零れた水*1
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第七章:裁き
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「よし……覚悟はいいか、アレット」
「うん」
ソルとアレットは、パクスの肉を食いつくし、そして今、食いきれない骨と、地面に染み込んだ血との魔力を回収すべく、残留した魔力を怪物の形へと変えていた。
……一欠片たりとも、パクスの魔力を人間の国へ残していきたくなかった。全て、魔物の国へ連れて帰りたかったのだ。
そして何より、少しでも、共に居たかった。
……だが。
「……予想外なのが出たなあ、おい」
「ええー……こ、こうなるものなの?ねえ。この間の墓地での竜みたいな、ああいうのが来ると思ってたんだけど……」
ソルとアレットの足元には、焼き立てのパンが落ちている。
焼き立ての、パンが。
「……色合いはパクスっぽいよね」
「まあ……そうだな……」
怪物が出来上がる算段であったのに、パンが出てきた。この謎の現象に、魔法を使った張本人であるソルも頭を抱えるしかない。
「ええと……魔力が、私達に食べられやすい形になってくれた、っていうこと、かな……?」
「魔力自体には意思はねえんだが……まあ、たまたま、なんだろうけどな。いや、それにしてもここでこうなるとはなあ」
ソルもアレットも、すっかり気が抜けてパンを見つめる。パンはパンである。こんがりと香ばしく焼けた色合いは、どことなくパクスの毛並みを思わせる。ついでに、まるで『食べて、食べて』と言わんばかりに良い香りをふわふわ漂わせているところも、どことなくパクスの懐っこさを思わせる。
だが、パンだ。パンであった。
「あの、ソル。私ね、もう一回パクスを死なせなきゃいけないのかな、っていう気分でいたんだけれど……」
「俺もだ。なんだこりゃ」
ソルもアレットも、覚悟していただけに拍子抜けした。……パクスの魔力を全て集めて生き物の形にして、それを殺して食らうことで魔力の回収を行おうとしていたのだ。生まれてくるものはあくまでパクスの魔力を材料としただけでパクスではない、とはいえ……パクスをもう一度死なせなければならないような気がして、それの覚悟も決めていたのだが。
「パクスらしいよねえ」
「まあ、そう、だな……うーん、釈然としねえけど、まあ、あいつらしい、のは確かに、そう、だよなあ……食うか」
「うん……」
どうも、不思議なこともあるものである。パンならば殺さずとも食べられる。そして、美味い。2人はパンを分け合って、のんびりと食べ始める。
「ふふ、素朴な味」
「だが、こう、水か何か欲しくなるな……」
「ちょっぴり咽に詰まりそうなかんじだよね」
……結局、ソルとアレットは生まれたパンを、2人で分けて食べることになった。戦闘を予想していただけに随分と気が抜けたが……もしこれが偶々の結果だったとしても、それに感謝したいような気持ちである。
愛する後輩の残滓を、こんな風に穏やかに吸収できる。あり得ない程の幸運に、なんとなく、魔物の神が微笑んでいるような気すらした。
そうしてパンを食べ終えて、2人はようやく、パクスを自分達の内に収めることができた。
こうやってパクスを魔物の国へ連れて帰るのだ。そして、自分達が大地に還るその時に、また、尻尾をふわふわと触らせてもらう。
「……さて。じゃ、あとはゴミの処理だな」
「そうだね。こっちは焼き立てパンにはなってくれないだろうなあ」
「どうだろうな。案外なるかもしれねえが」
パクスの処理が終わった時点で、ソルもアレットも、気にすべきものがなくなった。ここに残るもの……2人の勇者の死体とその魔力を片付けて、さっさと人間の国を滅ぼしに行けばいい。
「じゃあ、行くぞ」
「またパンが出たら笑っちゃうなあ」
武器を構えて、ソルが魔法を使う。
最初は、レオだ。レオの死体から抽出した魔力を怪物にして、殺して、食う。……人間1人を食うより、そちらの方が胃袋に優しいのだ。
そうして勇者の魔力は形を得て、生命を与えられ……黄金の毛並みの獅子となる。そして、その獅子が動き出すより先に、ソルが動いた。
あっという間の早業だった。アレットですら、目で追うのがやっとだった。その速度でソルは獅子に襲い掛かり、その目を深々と突き刺し、その奥の脳まで全てを貫いていたのである。
……パクスの魔力は、確実にソルを強くしていた。勇者の魔力を元にした、恐らく今までで最も強い怪物を相手に、一瞬でケリをつけてしまえるほどに。
