零れた水*2
アレットはソルの呟きを聞いてすぐ、アシル・グロワールの死体にナイフを突き刺した。
ぐさり、と突き刺さったナイフは、しかし、死体を刺した以上の手ごたえを得られない。……要は、死体がまだ生きている、ということは無さそうである。念のため、死体の下の土も刺してみたが、特に何もない。
「うーん……少なくとも、命があるわけじゃない、よね。これは」
「そう、だな……あーくそ、となると、答えは一つじゃねえか」
アレットが首を傾げる横で、ソルは何とも、嫌そうな顔をする。
「命は無くとも、この魔力には意思がある。そういうことだろ」
「……魔力だけでも意思って持てるものなの?」
「持ってるやつ、居ただろうが」
「ああー、成程、ヴィアと同じかんじかあ……」
アレットは思い出す。ヴィアはかつて人間であり……しかし、人間に裏切られ殺された時の怒りと慚愧の念、そして強い復讐の意思によって『魂』だけになって彷徨っていた、と。
そう。魂。つまりは、意思、と言い換えることもできるだろう。それが今、この魔力に、宿っている。
「……じゃあ、食べておこうか」
「だな。魔力からアシル・グロワールの意思を宿した魔物が生まれたら厄介だ」
ソルとアレットは頷き合って、手早くアシルの死体を切り刻み始めた。少々放置していた死体だけに味は良くないだろうが、そんなことを言っている場合でもない。
「今はとにかく、アシル・グロワールの意思がでけえ魔力を使って魔物にならねえようにするしかねえ」
もう、アシル・グロワールの意思はここではないどこかへ行っているのかもしれない。だが、少なくとも人間の国の中にはさほど魔力は多くない。今ここにある勇者の死体を除いては。
「……ソル、もう人間の国ではお風呂に入れないね」
「……成程なあ、うっかり俺が水浴びしたら、その水からアシル・グロワールの意思を持った魔物が生まれかねねえのか……」
ソルは元来、それなりに綺麗好きな性質であるため、少々げんなりとしつつため息を吐く。だが、綺麗好きもアシル・グロワールの意思の復活と天秤にかければ軽いものだ。
「もしかすると、人間の国のどこかで、既に生まれているかもしれない、けれど……」
「むしろ、その方が有難いかもな。あーくそ、まさかこうなるとは……ひとまずこの、意思のある魔力とやらを食っちまってから考えるしかねえな」
アレットはもう早速火を熾し、アシル・グロワールの死体を捌いて焼き始めた。荼毘に附してやるつもりはさらさら無いが、それ以前に食中りになっては目も当てられない。
「……人間を滅ぼす過程で、どこかでアシル・グロワールのなれの果てと行き会うことになるかもね」
「だな。はー、やれやれ、本当にしつこい野郎だ」
早速焼けた肉に食らいつきながら、ソルとアレットは揃ってため息を吐いた。……ひとまず、アシル・グロワールの肉は硬すぎるということはなかった。ガーディウムの肉を食った時よりは、大分マシである。
「アシル・グロワールは、どんな意思で魔物になるのかな」
「さあな……復讐心かもしれねえし、お前への執着かもしれねえが。どちらにせよ碌なもんじゃねえな。そして、俺達に理解できるもんだとも思えねえ」
「うん」
人間のことなど、理解できない。魔物は人間とは分かり合えないのだ。今更分かり合うつもりもない。
「何であれ、叩き潰す。人間の意思は、全て」
どのみち、成すべきことは変わらない。ソルとアレットは焚火を囲みつつ、どの町から襲うか、相談し始めるのであった。
そうしてアシル・グロワールの肉を食い終わった後。
「案の定、勇者1人分にしちゃあ魔力が少ないな」
「ね。案外、もう魔物になっていたりして」
アシル・グロワールの死体には、魔力がそれほど多く残っていなかったのである。となれば、死体に残った魔力の一部を使って、既にアシル・グロワールの意思が魔物になっている可能性が高い。
「あー……骨はどうする」
