零れた水*4
翌朝。アレットはソルの翼に埋もれ、木の上で目を覚ました。
2人は昨晩、木の上で眠ることにしたのである。人間達は、そうそう木の上になど気を配らない。見張りを立てずとも、木の上であるならばある程度安全であった。
ほわり、と白む空の端を見つけて時刻を知り、それからもそもそと動いて、ソルを起こさないようにそっと抜け出す。太い木の枝の上に簡易的に作った寝床を揺らすことなく枝の上に立てば、風が冷たかったが何とも爽やかだった。
大きく伸びをして、アレットは微笑む。ソルの翼と2人分の毛布に包まれて、随分と快適な眠りだった。昨夜ソルが作った肉と芋のシチューで満腹になって、そしてぬくぬくとよく眠ったものだから、アレットはすこぶる快調である。
「ん……」
「ソルが起きるにはまだ早いよ」
ソルが身じろぎして呻いたのを聞いて、アレットはくすくす笑いつつ、ソルに毛布を掛け直してやる。どうやら、アレットが腕から抜け出して少々寒かったらしい。毛布をしっかり掛け直してやれば、ソルはもう少々もぞもぞ動いた後、またとろとろと眠りの中に沈んでいく。
アレットは木の上に置いておいた昨晩の残りのシチューの鍋を取ると、地上に降り立って火を熾し始める。朝食にはこれを温めて食べればいいだろう。他に幾らかパンを切って焼き直し、煮た果物の瓶詰を出そうと決める。茶を淹れてゆっくりするのは次の町を落としてからにしよう、とも。
ソルが寝ている間に、アレットは自分の武器を手入れしたり、地図を確認し直したり、手近なところにあった野草を採取したりして過ごす。ソルも疲れが溜まっていたと見えて、少々寝坊しそうである。こんな時くらいゆっくり寝かせてやりたい。今まで、満足に眠れない日々が続いていたのだから。
そうしてソルが起きてきたのは、朝陽が真横から差し込み、長く濃く影が落ちるようになってからだった。
「悪い、寝過ごした」
「それほどでもないと思うけどなあ」
ソルが慌てたように木の上から降りてきたのを見て、アレットはくすくす笑って出迎える。『そろそろかなあ』と思って用意しておいたシチューの鍋は、丁度よく温まってほこほこと湯気を立てているところだ。
「お前が抜け出してたってのに気づかず寝てたんだぞ?自分で自分が心配にもなる」
「成程、私の気配の消し方が完璧ってことか。やったね」
アレットはにっこり笑って、『これ開けて』と果物の瓶詰をソルに渡す。少々硬すぎる瓶の蓋は、ソルが力を籠めると、ぱこ、といい音を立てて開いた。それを見てアレットは『私よりも寝起きのソルの方が力が強いのかあ』と何やら寂しいような腹立たしいような気持ちになる。アレットは魔力によって力より速さや魅了の力が強化されたようなので、当然といえば当然なのだが。
「さ、ご飯を食べたら早速町1つ、落としに行こうね」
「おう。今日も働かねえとなあ……」
のんびりと朗らかにそんな会話を交わしつつ、2人は朝食を摂り始める。これから町が1つ滅ぶとは思えないような、そんなのどかな朝だった。
朝がのどかでも、一刻後にはもう、町が滅びていた。
「他愛ねえな」
「人間達は戦士でも大して強くないからね」
数々の人間を殺し、2人の魔物が笑う。人間から見れば恐ろしい光景だろうが、2人にとっては当たり前の、ごくありふれた光景である。
「これで東の町も落ちたから……次は西に向かって、船を優先しなきゃね」
「今日中に漁村の1つくらいはいけるか?」
「うーん、そもそも存在するかが怪しいけれど。まあ、見てみようか」
アレットもソルも、空飛ぶ魔物である。それも、相当に速い。アレットの速さはソル程ではないにせよ、それでも人間が馬を駆るより更に早く移動することができるのだ。魔力を得て磨きが掛かった2人の飛行を止められる人間は最早居ない。