黄金の獅子はびくり、と痙攣すると、すぐ、死んだ。生まれてすぐに死んだ怪物を、ソルは何の感傷も無く見下ろして、早速、腹を開いていく。すると案の定、獅子の胸からは酒の壺が出てきた。これで勇者レオ・スプランドールの魔力も回収できる。
「飲むのは後にするか?」
「うーん、強化してからの方がいいかなあ。でも、泥酔状態で戦うのもね」
「……だが、どのみち結構な量を飲まなきゃならねえからな。しょうがねえ、ちょっと飲んで休憩してからもう片方、いくか」
ソルはそう言ってため息を吐きつつ、酒の壺の封を切って中身をカップに注いでいく。アレットは『パクスが居ればお酒の処理は簡単だったんだけどなあ』と思いつつ、ちびり、と酒を飲んでいく。……パクスはザルであった。彼が居れば、酒の処理は何ら問題なかったのだろうが。
「まあ、酒だな」
「うん。そんなに強くないのが救い、かなあ」
これならエクラとヴィアの魔力を墓から回収した時の酒の方が、強かった。アレットは幾分安心しながら、酒を飲む。同時に、『もしパクスの魔力がパンじゃなくてお酒になってたら、とんでもない強さの蒸留酒みたいになってたのかも』などと思ってくすくす笑う。
「勇者もこうなっちまえばただの酒か」
「そうだよ。所詮は1人の人間に過ぎない。だから御大層な理想を掲げたって死ぬし、そもそもそんな理想すら抱かずに死ぬことだってあるわけだし」
「ついでにお前に引っかかって狂わされたりもする、ってわけだ」
「そういうこと」
アレットはソルと顔を見合わせて笑いながら、この場に唯一残るのみとなったアシル・グロワールの死体を眺める。
……随分と魔物に傾倒した勇者だった。人間達にとっては歴代最悪の勇者であったかもしれない。最期の瞬間まで、アシル・グロワールは『フローレン』に心を奪われていた。そうして国を傾かせ、自分を死に追いやった。
結局、アシル・グロワールは『フローレン』の本当の名前すら知らずに死んだのだ。『フローレン』という名前が勇者によって殺された魔物の名前だと知らずに、愚かにも、その名に縋り続けた。
結局、彼は、アレットに裏切られたことを……全てが嘘だったことを、受け止めきれたのだろうか。或いは、それすらできなかったのか。今となっては確かめる術もなく、確かめる必要も無いが。
「馬鹿な人間」
アレットは今までの自分の働きを振り返って、微笑む。
ずっと頑張ってきた。人間ではないアレットにとって、人間の中に紛れ込むことはそれなりに苦痛であった。人間として、魔物を蔑むふりをしなければいけない場面も多く、そのたびにアレットは自分で自分の心を裏切ってきたのである。
……だが、それらも全て、報われた。
「こういうのを勝利の美酒っていうのかなあ」
「ま、そうだな」
失ってきたものは多い。だが、報われなかったわけではない。
アレットはしばらく、アシル・グロワールの死体を眺めて酒の肴としつつ、レオ・スプランドールの魔力のなれの果てを呷るのだった。
結局、アシル・グロワールの魔力を回収するのは、更に翌日になってから行われた。
……酒を飲んだら、疲れが出たのである。それもそのはず、今までソルもアレットもずっと、休み無しに働き続けてきたのだ。最も大きな戦いを終えてようやく緩んだ緊張は、2人に疲労を思い出させた。
ということで、2人はよく眠って、結局空になった酒の壺を砕いて……そして翌日、ようやく、アシル・グロワールの魔力を奪ってやる時が来たのである。
「よーし。じゃ、手っ取り早く片付けるか」
「うん。多分、そんなに苦戦しないよね」
ソルもアレットも、意気込む。何せ、パクスの魔力も勇者の魔力も吸収した後だ。今の2人の強さはかつての魔王にも勝るほどのものとなっている。勇者の魔力の残滓程度、どうとでもなるだろう。
ソルが魔法を使い始めると、アシル・グロワールの死体が動き、そこにあった魔力がずるずると抜き取られていき……。
そして。
「……ん?」
ぱたり、と。
そこで、魔法が途切れ、アシル・グロワールの死体は再び地に沈んだのであった。
「あれ?どうしたの?」
「いや……どうも上手くいかねえみたいだ」
ソルが首を傾げ、アレットが不思議そうに見つめ……だが、ソルの魔法が上手くいかない。
「まあ、上手くいかねえなら食っちまうのも手だが……」
どうにも、気になる。ソルは魔法が途切れた理由を考える。
……これは、意思なき魔力に命を吹き込み、その魔力を枷から解き放つ。殺すために生む。そういった魔法だ。宝玉に込められた魔力も、大地に沁み込んだ血液の魔力も、これでなら回収することができるのだ。
だが、その魔法が発動しなかった。……となれば。
「……もう、命が、あるのか?」
ソルは恐る恐る、そう呟いた。