ。だから、『アシル・グロワール』としての姿形などあっさりと捨てて、最もフローレンに愛されるであろう姿を選んだのである。
だが、フローレンは、鴉の魔物の姿をした自分に目もくれなかった。そしてその間にも、鴉の魔物の攻撃が降り注ぐ。攻撃に対しての危機感も何もかも、それらは理性と共に失われていたが……それでも体は動かなくなっていく。
更に、動かない体を修復するための魔力を、フローレンの手で絶たれた。そんな細かなことなどまるで理解できていなかったが、急に体が動かなくなったことだけは分かる。
その時、アシル・グロワールは一瞬、自分の記憶を取り戻した。それは、奪われ、失い、或いは得られずに敗北してきた数々の記憶だ。
兄に殺されかけ、父には守られず、母は無能。婚約者を奪われ、魔物の国へ追いやられ……そして、フローレンを。
……否。フローレンは、まだである。
取り返せる。まだ、取り返しがつく。フローレンはまだ、手に入れられる!
その希望がまた意思を生み、体を動かす。アシル・グロワールの意思に引きずられて、他の人間達の意思がざわめいた。
魔物を見て怯える意思はねじ伏せた。もう戦いたくないと嘆く意思は踏み潰した。人間達の意思と魔力が集まった玉座は既に破壊され、次第に意識はアシル・グロワールだけのものへと変わっていく。
こうして人間達の数々の意思を踏み躙って、アシル・グロワールの意思は……遂に、奇跡を呼び起こす。
それは、神の奇跡。人間を、勇者にする力。
レオ・スプランドールに与えられたというそれが、今、アシル・グロワールへと注がれていた。
そう。ようやく。……こうなってようやく、アシル・グロワールは『偽りの』勇者ではなく、真に勇者として目覚めたのである。
それもそのはず、この世に残った人間の中で最も勇者に相応しいのが自分なのだから。神の寵愛を受けるのは、他に人間無き今、自分なのである。
注がれる力を感じながら、アシル・グロワールは思う。
フローレンは人間が憎いらしい。ならば、魔物の姿になればいい、と。
だが、鴉の魔物は駄目だ。『この姿でも』愛されないのではなくて、『この姿だから』愛されないのだ。ならば、別の魔物の姿を取るだけのこと。
……そうしてアシル・グロワールは復活した。復活して、しかし、目の前で愛しいフローレンが浮かない顔をしていることに気づいた。
愛してくれるのではなかったのか。自分は人間ではない姿をしているというのに、どうして何もしてくれないのか。……アシル・グロワールは不思議に思いながら、徐々に、焦燥感に苛まれる。
フローレンの言葉は、意味がよく分からなかった。何を言われているのか、理解するだけの理性が無い。理解しようと試みても、水に垂らしたインクが広がって薄まっていくかのように、理性は広がって薄れて、消えていってしまうのである。次にもう一度理性を取り戻しても、同じこと。何度も何度も、書物の同じ行を読んでいるような感覚だった。
だが、分からないなりに感じ取れることもある。
フローレンからは、どうにも不穏な気配がした。何かを諦めたような、覚悟を決めてしまったような……フローレンに手が届かないのではないかと思われるような。いずれにせよ、初めて見る顔だった。あれだけ長く共に居たフローレンが、今、知らない生き物のように見えている。それが、どうしようもなく不安だ。
……アシル・グロワールは今や、フローレンへの執着だけで生きていた。この意思の根幹は、それである。その意思が自分には何も残らなかったのだなどと、思いたくないがための執着なのかもしれず、果たしてこれが愛なのかなど、もう分からない。
だが、愛を知ってしまったが故、愛に飢えた。それは確かなのだ。
そして、この世界よりも、復讐よりも、何よりも……『フローレン』を、欲したことも。
「さよなら、人間」
だからアシル・グロワールの意思は、目の前でフローレンを失って、折れた。
『取り返しがつかない』。それをようやく、理解して。
目の前で『フローレン』が倒れたのを見て、人間のなれの果ては茫然としているように見えた。
そしてソルは……茫然としていることすら、できない。
「アレット!」
痛む傷を庇うこともせず、即座にアレットの元へと飛ぶ。
自分を庇おうと、化け物を誘導して離れた位置まで移動していたアレットだったが、こうして飛んできてしまえば一瞬の距離だ。
