零れた水*8
2人の攻防は激しい。
ソルは素早く、手数を増やして戦う性質である。パクスやガーディウムのように一直線に突っ込んでいって力任せに相手を屠るような、そういった戦い方はしない。かといって、アレットのように策を弄することは苦手であったし、ベラトールのようなしなやかさも無い。ヴィアのように奇策に頼ることもしない。
ソルの戦い方は、躱して、躱して、突く。そういったものである。非常に単純でありながら、細やかで、鋭い。そして何より、速い。
『銃弾より速い鴉』の名は伊達ではない。ソルはそれこそ、どんな人間の目にも追えない速度で動き、人間が一度瞬きをする間に二発三発、と攻撃を入れていく。ソルのナイフは最早、光の筋となってしか捉えられない。
……だが、偽物はその斬撃の全てをその体で受け止めて、ごぷり、ごぱり、とその都度体を切り裂かれていって尚、死ななかった。
「どういう造り、してやがる!」
ソルがナイフで切り裂いた断面は、骨も肉も無くただ均一な、青空色。人間でも魔物でもない奇怪な生き物は、斬撃の前にまるきり無敵であるらしい。
『スライムみたいなもんか』と見当をつけて、ソルは偽物を思い切り、蹴り飛ばす。そしてそこに闇の拳で追い打ちをかけてやれば、偽物は吹き飛び……吹き飛んだ先で床にべしゃり、と潰れて、そしてまた、ぶるりと震えて元の形に戻るのだ。
更に、偽物はやられっぱなしではない。斬りつけられても、吹き飛ばされても、その間も尚、ソルへの攻撃を諦めなかった。
その手のナイフはソルと変わらない速度で振りぬかれ、更に、奇妙なことに刀身が時折、伸びるのだ。紙一重で躱したと思った刃が太腿を切り裂いていくのを見て、ソルは舌打ちした。
……そう。偽物は、ソルと変わらない速度で動くのである。非常に厄介で、忌々しいことに。
「ド下手糞のくせに体だけは動くのかよ」
偽物の戦い方は、非常に稚拙だった。技術が足りない。圧倒的に、ソルに劣る。
だが、技術の不足は、切られても死なない体で十分に補填できてしまっている。そして、やはり偽物は、速い。それこそ、ソルと同じくらいに。……だから、両者は拮抗している。
さて、どうしたもんかね、とソルは悩む。その間にも偽物からの斬撃を受け止め、いなし、そしてその隙に一撃入れてやりながら。
……偽物は、どうも、斬撃に対してとても強いらしい。切れば断面が覗き、しかしそこには何もない。あんな体では、切られたところで全く痛手ではないだろう。現に、偽物は切られたことにすら気づいていないような様子で、攻撃に転じているのである。
だが……。
ふ、と思って、ソルは偽物に、偽物にも見切れるであろう速度まで落とした斬撃を浴びせる。
……すると、偽物は避けた。避けずとも斬撃を無効化できてしまう奴が、である。
つまりそれは、避けたい理由があるということ。
ソルはそこから、猛攻を繰り広げた。人間どころか、アレットにすら目で追うのがやっと、という速度で、偽物を切りつけていく。
ソルの速度に偽物は反応できない。
「体の性能までは盗めても、技術は盗めねえみたいだな」
読み合いも、刺突斬撃の正確さも、ソルの方が上だ。偽物は所詮、偽物に過ぎない。だから、こんな奴に負けるわけにはいかない。
ソルは偽物の斬撃を紙一重で躱しながら……偽物の心臓の位置に、ずぶり、とナイフを突き立てる。その傷もまた、すぐさま青空色の粘液によってふさがって消えていったが、それでも、ソルはまた斬撃を続けた。
一発、二発、三、四、五六七八九……数えきれないほどの速度と数が襲い掛かって、偽物の体の一部、その指や腕、髪の一房が切れ飛んでいく。切り離され、床に落ちたそれらは、青空色のどろりとした液体に変化して、べちゃ、と床を汚していった。
……更に。
「こっちかな?えい」
アレットが、動いている。偽物が座っていた玉座……その座面に深々と、ナイフを突き立てていた。
アレットが玉座を狙ったのは、単純に、そこからソルの偽物が現れたからである。一度燃やし尽くしたというのに、玉座からまた、湧いて出た。
……となれば、この玉座こそが、人間達のなれの果ての正体なのではないか、と推測したのである。今、ソルと戦っている偽物はいわば、本体から切り離された枝葉の一本程度であって、だからこそ、燃やされても大した痛手ではなかったかのように次の体が生まれたのではないか、と。
また、今、ソルが斬撃を繰り返し浴びせた後……玉座が、蠢いたのである。そして、床に落ちた青空色の欠片は、もぞもぞと動いて、玉座或いは偽物へと向かっていく。これはつまり……この生き物の体の一部、もしくは本体そのものが、あの玉座にあるのだろう、と。そう、アレットは考えたのだ。
そして、アレットのその予想は概ね、当たっていたのである。
「うわ、なんか出てきた」
アレットがナイフを突き立てた玉座からは、青空色の塊がでろりと零れ出る。人間が血を流す様よりずっとどろどろと粘ついて、なんとも醜く悍ましい光景だが……これが人間の寄せ集めの姿だ。アレットはそれをよく知っている。
「お。アタリか」
アレットの行動によって、ソルの方も状況が変わってきていた。
偽物の動きが、鈍った。今まで無尽蔵に与えられていた魔力の供給を絶たれたかのように。
更に、偽物の傷の治りが次第に遅くなっていく。今も、ソルのナイフが大きく切り裂いていった偽物の肩口が、ぱっくりと開いたまま空色の断面を見せている。傷は徐々にふさがっているようでもあったが、それにしても、遅い。先程までとは大違いである。
