平和は死せり*2
人間は死ぬ間際になると、今までの記憶が駆け巡る。そう、アシルは聞いたことがあった。
だが、今のアシルの脳裏を過ぎるのは、特定の記憶……フローレンにかかわるものばかりである。
初めて出会った時から既に、惹かれていた。働き者で、気が利き、強く、優しく、美しい。そんなフローレンに惹かれるなという方が難しい。
ましてやその時、アシルはリュミエラという婚約者を失って、失意と屈辱の中にあったのだ。リュミエラには然程惹かれたわけではなかったが、政略結婚の相手として、愛し愛される努力はすべきだろう、と誠意をもって接してきた相手ではあった。その彼女を奪われ失ったことは、それなりに痛手であったのだ。
そう。あの時アシルは、傷ついていた。だからこそ、素朴な優しさや健気な献身を以て接してくるフローレンに、何か、救われたような気がしたのだ。
フローレンが淹れる茶はなんとも温かな味わいだった。兄に毒を盛られて以来、茶や菓子をはじめとしてあらゆる食事を楽しむ趣味など持てなかったアシルが、フローレンの茶だけは美味いと感じた。何度でも飲みたいと思った。自分の好みに合わせて茶を淹れてくれるようになってからは、より一層、そう思うようになった。
更に、フローレンは強かった。第二騎士団長として活動するアシルの隣に立つにあたって、不足が無いほどに。……勇者となる前のアシルよりも余程、フローレンの方が強かっただろう。長年の傭兵生活で培ったらしい独特な戦闘技術は非常に頼もしく、そして、美しかった。
特に、アシルを救うために上空から落ちてきて、怯むことなくナイフを振るったあの時。あの時に、アシルはより一層フローレンに魅了されたのだろう。
……魔物に攫われたフローレンを再び取り戻した時には、より、その思いが強くなっていた。彼女はアシルを幾度も救った。彼女はアシルを気遣い、アシルのために働いた。彼女がくれる言葉の1つ1つは全てアシルの欲していた言葉であった。彼女無しでは生きていけない程に、アシルはフローレンを愛してしまっていた。
だからこそ、フローレンの表情が時折陰ることには気づいていた。愛する女の表情をずっと見つめているものだから、そのくらいは分かる。
……フローレンが平和を望む、と言ってきた時に、傭兵であった故に今までの苦労が相当なのだろう、と思わされた。だからこそ、平和を望むのだろう、と。
だが……その後、フローレンが魔物である、と知って、アシルは深く納得すると同時に、フローレンの内側に隠された思いの片鱗を知って、自分が思っていた以上にフローレンが苦しんできたことを知った。
人間でありながら人間に裏切られ、そして魔物になってからも迷い、苦しみ、人間に紛れようとして、そうして今のフローレンがある。普段から穏やかでよく働き、そして皆から好かれる可憐な生き物が、その内心に憎悪を飼っているのだと知った時の衝撃はすさまじいものだった。
そう。フローレンも、裏切られてきた側だったのだ。兄に、父に裏切られ、無能な母に振り回されてきたアシルと同じように。……フローレンと似た苦しみを知っている、ということが、嬉しかった。過去の苦しみがフローレンに近づくためにあったというのならば、その全てを許せる気がした。
……そして不思議なことに、フローレンが魔物だということへの嫌悪は無かった。今まで散々魔物相手に戦ってきたアシルであり、魔物を倒すために選ばれた勇者でもあるアシルは、それでも、フローレンが魔物であるということに嫌悪感などまるで抱かなかったのだ。
フローレンが魔物に攫われた時のことは、フローレンが魔物である以上に自分がフローレンに惚れこんでいたからこそ、勇者を動かす人質として使われてしまったのだろうと容易に推測できた。フローレンが魔物と疑われて身体検査をされそうになったあの時も、あそこで魔物であることを公表するつもりだったのだろうと思われた。
要は、アシルはフローレンを疑うことなく、ここまできたのである。
父を殺し兄を殺し母を殺され、味方であった騎士も死に、それでも隣にフローレンが居た。
それだけで、よかったのだ。レオもエクラも、アシルにとってはどうでもいいことだった。
フローレンが居たからこそ、魔物との和平などを望んだのだ。フローレンが関わっていなければ、この国のことだって、どうでもよかった。
ただ、フローレンが。フローレンだけが居てくれれば、それだけでよかったのだ。
……愛していた。
魔物でもいい、と思ったのだ。そう思ってしまうまでに、惚れていた。
……そして、自惚れていた。自分もまた、フローレンに愛されている、と。
いつ、裏切ったのか。そんなことは考えるまでもない。
最初からだ。
最初から、フローレンはこうするつもりでアシルに接近してきたのだろう。
まるでそんな素振りを見せなかっただけに、今もアシルはその現実を受け入れられない。
あの時の笑顔は。あの時淹れてくれた茶は。あの時交わした言葉は。そして今さっきの抱擁も。
それら全てが嘘だったとしたら、アシルはただ、嘘に縋って生きてきたというのか。
アシルの霞む視界に、赤い瞳が映る。じっと自分を見つめる、魔物の目。
……自分を憎むことはあっても、愛することはない者の目だ。
アシルは底の無い絶望に沈んでいきながら、それでもただ、フローレンへの渇望に呑まれる。
何故裏切ったのか。何故唆したのか。どうすれば、愛してくれるか。