「持って行こうか。……余裕があれば、ソルの残り湯に浸けて魔物になるかどうか試したいところだけれど」
「俺の残り湯に浸けるよりはお前の残り湯に浸けた方が魔物になりそうだが」
「えっ、なんで?」
2人はああでもないこうでもないと話しながら、アシル・グロワールの骨を焚火の残りで焼き始める。骨に残った肉を焼き落として、そして、灰は水に溶いて飲む。こうして限界まで魔力を奪ったら、後は余裕のある時に試してみればいい。見ていないところで魔物になられるよりは、ずっと監視していられる状況に置いておいた方がいいだろう。
「さて……じゃ、とりあえず町一つ二つ、潰すか」
「うん。そうしようそうしよう。久しぶりに私も暴れたい気分」
アレットは袋にアシル・グロワールの骨を詰めると、ソルと共に翼を広げて飛び立った。翼を隠さずともよくなったことを、大いに喜びながら。
その夜。人間の国の王都には、魔物の声が響き渡る。
「人間共よ、聞け!」
夜の鴉は黒く暗く、闇夜に溶けるようである。人間達はそれぞれに銃や剣を構えながら、戸惑っていた。……王も勇者も居なくなった人間の国は、随分と弱弱しく見える。実際、今の兵士達を統率する者は碌に居ないのだろう。
「交渉は決裂だ。お前らの勇者は魔物との和平を望むなどと言いながら、我らの同胞を殺した!」
そして、ソルがそう言い放てば、人間達はまた戸惑う。『そもそも勇者は魔物との和平など望んでいたのか』というような声も聞こえてくるあたり、レオもアシルも、その辺りの話をまるで民衆にしていなかったということなのだろう。
「我らはこれを裏切りであると考え……貴様らを皆殺しにすることにした」
だが、最早何も関係ない。ここの人間達は、皆、今宵死ぬのだから。
ソルに向けて幾多の銃弾が放たれる。合図があってすぐの発射であるので、元々ソルの姿を認めた瞬間から、攻撃するつもりでいたのだろう。
だが、愚かである。人間の銃程度が、『魔王』に通用するはずがない。もし銃で魔王を殺せるのならば、神の力も勇者も何も、必要なかっただろう。
……ましてや、ここに居るのは『魔王』だけではない。
「な、なんだあれは!」
「火が……何も無いのに、燃えてる……?」
人間達が愕然として見つめる先には、巨大な火の玉が浮かんでいた。夜を焦がさんばかりに燃え上がる炎は、今まで平穏に暮らしていた人間達にとって、あまりに現実離れした光景である。
「えへへ。結構大きく作れるようになったなあ」
火の玉を浮かべている張本人であるアレットは、夜闇に紛れて人間達にはよく見えていないらしい。だが、それもどうでもいい。アレットは容赦なく、巨大な火の玉を人間達の王都の門……賢い人間達が今正に逃げようとしていたそこへと、放ったのである。
ソルは闇で形作った巨大な手で人間達を薙ぎ払い、握り潰し、叩き潰しながら、いつぞやの王都での戦いを思い出していた。
勇者レオ・スプランドールが遅れてやってきた、あの日。レリンキュア姫を救出し、しかし、多くの魔物の仲間達を見殺しにした、あの日のことだ。
あの日、勇者はこんな気持ちでいたのだろうか。こんなにも無感動に、ただ殺していたのだろうか。こんなにも簡単に死んでいく相手を前に、『勇者』の勇ましさなどまるで無用だっただろう。ならば、あの時勇者の心を満たしていたものは、一体何だったのだろう。
……今となってはそれも、どうでもいいことである。少なくとも、今、考えるべきことではない。ソルは考えを振り払って、また、人間達を殺すべく魔法を操っていくのだった。
ある程度まで王都が潰れたら、そこに火を放つ。焼け出されて出てきた人間が居たら、殺す。1人残らず、殺すのだ。1人だって、逃がしてはならない。殺し合いの連鎖を断ち切るには、人間を完璧に滅ぼさねばならないのだから。
「ま、魔物め!これでもくらえ!」
「おー、いいモン持ってるじゃねえか」
