零れた水*9
「ソル!」
アレットが悲鳴を上げる中でも、ソルは動いた。
「……っのやろ」
腹に突き刺さったものは、細く長く伸びた触手のようなものであったらしい。ソルはそれを自分の腹から引き抜くと、尚もソルを刺そうと暴れるそれに斬撃を浴びせて黙らせた。
「ソル、ソル……」
「大丈夫だ、アレット。刺されたくらいで動揺するんじゃねえ」
アレットは見るからに動揺していたが、ソルは血が流れ出す傷を押さえて、尚も人間のなれの果てを睨む。
「勝つぞ。絶対に」
「……うん」
そうして固めた意思に引きずられ、導かれるようにして、アレットもまた、落ち着きを取り戻していた。
「……で。あいつは……いよいよ、人間じゃねえな」
今、人間のなれの果ては、随分と奇妙な姿になっている。
ソルの真似をしていた時の方が余程人間に近しい形だった。ソルは翼と鉤爪以外は概ね、人間に近い形をしているのだから。
それが、今、人間のなれの果てはあらゆる魔物の継ぎ接ぎのような姿をしているのだ。翼も角も爪も牙も、全てがばらばらで、統一感が無い。よくよく見てみれば、尾は蛇でできており、脚は片方が獅子のものでもう片方には蹄が付いている。随分とおかしな姿である。
これは今まで人間が見てきた魔物の記憶が混じり合って生まれた姿なのかもしれないし、人間が『魔物』と聞いてすぐ連想するような姿がこれなのかもしれない。どちらにせよ、人間の想像の身勝手さに魔物2人は嫌悪を覚える。
「人間のくせに、人間じゃなくなろうとしてるみたい」
いよいよ人間らしさなどまるきり捨てに走った人間のなれの果てに、皮肉めいたものを感じる。自分達を滅ぼした相手に近づこうとしているように見えるのは、強者にすり寄ろうとしているのか、成り代わろうとしているのか。
「フローレン……」
はたまた、ただ、『フローレン』の為だけに、姿を変じたとでもいうのだろうか。
動機はいい。人間の考えなど考えるだけ無駄だ。ましてや、気が狂った……むしろ、初めから正気など生まれていないような化け物を相手にするなら、尚更。
「どこから魔力が来たかが、問題だよね」
今、アレット達が成すべきことは、目の前の化け物を倒すこと。そしてそのために、魔力の出処を探ることだ。
「どう見てもあれは、おかしかった」
先程、急に差し込んできた光。あれによって、目の前の化け物は再び活力を取り戻してしまったように見えた。
玉座と王冠から供給されていた魔力については、それらを破壊することで断つことができたが……どこから来るのか分からない魔力には、対処できない。
思い出す。先程、どうだったか。思い出す。思い出して……天から降り注ぐような光を思い出して、今、目の前に居る化け物の色味を見て、思い出す。
化け物の色は、勇者の瞳の色だ。神の力を授かった人間の瞳は、あのように青空の如き色に変わる。レオもアシルもエクラも、そうだった。その色をわざわざ体に宿しているということは……あれは、勇者の力の顕現なのではないだろうか。
となれば……天から降り注いだ光の出処を思いついてしまう。
「……神様が味方してる、って?冗談じゃないよ」
神。
人間を勇者にし、魔物を生み出した、神。
……それの差し金だとしたら、アレット達はどうやって対処すればよいのだろうか。
「ねえ、ソル。さっきの魔力の流れ、止める方法は無いかな」
「生憎思いつかねえ。……人間が神に見放されてねえのが驚きだよなあ」
「そうだね。神様は実に慈悲深いみたい。こんなに愚かで醜い生き物に味方するなんて」
アレットと同様、ソルも苦い顔をしている。人間のなれの果てに魔力が供給されるようなら、魔物達の勝利は無い。どうにかして、魔力を止める必要があるのだろうが……その方法には、思い当たらない。
「とりあえず……攻撃するだけ、してみるね」
何も思いつかないのだから、ひとまずは動くしかない。一撃でも相手に攻撃を入れてみれば、また何か分かるかもしれない。
アレットはナイフを構えて人間のなれの果てへと向かっていった。
アレットが向かっていくと、明らかに化け物が怯んだ。
おや、と思いつつ、アレットはナイフを繰り出してみる。すると、化け物はどこから伸びたのやらよく分からない触手でアレットのナイフを受け止めた。どうやら、簡単に一撃入れさせてくれるほど甘くないらしい。
それでも諦めずに攻撃を繰り返していると、時折、すぱり、と化け物の表面を切り裂くことに成功した。
案の定、化け物の断面は不気味な青空色である。そして、ある程度切り傷が化け物に増えると、再び光が降り注ぎ、化け物の傷を治していった。
「狡いなあ」
それでもアレットは、化け物に傷を増やす。化け物は、アレットの攻撃を防ぎ、時折攻撃に転じつつも、ソルと戦っていた時より遥かに動きが鈍い。やはりどうやら『フローレン』に対する執着が僅かながら働いているように見える。それが理性ではないところがまた何とも厄介だが、それでも、利用しない手は無い。