「アレット!『もう片方』もやっちまえ!」
「うん!」
そしてアレットは、玉座を滅多刺しにしていた手を止めると……玉座の横に落ちていた王冠へと、手を伸ばした。
アレットがこれに触れるのは二度目だ。一度目は、父も兄も殺したアシルの頭上に、血に濡れたそれを戴かせてやった。……血族全てを失ったというのに今までより余程幸福そうで希望に満ちていたあの時のアシルは、人間の倫理の轍から外れていた。人間ではなくなったアシルの転落の象徴が、この王冠である。
……アレットは一度目と然程変わらない気持ちで王冠を持ち上げる。すると、偽物がそれに反応した。
大切なものに触れられたくないのか、とも思われたが、どうも、そうではないらしい。
「フローレン!」
偽物は、喜色満面でアレットへ近づこうとした。ソルのナイフを無視してそんな行動に出たものだから、あっさりと、手足を切り刻まれてその場に倒れる。
それでも、偽物はアレットの方へ、期待に満ちた視線を向けているのだ。
「……別に、あなたに被せてあげるために持ち上げたんじゃないよ」
アレットはそんな偽物の期待を踏み躙ってやりながら、その王冠を……破壊した。
ぱきん、と、案外軽い音を立てて、王冠が壊れる。豪奢な金細工も、魔力を得た魔物の手にかかれば十分素手で圧し折れる代物だ。
次いで、王冠に張ってあった赤い布……きっと血を存分に吸い込んだであろうそれを、燃やす。
「フローレン、何をしているんだ……?」
偽物の震える声に答えず、アレットはナイフを抜いた。
王冠にはめ込まれた宝石。それら1つ1つの中央に、ナイフの切っ先が叩き込まれていく。刺突に然程強くない宝石の数々は、粉々に割れ砕けて散っていった。
「フローレン……?」
今や、ソルの攻撃を避けようともせず、そして、治らない傷からどろどろと空色の塊を零して、偽物はアレットをただ、見ている。
「人間の歴史がここにある、っていうことなのかな」
アレットは玉座と王冠を、じっと見つめる。
……魔物の国にも、同じようなものがあった。魔王から魔王へ受け継がれてきたもの。或いは古い魔法が収められた魔法の品。そういった貴重で美しいものはほとんど全て、人間の手によって奪われ、或いは破壊された。
魔物の国の長い長い歴史を宿したそれらを、特に悪いとも思わず、重大な罪であるとも思わず……ただ、何とはなしに。そういった調子で、人間は魔物の国を蹂躙していったのである。
だから、人間の国も、同じ目に遭ってよいだろう。
「これで、人間の国の歴史はもう、終わり」
床に勢いよく投げ捨てた王冠が、歪む。今まで丁重に扱われてきたであろう王冠も、粗雑に扱われればそれきりだ。
がらん、と重い音を立てて、王冠の残骸が床に転がった。
……その時確かに、人間達のなれの果てである化け物と、人間の国との繋がりが絶たれたのを、ソルもアレットも感じ取ることができたのである。
「あ、ああ、あああ……」
ソルの偽物の表情が、歪む。まるで、酷い悪夢を見て跳び起きた直後のような、そんな様子で。
更に、今までの再生ぶりが嘘のように、傷口からぐずぐずと、溶けるように崩れていく。……いよいよ魔力を失って、人間の意思の最後の一欠片も今、消えようとしている。
「成程な。玉座と王冠、か。これが人間の魔力を寄せ集めてたみたいだな」
ソルがアレットの隣へひらり、とやってきて、アレットが破壊したそれらを見下ろす。どうやら、これらが魔法の触媒であったらしい。人間の積み重ねてきた歴史の象徴でもあり、人間の国の長い安寧の象徴でもあったこれらに、人々の意思や魔力が吸い寄せられた、ということなのだろう。
「フローレン、フローレン……俺を、こっちに、なんで」
化け物は今や、意味を成さない言葉の切れ端を繋ぎ合わせて呻くだけの代物になり果てていた。元より意思も魔力も寄せ集めで継ぎ接ぎの化け物だ。意味を成さない台詞がお似合いかもしれない。
「フロー、レ」
……そして遂に、言葉すら発されなくなる。言葉を発するための口が崩れ落ちたためだ。
『ソルの顔でこういう崩壊の仕方はしないでほしいなあ』と思いつつ、アレットは崩れていく化け物を見つめた。
ソルにそっくりな顔の中、唯一ソルとは異なる、その、青空色の瞳。それが口よりも余程雄弁に、アレットを見つめている。
『愛してくれ』と。
だが、アレットがそれに応えてやることは無い。
「よかった。これでようやく、人間が滅ぶ」
今まで散々魔物を踏み躙ってきた人間を、魔物が愛するわけがない。
ぱっ、と光が差し込む。それは、窓も何も無い天井から。
「……何だ?」
ソルが警戒する中、アレットはふと、嫌な予感を覚えて動く。未だ崩れ切らない青空色の塊からソルを隠すように、前に出て……。
アレットの目の前で、見る見る内に、青空色の塊が蠢く。
伸びて、ひしゃげて、形をつくり……そして。
それは、翼を広げる。黒絹の如き艶やかな、蝙蝠の翼だ。
蝙蝠の翼が広がった後には、頭部から角が生える。鹿の角か、竜の角か、判然としないような歪な角だ。
更に、その口には牙が覗き、指先には鋭く爪が伸びる。それでいて体は不安定。青空色の塊が時折覗いては、ぶるり、と震えた。
「……フローレン」
そうして継ぎ接ぎで寄せ集めの魔物のような姿になって、人間のなれの果ては、アレットに微笑みかけた。
その後ろにいたソルを、背後から突き刺しながら。