そうして2人は、凄まじい速さで海岸線をぐるりと見て回る。船があればその都度破壊していき……そして、昼前に小さな村を発見し、そしてそこに逃げ込んでいた様子の人間をも見つけて、纏めて全員殺すことになった。
その村の跡地で肉を焼いて昼食とした後、夕方、そして夜になるまで、2人は町を探しては潰し、町を探しては潰して、人間達の退路を絶っていったのである。
そうして3日で、人間の国の外周は滅びた。船は全て消え、町村は全て消え、そして、そこに居た人間達も消えたのだ。
……そうしていよいよ、内陸部の攻略が始まるのである。それも凡そ一週間程度で終わるだろうし、それが終わればいよいよ、大聖堂の攻略に入ることになる。
「大聖堂を中心にぐるぐる周っていくのがいいかな、って思うんだよね」
「だろうな。最終的に大聖堂に人間を集めるってことなら、それがいい」
アレットとソルはまた地図を見ながらのんびり話す。……今日もよく働いた。今までで一番多くの人間を殺した日になったかもしれない。それほどまでに、沢山の町を潰し、そこに居た人間を殺した。
「……大聖堂は今、どうなってるかなあ」
殺しに殺した夜、思い出すのは大聖堂の様子だ。一時的にあそこに居たアレットは、今、あの大聖堂はどうなっているだろう、と思いを馳せる。
大聖堂というくらいなのだ。神への祈りの機関なのだが、果たして、人間達はこの期に及んで未だ、神に祈っているのだろうか。神の力を与えられたという勇者が3人も死んだ今も、そうして神に縋っているのだろうか。
「神は人間を救い給うかね。……万一救い給う時が厄介だな」
「そうだね。最悪の場合、神様まで相手にしなきゃならなくなっちゃう」
ソルとアレットは顔を見合わせて苦笑しつつ、そんなことを言う。
魔物達の間にも信仰はある。人間達のそれとは大きく異なるものだが、それでも確かに、2人の心の中には漠然とした信仰があるのだ。
神は、世界に魔力を与えた。そうして『魔物』という特殊な生物を生み出し、魔物達は自由に、そして慎ましやかに暮らしていたのである。自分達の力の根源を今更疑う気は無い。例え、人間の神と魔物の神が同じでも。
……人間が崇める神と魔物を生み出した神が同じ存在だとしたら『何と無駄なことを』とは思うが、それだけだ。絶対的な力は存在しており、そして、それは人間の味方ではない。恐らく、魔物と人間、どちらの味方でもなく敵でもないのだろう、と思われた。
だが、人間達はそうは思っていないらしい。神は人間達の味方であり、『悪しき』魔物を滅ぼしてくれる、などと信じているようなのだ。
「悪しき魔物、っつうんなら、勇者だって悪しき人間だろ、と思うんだがな」
「ね。それで、悪しき人間である勇者を滅ぼした私達は神様みたいなものかもね」
「ははは。皮肉なもんだなあ」
ソルは楽し気に笑って、鍋をかき混ぜる。甘辛く炒め煮にされている肉が何とも美味そうな香りを漂わせて、アレットは思わずにっこりと笑った。
「連中がどんな祈りの文句を連ねてるんだか、気になるな」
「ね。それを楽しみに大聖堂まで頑張ろう」
人間への憎悪は未だ、魔物の心の中にある。永遠に消えないそれを燃やして、2人はまた、人間達を滅ぼしにかかるのだ。
それから一週間ほど、2人は内陸部を攻撃し続けた。
人間は数が多い。国土も魔物の国より広く、町や村を1つ残らず潰していくのは中々の骨であった。
それでも何とか2人がやってのけたのは、2人が機動力に優れる空飛ぶ魔物であったからだろう。高い空から地上を見下ろして、遠くの町を見つけては急襲する。そして町の人間を皆殺しにしたら、次の町へと飛んでいく。