「ほら、こっちだよ」
アレットが少々離れてやれば、化け物はそれに誘導されて動いた。そうしてアレットは、傷ついたソルから化け物をできるだけ離す。更に、そこで火柱を生み出して化け物を焼いてやれば、化け物の体は黒く焦げ、傷がいくらか入ったように思われた。
……だが、化け物にはまた光が降り注ぎ、焦げた表面も、火が通ったであろうその下も、それら全てが治っていく。この魔力はどこから来ているのだろう。そして、無尽蔵で無ければよいが、期待はできない。
そしてそもそも、この戦いをこれ以上長引かせたくない。ソルの血液は今も失われている。このまま放っておきたくない。
ならば、さっさと決着をつけるしかない。
それも、恐らくは、正攻法ではない方法で。
アレットは決意を新たに、人間のなれの果てへ向き合い……言葉を投げかける。
「アシル・グロワール」
すると、理性も何も無いような生き物が、反応したのである。
やはりこの生き物の意思の中心には、アシル・グロワールの意思があるのだろう。それは勇者故か、はたまた、他のどの人間よりも執念深かったのか。
いずれにせよ、名を呼んで反応があるなら、やりようがある。どうも、アシル・グロワールは魔物に理解できない執着を、アレット……否、『フローレン』へ抱いているらしいので。
「あなたの執着がその魔力を呼んでいるのかな」
答えは無い。だが、化け物の意識は今や、完全にアレットへと向いている。譫言のように『フローレン』と名を呼んでいるばかり。攻撃は、無かった。
「あなたが魔物になろうとしているのも、私のため?」
「ああ……フローレン」
……そして、答えをまるで期待せずにそう問えば、化け物が嬉しそうに口を開く。
「フロー、レン。俺は、人間じゃ、ない。人間じゃあ、ないんだ。だから」
それきり『だから』の先の言葉が出てくる様子はなかったが、その後に続くであろう言葉はなんとなく察することができる。
『愛してくれ』。
人間ではないから。魔物同士だから。……そう、言いたいのだろう。
どうも、この化け物の意思は……『フローレン』への執着は、固いらしい。
だからこそ、この化け物の根幹……この化け物の意思に、致命的な傷を負わせることができる。
「勝手だなあ」
アレットはそう言ってやって、ナイフを抜いた。化け物が警戒する様子はなかったが、アレットはその危機感の無さすら憎悪する。
「あなたは『フローレン』を愛しているあまり、魔物になりたいのかもしれないけれど。でも、そんなあなた達人間は私達の愛する仲間達を、魔物を、散々踏み躙ってきたじゃない」
アレットの言葉に、反応らしいものは無い。『フローレン』が自分に向けて喋っているという事実だけが、この化け物には大切なのかもしれない。
「あれだけ殺しておいて……フローレンも殺しておいて、愛してほしいなんて烏滸がましいよ」
だが、そう言えば、少々反応が見られた。『フローレン、殺した……?』と、化け物が動揺する。
レオ・スプランドールが殺したフローレンのことを、人間達は誰も知らないだろう。人間は殺す魔物の名など知ろうとしない。否、そうでなくとも魔物の名など知らないのだ。今、目の前の化け物がアレットの名を知らないくらいなのだから。
「たかが50年くらいで死ぬ人間にとっては、すぐに消えていって『昔のこと』になるのかもしれないけれど。でも、私達魔物は、忘れない。ずっと」
魔物は500年、800年を生きる。人間が死んで死んで死んで死んで、その先の歴史ですら、魔物にとっては自分の生の中の出来事でしかない。
だから、忘れない。人間が都合よく忘れようとしている罪を、魔物達はずっと、忘れない。
忘れて身勝手に振舞う人間を、許さない。絶対に。
「ねえ。執着の対象が無くなった時、あなたはどうなるんだろうね」
アレットが問うも、化け物はどこかおろおろとしているばかりであった。どうも、天から注がれる魔力は化け物を急かすようでもあったが、それを聞き入れる気にならないらしい。
「アシル・グロワール。あなたは、愛する者が死んだことは、ある?そして、あなたには、愛する者の屍を踏み越えて、それでも進む気概がある?……無いでしょう?だから今、あなたはそうなってる」
化け物の体が揺れる。魔物を真似た角や爪が、ぶるん、と如何にも柔そうに震える。理性などほとんど無い様子であるのに、不穏な何かを感じ取ってはいるらしい。
「私はね。愛する者を奪っていったお前達を、滅ぼすためなら。そのためなら、この命くらい、惜しくない」
アシル・グロワールはもう、間に合わない。取り返しがつかない。
零れた水は、もう、戻らない。悔いても振り返っても、二度と。
「さよなら、人間」
取り返しのつかないことをした、と、アシル・グロワールが意識の片隅で思ったかどうか。
……アレットは、手にしたナイフで自らの胸を突いた。