「アレット、しっかりしろ!おい、アレット!」
ソルは自らも血を流しながら、アレットを抱き起こす。アレットの体は随分と華奢で軽い。そして、冷たい。流れ出していく血と共に、体温も消えていく。そして、命も。
「アレット!」
「あはは、大丈夫、だよ。ソル……刺したくらいで動揺しないでよ」
だが、ソルの頬に、アレットの手が伸びる。抱き起されながら、アレットは浅く呼吸を繰り返し、それでも懸命に笑みを浮かべていた。
「自分を刺すのって、案外、上手くいかないね」
「……こんな馬鹿なこと、上手くいかなくていいだろ」
「かもね。……ねえ、ソル」
ソルは只々苦い気持ちでアレットを見つめる。ふるり、と揺れて細められる目は、今にも閉じてそのまま二度と開かないような気配さえしていて、ソルの中でぐるぐると、焦燥と不安、そして怒りが混じり合う。
「勝つよ」
けれど、弱っているはずのアレットの目は、まだ、光を失っていない。
「ああ……勝つぞ。絶対、あいつを殺してやる。お前が利かせた機転は、無駄にしない」
アレットが返事をすることは無かったが、ソルはアレットをそのまま寝かせて、ただ、人間のなれの果てへと向かい合う。
……今や、化け物はまた、ただの青空色の塊へと変貌していた。『フローレン、フローレン』と喚きながら、徐々にその魔力を失って、形を失っていくのである。
「……分かったかよ。お前がやったことは、取り返しがつかない。取り返しがつかないとも思わずに、お前は取り返しがつかないことをやってきた」
更にソルがそう言葉を投げかければ、化け物の嘆きはより強まる。最早言葉でもない、ただの鳴き声を上げて泣き喚きながら、化け物がのたうつ。
「『フローレン』は、もう死んだ!」
そしてソルがそう言ってやれば、化け物はいよいよ大きく嘆きの声を上げた。
……ソルも手負いだが、十分に勝てそうだ。そう思える程に、化け物の魔力が大きく揺らいでいた。
ソルの攻撃が全て、通る。
化け物の体はすぱりとナイフに切り裂かれ、鉤爪に引き裂かれて、その傷がぐずぐずと溶けて塞がる間も、化け物の魔力は不安定だ。
ただ化け物は、喚いていた。時折、癇癪を起こしたように触手を伸ばしてソルを突き刺そうとしてくるが、そこに明確な意思はない。それはそうだ。もう、先程までとは事情が違う。ソルを殺してももう、フローレンは手に入らない。
『フローレンは死んだ』。その言葉が、化け物から生きる意思を奪った。生きようとしていない意思は、もう復活のために魔力を動かせない。
それでも、何もかも破壊してしまえ、という気概がごく僅かながら残っているのかもしれない。振り回された触手がソルを横薙ぎにぶつかっていき、ソルの腹の傷からまた血が噴き出る。
「しぶとい野郎だ、な!」
ぎろり、と漆黒の瞳を光らせて、ソルは自分を叩いた触手を鉤爪で掴んだ。そしてじたばたと暴れるそれに、ナイフを突き立ててやるのである。
ゆっくりと。理性を失った化け物にも自覚できるように。
……すると、ようやく、変化があった。今まで刺されても切られても何も反応しなかった生き物が、ようやく、反応した。
化け物は、刺された触手を引っ込めて蹲る。更に追いかけるように、青空色の塊にまたゆっくりとナイフを突き立ててやれば、呻き声のような音を発しながら、傷口から青空色の粘液を、ぼたり、ぼたり、と零していく。
それからもソルは、攻撃を繰り返した。ただし、ゆっくりと。……そう。この気が狂った化け物にも『死』が自覚できるように、ゆっくりと。それだけのことである。
『死』を自覚した化け物は、徐々に魔力を失っていった。天から降り注ぐ魔力も、最早、この化け物を救いはせず、奮い立たせもしない。
絶望の淵にあって尚立ち上がれるのは、失いたくないものがまだある者だけだ。……アシル・グロワールにはもう、失いたくないものが何も無い。『フローレン』が自らの胸を刺して死んだ、その衝撃と絶望と喪失感が、アシル・グロワールの意思を壊した。壊れた意思では最早、戦い続けることはできないのだ。
「さあ、死ね」
そして化け物は、最早、怒りも憎悪も抱くことすらできず……ただ、絶望したまま、絶望しているが故に、消えていく。
青空色の塊が空気に溶けるように消えていき、そして……後には1つ、ひしゃげて壊れた王冠だけが残る。
ソルは黙って、その王冠を踏み潰した。