……その速度たるや、人間達の間に流れる噂と同等の速度であった。先に沿岸部を狙って襲っていき、王都近隣の町は後に残しておいたというのに、未だ、王都陥落を知らない街すらあったのである。
王都で生き残った人間が少なかったことも一つの要因であろうが、何よりも、人間達があまりにのんびりとしていた、ということが大きいだろう。
人間達は、侵攻されるなどとは思っていなかったのだ。魔物の国を散々侵攻していた癖に、自分達がその目に遭うとは思っていなかったのである。だから危機感も無く、想像すらせず……自分達の町が滅ぶ、という時になってようやく、自分達が絶対的な平和の中に居たわけではなかったことを知る。
そんな調子であったので、然程手間取らずに各地の町を滅ぼすことができた。それはそれは、あっさりと。
人間を殺し、町が滅ぶたびに、ソルもアレットも喜びと憎悪、そして空しさを感じていた。
人間が滅ぶことは喜びであったが、このように簡単に死ぬ存在が今まで傲慢にも魔物の上に君臨しているかのように振舞ってきたことを深く思い知ることになり、憎しみが募った。そして、然程苦労せずとも死んでいく人間達を見ていると、どうにも達成感に空しさが混じる。このように矮小な存在に魔物達が苦しめられてきたことに、納得のいかないような気持ちになるのだ。
……それでも2人は、人間を殺し続けた。人間が生き残るようなことがあってはならない。これからの魔物のためにも、今までの魔物のためにも。
そんな思いで人間を殺し続け……そうして遂に、ソルとアレットは大聖堂の前に立つことになったのである。
「長かったな」
「そうかな。たった1か月にもならないくらいだったじゃない」
ソルとアレットは微笑みあいつつ、言葉を交わす。
……大聖堂は魔物2体の接近を察知してか、門を固く閉ざし、防衛のための大砲や銃をこちらに向けている。だが、そんなものは今や、大した脅威ではない。
そして、大聖堂の塔では祈りの鐘が鳴らされており、そして防壁の向こうからは、祈りの歌声が聞こえてくる。人間達が神に祈りを捧げるための歌だ。その、有象無象が声を揃えて歌う様子に、ソルとアレットは笑う。
「この期に及んで祈る他にすることがないのかあ」
「精々、神に祈るがいいさ。神は俺達の味方だ」
そうして大聖堂の壁を、炎で、闇の手で、易々と崩していくのだ。
大聖堂の中は人間で溢れかえっていた。各地で焼き出され、或いは、たまたま町から離れていた行商人や旅人が滅びた町に戻ってきて惨事に気づき……そうして皆がこうして大聖堂に集まってきていたらしい。
愚かなことだ、とアレットは思う。このように集まっていては、如何にも纏めて焼き殺してくれと言っているようなものではないか。
……これが魔物であったなら、きっと、各地に散らばる。それぞれが生き残ることを最優先に動いて、そして、未来に希望を繋げるように、各々が努力するのだろう。わざわざ敵に見つかりやすいように鐘を鳴らして歌を歌って神に祈るような愚は犯さないし、祈るより先に成すべきことをいくらでも成す。
「ああ、神よ!我らをお救い下さい……」
祈るだけで抵抗もしない人間が、また無造作に死んでいく。アレットが操る火柱は、次々に人間達を焼き殺していく。大聖堂の天井を焦がし、人間の悲鳴を次々に上げさせて。
「ああ!逃げろ!逃げろ!魔物が、魔物が……」
「殺される前に殺そう、って気概のある奴は居ねえのか」
ソルもあっさりと、そのナイフで、鉤爪で、そして闇で形作った手で、人間達を殺していく。人間達は一方的に殺されるばかりで、まともに抵抗してくる者は居ない。