だが、赤い瞳は何も教えてくれない。そこにはアシルが望む答えなど何もない。
やがて、赤い瞳がアシルから離れていく。フローレンはふと顔を背け、そして、アシルではなく……鴉の魔物へ、かつてアシルに向けていた笑顔を向けていた。
鴉の魔物は何事か言って、フローレンを抱きしめる。すると、フローレンは心底嬉しそうに鴉の魔物を抱きしめ返すのだ。宝石めいた赤い瞳から歓喜の涙が溢れるのを見て、ああ、今まで俺が見てきたものは偽りの涙だったのではないだろうか、とアシルは気づく。それほどまでに、今、鴉の魔物の翼の中のフローレンは、生き生きとして輝いていた。
……それを見たアシルが真っ先に感じたのは、嫉妬だった。相手が自分を裏切った魔物だと知りながら、それでも、アシルの胸の内に湧き上がったものは、嫉妬だったのである。
どうして自分が抱きしめた時にはあんな顔をしてくれなかったのか。どうすれば、その顔を俺にも見せてくれるのか。そんな思いがぐるぐると回り、回っては消えていく。
ふと気づけば、ちらり、と鴉の目がこちらを見ていた。……そして、その漆黒の目が、にやり、と笑みの形に細められる。
アシルはそれにどうしようもない怒りを覚え、しかし、どうすることもできない。最早、指一本、動かせなかった。フローレンへと手を伸ばすことも、名を呼ぶこともできない。
最期にもう一度、こちらを見てはくれないか。
……そう望んでも、フローレンの目がこちらへ向けられることは、もう、無かった。
……こうして、アシル・グロワールは死んだ。
深い絶望と怒り、そして、最早執着となった愛を抱えたまま。
「……ようやく、だな」
二度と動かなくなったアシル・グロワールを見下ろして、ソルはそう、呟いた。
長い戦いだった。そして、犠牲の多い戦いであった。
多くのものを失った。そしてそれらはもう二度と、手に入らない。
……考えれば只々、空しさが胸の内を満たす。だが、それでも、これは必要な空しさだと思うことができた。
空っぽになった胸の内は、これから色々なものを掘り起こして整理していくのに丁度いい下地となるだろう。一旦無へ帰した全ては、始まりのためにある。
「なあ、アレット」
「うん」
ソルの声は、どこか空虚だ。だが、まだその声には責任感が滲んでいる。
『魔王』を名乗った時点で、ソルはこうするしかない。魔物の国の未来を、この世界の命運を背負って、戦い続けるしかないのだ。
「まだ、終わりじゃねえな」
「うん、そうだね」
そう。戦い続けるしかない。自分達が、必要なくなるその時まで。
「勇者を殺したって、それだけだ。争いを二度と生まないためには……」
「人間を、根絶やしにするしかない。分かってるよ、ソル」
争いが生まれるのは、人間が居るからだ。異質なもの同士、必ず争い合う。魔物達を完璧に統治したとしても、人間達はなんどでも愚かに戦いを挑んでくるだろう。それは今までの歴史がよく物語っており……そして、今代の人間達が、立派に証明してくれた。
「俺とお前と、2人だけだが……」
「十分だよ、魔王様」
アレットが笑ってみせれば、ソルも、『そうだな』と笑う。
「よし、じゃ、明日からは1日に町1つ、ってところでどうだ」
「いいね。折角だし、最初は王都からいこうよ」
アレットもソルも、迷いはない。ここまで来たのだ。最後までこの道を突き進むしかない。
最早、人間達の運命は決した。魔物達の逆鱗に触れて、人間達はいよいよ、滅ぼされるのだ。
「……まあ、問題は、明日に出発できるか、っていうところじゃないかなあ」
……が、アレットはそう言うと、ため息交じりに座り込み、傍らのパクスを撫でる。まだかすかにぬくもる体のふさふさとした毛並みを撫でつつ……思う。
「今日一日で、食べ終わればいいけど」
「ああ……そうだなあ、あー、くそ」
ソルもアレットの隣に座り込むと、がしがし、と頭を掻いてなんとも嫌そうな顔をする。
「……こいつ、図体でけえからな」
「ね。まあ、私もソルも、空飛ぶものだから……地を駆るものより小さいのはしょうがないけれどさあ。うーん……」
パクスを、ここでこのままにしておくわけにはいかない。
自分達には棺は無いのだ。ならばせめて、自分達『が』棺となるべく、仲間の全てを自分達の中に収めて、その上で旅立ちたい。
「……勇者2人については魔力を抽出して怪物にしてから食った方が早いな。そうすりゃ、明後日には出られるか」
「2日で……頑張るしかないなあ。ああ、パクスが居てくれたらなあ」
「パクスは大食いだからな……」
ソルとアレットはいよいよため息を吐きつつ、幸せそうな顔で永遠の眠りについているパクスの顔を見下ろした。
……可愛い後輩がどこまでも愛おしく、そして、少々、憎らしかった。彼の図体の大きさもさることながら……何より、自分達より先に、死んだので。
「こいつを収める棺にはなりたくなかったなあ、俺は」
「私もだよ。逆がよかった、とも言えないけど」
「だよなあ。お前を食うことになったら、パクスがとんでもねえことになりそうだ」
まだ、思い出として語るには、ぎこちない。だが、いずれこのぎこちなさも薄れていくのだろう。
良くも悪くも忘れていく。そして……全て忘れられるほどに時が経った時、皆の願いが叶っているように……ソルとアレットは、進み続けるのだ。
「よし、食うぞ!」
「食うぞー!おー!」
……だが、ひとまず、弔いから。そして、進むのは、明後日からだ。
次章開始は12月4日(日)を予定しております。