零れた水*5
血でできた腕は、血だまりから伸び上がり、そして、すぐに消えた。ソルとアレット、それぞれのナイフが血の腕を切り落としていたからである。
「やったか?」
「ううん、まだだと思うな」
「だな。俺も同感だ。切った心地がしねえ」
切られた腕はただの血液に戻り、ばしゃ、と血だまりに跳ね落ちた。だが、静かになった血だまりを存分に警戒しつつ、ソルもアレットも、油断なくナイフを構えたままだ。
……そして、2人の背後、修道女の血だまりであったそこから、腕が伸び上がる。
「よし、もらい!」
だが、伸び上がった血の腕は、アレットが放った火球によってじゅわりと焼けていく。声なき悲鳴が祈りの間を満たし、そして、しゅるしゅると萎むようにして、血の腕は血だまりへと帰っていく。
「まあ、血でできた魔物だっつうことなら、刃物には無敵でも火には弱いよなあ」
ソルはアレットの手柄を讃えつつ……しかし、血の腕が消えた血だまりを見て、次いで、壇の下……数多の人間達が折り重なって倒れ、そして血の海と化しているそこを見下ろす。
……そこには、にゅるにゅると、無数の腕が伸び上がっては何かを求めるように揺れていた。
「わあ、すごい数」
「こいつは……見苦しいなぁ、おい」
魔物2人は、血の腕如きに怯まない。このような魔物は初めて見たが、まあ、ヴィアみたいなものだろう、と2人は見当をつけていた。ただし、ヴィアよりも体の自由が利きそうだな、とも。
「どうする。あいつ、血から血へ、移動できるらしいな」
「そうだね。しかも、一体何匹居るのか分からない」
蠢く血の腕を眺めつつ、2人は首を傾げる。
……目の前のこの魔物は一体何だろうか、と。
「まあ多分、大神官の血から生まれた魔物、ってことだよな」
ソルがそう言えば、アレットは頷く。要は、ヴィアと同じだ。死んだ人間の意思が残留していて、それが彷徨い、魔力と出会って、そこで魔物となる。これはそういうものだろう。
「問題は、魔力がどこにあったのか、ってことだが……大神官が魔力を持っていたのか?」
「うーん、可能性はないわけじゃないと思うよ。シャルール・クロワイアントも一枚噛んでいたわけだし、魔力をちょっとだけでも、大神官に与えていた可能性はあると思うし、そういう道具を持っていてもおかしくないと思うな」
シャルール・クロワイアントは、神の力の一部を酒瓶に入れて保存していた。それがアシル・グロワールに贈られたり、シャルール・クロワイアント自身の強化に使われたりしていたわけだが。
……となれば、そのように実体を持つ形状にされた魔力を、大神官が持っていてもおかしくはない。何せ、一応は大聖堂の頂点に君臨していた者だ。多少、そういったものを持っていたとしても何らおかしくはないだろう。
「それに……まあ、これだけ人間が死んだわけだしな」
「ああー……まあ、そうかあ……これだけ居れば、魔力持ちも居たかもしれないしね」
人間は魔力を持つ生き物ではないが、それでも、微量には魔力を持つ。特に、魔力持ちの人間が居れば、それは魔力の少ない魔物程度の魔力なら持ち合わせていておかしくない。
……そして、そのような魔力を全て集めたのなら、それなりの量の魔力が得られるだろう。ソルとアレットも、ここにある全ての死体と血液を全て食らいつくせば、多少の魔力の強化が望めるかもしれないのだ。無論、そんなことをする程に胃が大きくない2人には不可能な話だが。
「まあ、魔力は説明が付くな。大神官の所有物か、人間の中に魔力持ちが紛れ込んでたか、或いは、ただの人間の塵芥みてえな魔力が大量に集まってそれなりの量になったか、はたまた、全部か、だ」
「そうだね。そこまではいいと思う。問題は……『誰の意思が』あの魔物になってるか、だよね」
……ソルとアレットは、血の海から生え出る無数の腕を眺めて、首を傾げる。
思い当る節が無いので。
「大神官……じゃねえのか、これは」
「うーん……ヴィアの話を聞く限り、余程強い思いが無い限りはそうそう、人間が魔物になるようなことは無さそうだったけれど」
死んだ人間が誰しも魔物になるというのならば、ヴィアの恋人であったという女性もまた、魔物になっていて然るべきである。そして何より、アレット達が今までに殺してきた数多の人間達が全て魔物になっていないとおかしい、ということになる。
……自覚なくそうなっている可能性も無いわけではないが、それよりは、『通常、人間は死んだ後に魔物になるようなことは無い』と考える方が自然だろう。
「余程強い意志があった、ってことだよな……まさか、勇者か?」
まさか、アシル・グロワールの再来か、とソルが身構えるも、血の腕はうごうごと蠢くばかりで、アレットの火球に焼かれたりソルの闇の手に叩き潰されたりしながら徐々にその数を減らしているばかりである。勇者らしさは欠片たりとも見当たらない。