「ま、待ちなさい!魔物よ、蛮行はそこまでです!」
だが、ようやく骨のある人間が現れたか、と、ソルとアレットは声の方を向く。……すると、シャルール・クロワイアントと手を組んでいた大神官が壇上に立っているのが見えた。
「魔物よ、その行いを神の前で懺悔するのです。悔い改め……」
そして言葉を発し終えない内に、あっさりと、アレットのナイフによってその喉を裂かれて黙ることになる。
「あれ、全然大したことなかった」
つまんないね、とアレットは大神官を見下ろす。『悔い改めろ』などと言ってくる傲慢な人間を許してやる気は無い。
「神に祈ろうが無駄だってことだな。やれやれ……」
ソルも『さあてどう料理してやるかな』とばかりに大神官を見下ろす。大神官が震えあがっているが、喉を突かれているのだ。どのみちそう長くはないだろう。
……そうしてソルとアレットの意識が大神官に向いているのを好機と見てか、人間達が出口へ殺到する。……だが、アレットは腕の一振りで火柱を上げさせ、出口を塞いだ。勢い余った人間がいくらか火柱に突っ込んでいき、そのまま焼かれて死んだ。
「どうして、このようなことをするのですか……?」
人々の悲鳴を聞きながら、壇上の隅に蹲っていた修道女が、嘆く。
「魔物は知らないのでしょうね!アシル陛下は、勇者様は……あなた達のような野蛮な魔物とも、和平の道を探ろうとしておいでだったのですよ!?」
「知ってるよ、それくらい。……傲慢な人間の稚拙な考えだったよね」
アレットが笑って修道女にそう言ってやれば、修道女は『理解できない』とばかり、目に涙を湛えてアレットを見上げた。
「いいか?何度でも思い出せ。先に手を出してきたのは人間だ。何百年も前から、そうだった。俺達はずっと、魔物の国から出なかったし、人間の国へ侵略なんざしなかった。お前らが、一方的に俺達を殺して奪ってた。それを俺達が、許せると思うか?お前達は今更、許しを乞うのか?」
「で、ですから、今こそ、憎しみを忘れて、過去ではなく、未来のために……」
修道女の首が切れ飛ぶ。ソルが我慢の限界に達したためだ。
「零れた水はもう戻らない」
ソルは振り返って、壇上の様子を恐る恐る見ていた人間達を嘲笑う。
「俺達の未来に、お前ら人間は必要ない」
……そうして、大聖堂の中に居た人間達は、次々に血飛沫を上げて死んでいったのである。
大聖堂が、人間の死体と血で溢れかえる。神への祈りを捧げていた人間達は、その祈りも空しく神の御前で物言わぬ躯となった。
最早、清廉な空気はどこにもなく、ただ、祈りの間は血生臭さに満ち満ちている。これが祈りの結果だというのだから、全く惨たらしいものである。自分でやったことながら、アレットはなんとも皮肉に感じて、唇に少々の笑みを乗せた。
「さて、残党を片付けねえとな。どうせまだ、奥の方に残ってるだろ」
「多分ね。地下にも気配がある」
ソルと頷き合って、アレットは大聖堂の奥へと進んでいく。ここに逃げ込んでいる人間達は、これで終わりではないはず。そしてそもそも、大聖堂の中だというのに、未だ、聖職者をそれほど殺せていない。ということは、どこかに隠れているということだ。
さあ人間を殺すぞ、とアレットがナイフの血を払いつつ、大聖堂の奥へと踏み出した……その時。
ぴしゃ、と、水が跳ねるような音が聞こえる。
ソルもアレットも即座に振り向いて武器を構えたが、背後には何もない。……血だまりの他には、何も。
「……大神官の血、か」
「成程ね。確かに、ありそうだけど」
だが、2人はその血だまりに武器を向ける。
……そしてその瞬間、血だまりから伸び上がった腕のようなものに向けて、2人の攻撃が殺到したのだった。