そうしてうち漏らしを探していたソルの下に、例の兵器が運ばれてくる。毒を生み出すらしいその兵器は、地下牢に置いてあった分が全て出され、今、対魔王兵器として現れたのだ。
……だが、それを頼みの綱として運んできた兵士達は、絶望することになる。毒を生み出すその鉄の容器が、闇の鉤爪によってあっさりと引き裂かれて中身を漏らし始めたのだから。
「馬鹿じゃねえのか、あいつら。二度も同じ手を食うかよ」
「私達は飛べるのにね。地上に居るしかない人間達だけが死ぬに決まってるじゃない、あんなの」
地上は瞬く間に毒によって満たされ、隠れ怯えていた人間達にまでその魔の手が及んだ。……むしろ、人間達にしか、被害を及ぼさない。
当然である。空気より重い毒は、空を飛ぶ魔物達には何の効果も無い。一度手の内を見ている以上、ソルとアレットが今更困惑するわけもない。人間達は自分達の開発した兵器によって、あっさりと、自滅していったのである。
「もうちょっと考えて使えばいいのに……」
「作った奴と使う奴が違ったのかもな」
アレットとソルは人間達の様子を眺めながら、取り立てて何も感じず、ただ、魔法によって殺戮を続ける。
闇でできた鉤爪に、火柱や炎の球に、そして自らが生み出した毒に。人間達はどんどんと倒れ、家屋は破壊され、そして遂に、城にまでそれが及ぶ。アレットが少しの間を過ごしていた人間の城は、あっさりと、瓦解していった。
悲鳴が上がり、城から逃げ出してくる人間達は、ソルとアレットがやはり殺していく。その中には幾らか、アレットの見知った顔があったが、そんなものは一切気にせず、特に区別もせず、皆等しく、殺していく。
「フローレン、裏切ったのか……!」
人間の内の1人、名前も忘れたようなどうでもいい相手が、アレットを見て絶望したようにそう言った。
「『フローレン』はもうとっくに、死んでるんだよ」
きっと相手に通じないであろう言葉を零して、アレットは人間をまた一人、焼き殺す。
「アレット。そっちはどうだ」
「うん。漏れはないと思うよ」
そうしてアレットは自分の名前を呼ぶ仲間と共に、崩れた城の跡から人間を探し出しては、殺していった。
……『フローレン』から『アレット』に、ようやく戻れたことを嬉しく誇らしく思いながら。
……こうして、夜通し人間の国の王都は攻撃を受けた。そうして夜が明ける頃、人間の国の王都は、あっさりと滅びた。たった2体の魔物の手によって、陥落したのである。
人一人すらも残さず殺した恐るべき所業が、歴史書に残ることはないかもしれないが。
……なにせ、記録する人間も、その記録自体も、全てが滅ぶ予定なのだから。
翌朝。王城の跡地を漁っていたアレットとソルは、遥か遠くの方で逃げていく人間達をちらほらと見つけた。
「おお、生き残りが居たのか」
「どうする?追いかけて殺す?どうせ行き先は大聖堂だと思うけれど」
ソルは瓦礫を漁る手を止めて、考える。
今、アレットと2人、瓦礫を漁っているのはかつて魔物の国から盗まれた宝物をいくらか見つけたからであった。奪われたものの全てを取り戻すことは諦めているが、それでも、取り戻せるものがあるなら少しでも多く取り戻したかったのである。
「そうだな……わざわざ追いかけるのは馬鹿らしいが、急いだ方がいいってのはあるな。噂が広まるより先に人間共を皆殺しにしたい」
ソルはそう言うと、豪奢な首飾りを布に包んでそっと荷物袋に入れる。レリンキュア姫の100歳の誕生日を祝って作られたものであったはずのその首飾りからはいくつか宝石が消えていたが、それでも、国に持ち帰るべきものだろうと思われたのだ。
「そうだね。じゃあ、もう次に行こうか」
アレットも、魔物の国で鍛造された業物のナイフを荷物袋にしまってから、ふわりと空へ飛び立つ。
……人間達が祈りと救いを求めて向かう先は、大聖堂。今まで祈り届かず救いも齎されなかった魔物達の手で潰してやるには、丁度いい施設である。
神がどちらの味方か、思い知らせてやる時はそう遠くなく来るだろう。