「……アシル・グロワールだったら、私に向かってもっと手が伸びてきてると思うよ。殺したいほど憎いだろうし、そういう意思で魔物になりそうだし」
「或いは、殺したいほど愛してる、かもな」
「うわあ、嫌だなあ、それ」
「俺も嫌だがそういう人間だったんじゃねえのか、あれは」
ソルとアレットは好き勝手言いつつ、アシル・グロワールへの漠然とした嫌悪感を抱きつつ、適当なところで再び、目の前の魔物に意識を戻す。
……怪物、ではない、と思われる。シャルール・クロワイアントが生み出していたような、意思なき魔物とは、違う。恐らくは。
だが、意思があるなら、もっと明確な行動があってもおかしくないのだ。
今、血の腕はアレットやソルに伸ばされることもあるが、然程攻撃的ではない。少なくとも、捌き切れないほどの攻撃が襲ってくるわけでもなく、ただ蠢いている腕が随分と多い。
明確な意思があるというよりは、戸惑っている。そんなように見えた。
「考えがまとまっていないように見えるね」
「だな。或いは、意見が統一されてねえ軍隊、ってところか」
血の腕は、出てくる血だまりもまちまち、狙うものもまちまち、行動もまちまちだ。腕1つ1つが別の魔物なのかとも思うが、そうであったならばより一層、『誰の意思か』が分からなくなる。
「ったく、妙なことになっちまったな。一体何が起きた?まさか、神の悪戯ってんでもねえだろうに」
「人々の祈りが神に通じた、とか?うーん、嫌だなあ、それ……」
ソルもアレットも、目の前のこれをどうするか、少々考え、悩み、愚痴を零すようにそう言って……。
「……それだ」
そこで、アレットが、気づいた。
「これは人間の祈りじゃないかな。人間の祈りが折り重なって、1つの意思になって……魔物になった」
人間達に確固たる意思があったようには思えない。アレット達に立ち向かってくるような者はおらず、逃げ惑うにしても不本意であるように見えた。だが、そんな人間達は皆揃って、『死にたくない』とでも思っていたらしく……その意思は、その意思だけは、確かに統一されていたのだ。
「1人の意思じゃなくて、沢山の人間の意思で、あの魔物はできてるんじゃないかな」
「成程な、その正体が、『祈り』か」
ソルは『これが祈り、か』とぼやきつつ、血の腕が蠢く様を見渡す。これが祈りのなれの果てなら、随分と醜い祈りだな、と思いつつ。
「なら燃やさない理由がないね。人間の祈りなんて、残しておいちゃいけない」
「だな。纏めて燃やしちまえ」
そしてアレットは、容赦なく火球を生み出し、血の腕を焼いていく。無抵抗な腕も、抵抗する腕も、皆等しく焼いていく。
血の腕は苦しむようにうねり、藻掻く。だが、それらも全て、燃えては灰となって散っていくのだ。人間の祈りなど、全くの無力である。
それでも時折、アレット達近くの血だまりから生え出る腕があるが、それらはソルによって念入りに叩き潰された。切る蹴る殴るの類が効きにくい血の腕相手であっても、血だまりまで散らし潰す勢いで潰してやれば無傷ではいられないらしい。
アレットとソルの攻撃が降り注ぐ度に、血の腕は醜い叫び声を上げた。
血の腕の先、手のひらには口のようなものが生じ、そこからごぼごぼと血が溢れ出す。或いは、叫びや意味を成さない呻きが漏れ出て、そして……多くの腕が揃って、祈りの言葉に似たリズムで、しかし、すっかり意味など失われた鳴き声を上げるのだ。
揃いも揃ってやることがこれである。数が集まれば確かにそれなりのことができるのだろうが、それが美しくは見えない。
人間というものの醜さを存分に目の当たりにして、ソルもアレットも、憎悪と嫌悪を深める。……それ故に、2人が血の腕を片付けるまでに、然程、時間はかからなかったのである。
一刻も早く、この醜い祈りの塊を消したかったので。
そうして2人の魔物は、血の腕を消し終えた。
人間達の祈りも血の海も消えた大聖堂の祈りの間は、がらんと広い。人間達が死んで、大聖堂はようやく、静謐な空気を取り戻していた。
「はあ……こういうこともあるんだね」
「今後が思いやられるな、おい。流石に意思がまとまって1つの魔物になるなんて考えてなかった」
だが、魔物2人の表情は暗い。
……ヴィアの例を聞いて、『成程、強い意志を持って死んだ者は、その魂を遺していくことがあるのか』と考えていたが……まさか、弱い心、脆弱な魂しか持たない人間が、このように数が集まっただけで1つの大きな意思を生み出すとは。
ましてや、人間1人1人の微弱な魔力が集まるだけで、魔物が生まれるほどの魔力となるなどとは、思っていなかったのだ。
「これ、王都の様子もまた見に行った方がいいね」
「だな。まあ、まずはここの掃除から、だが」
……人間を根絶やしにするのは、案外難しそうである。アレットとソルは揃って、ため息を吐くのだった。