平和は死せり*1
パクスにとってソルとアレットが特別な存在であったのと同じように、ソルとアレットにとってもパクスは特別な存在だった。
可愛い後輩だった。魔物の国の路地裏で荒れていたパクスをアレットが拾って連れて帰り、ソルに『この子うちに入れようよ』と提案し、ソルがにやりと笑ってそれを許可し、腹を空かせていたパクスに食事を与え、状況を理解していないパクスに状況を教え……そして、いつの間にやらすっかり懐いたパクスを可愛がり、大切にしてきた。
思い返せば随分と馬鹿な奴だったなあ、と、アレットもソルも同じように思う。
パクスは馬鹿だった。難しい作戦は理解できず、それ故にいつも、先陣を切って敵につっこんでいくような、後先を考えない戦い方ばかりしていた。だがその戦い方は浅慮と無謀ではなく、仲間への信頼を背景に培われたものだった。『俺は馬鹿だからよく分からないけれど、多分先輩や隊長がうまくやってくれるから、俺は俺のやり方で働くだけだ!』とばかり、無垢な信頼と元気でいっぱいに満たされて、パクスはどんどん突撃していったものである。
……そう。パクスは馬鹿だが、皆を愛し、皆に愛されていたのだ。馬鹿で直情的で懐っこく、そして誰よりも力強く敵に向かって駆けて行き、自分の得意も苦手もよく理解して、それ故にどんどん突撃していくパクスのことを、ソルもアレットも愛している。
そうしてパクスは、ソルとアレットの心を、随分と助けてくれた。可愛い後輩に頼られれば力が湧いてくるような気がしたし、パクスを心配させまいと明るく振舞うこともできた。そしてパクス自身も、元気のない隊員が居れば『俺の尻尾触りますか!?』と彼らを元気づけてくれた。また、ただパクスがそこに居るだけで、皆がなんとなく明るくなったのだ。
……そんなパクスが、もう、居ない。皆に笑いかけ、皆を笑わせてくれたパクスも、もう、手の届かないところへ行ってしまった。
だが。
ソルもアレットも、立ち上がる。
これで終わりではない。まだ、先がある。嘆くのも悲しむのも、全てが終わってからでいい。まだ、ソルやアレットを突き動かし立ち上がらせる力が、残っている。
何故なら、彼らは魔物なので。
アレットとソルが立ち上がった頃、丁度、レオも死んだらしい。アシルは最後まで警戒していたと見えて、剣を握ったまま、レオをじっと見下ろしていた。
アシルは、ちら、とこちらを見て、そして、アレットが立ち上がっているのを見て少々ぎこちなく微笑んだ。
未だ気持ちの整理も現実の咀嚼もできていないアレットは、曖昧に微笑み返すこともできず、ただ、立ったままじっと、アシルを見つめ返す。
「……何故、レオを殺したのですか」
そしてそう問えば、アシルの表情に焦りと戸惑いが生まれた。
「……俺が殺さずとも、こいつは死んだだろう」
アシルは慎重に、そう返してくる。アレットの意図を探ろうと、目がアレットに向けられる。……その隙に、ソルにはパクスの遺体を運んでもらった。そっとソルが去っていくのを見ても、アシルは何も言わない。明らかに高位の魔物であるソルがそっと退場してくれるならそれに越したことは無い、ということなのだろう。
「はい。きっと、レオはあのままでも、死んでいたでしょう。……でも、アシル様はその剣でレオを刺し殺した。放っておけば死んだだろう彼を、わざわざ。……その理由を、聞いてもいいですか?」
更に、アレットはそんなことを聞く。善悪を追及しようとしている訳でもなく、そこに怒りや憎しみがあるわけでもなく……ただ純粋な疑問として発される問い。それがよりアレットの真意を隠してしまって、アシルには、却って答えにくいのかもしれない。
「……俺は、人間に害を成すものを許さない。それだけだ」
曖昧にそう言って、アシルはレオの死体を見下ろしている。
死んでしまうと、レオは印象より幼く見えた。少なくとも、あの日、王都の前で多くの仲間を殺していた勇者としての印象は無い。
「害、ですか」
アレットはぽつりと呟いて、それから、『誰にとっての、かな』と思う。
アレットには人間の気持ちは分からない。だが、レオを刺したアシルの内にあるものが善意や正義感ではなかっただろう、という程度のことは分かる。
即ち、アシル・グロワールは、レオ・スプランドールを私欲のために刺したのだ、と。
殺すためですらなく、ただ、憤りをぶつけるために。はっきりとした憎悪を抱えて。そして、万が一にも生き残らないように、と。
「……フローレン」
アレットからの視線に何か思うところがあったのか、アシルは気まずげに、アレットを見つめる。
「はい、アシル様」
「その、俺を、軽蔑したか」
今更でしょう、と言ってやることは簡単だ。だが、アレットの戦いは、むしろ、これから始まるのである。
「……少し、戸惑っております。でも……必要なことだった、とも、思います。それに、何時かはこうなるような気がしていました」
「……そうか」
少々寂し気に笑って答えてやれば、アシルはどこか安堵したように息を吐く。『まだフローレンに見限られていない』という希望は、私欲のために人間を殺したアシルを立ち上がらせるのに十分すぎる程、大きいのだろう。
アレットは、アシルの視線をパクスやソルではなく自分へと惹きつけるため、レオの死体に近づく。そうすれば案の定、アシルは少々戸惑った様子を見せつつアレットに注視して見守った。
「レオは……何と、言っていましたか?」
アレットは死んだレオの頬をそっと撫でつつ、アシルに問う。まるでレオに情があるかのような振る舞いに、アシルは少々、緊張し始めた。
「……神に見放されたか、と。そういうようなことを、言っていた」
「そう、ですか……」
アシルの言葉が真実であるかなど、どうでもいい。レオの最後の言葉がどうであろうと、そんなものに興味はない。
ただ、アレットはレオの右目があった位置を見つめて、俯く。……大切な後輩が勇者と真正面から戦って付けた傷だ。パクスを讃えるためにレオの傷をじっと見つめて、アレットは尚も、レオの死体の傍に座り込み続ける。
「フローレン。その、俺は……」
そんなアレットを見て焦燥と不安を抱いたらしいアシルは、拙く『フローレン』を呼び、中途半端に手を伸ばす。伸ばした手が受け入れられることを期待して。それと同時に、伸ばした手を振り払われる恐怖に怯えながら。
「上手く、いきませんね」
アレットはそんな手を掴むことも振り払うこともせず、ただ、笑って見せる。傷ついたような、疲れた笑みに見えているだろうか。きっと見えていることだろう。実際、アレットはパクスを喪って、傷つき、疲れている。
「平和な世界を、と皆で思っても、争いが、無くならないなんて」
そして、そう言って涙を零して見せるのだ。……だが、アレットの本心は言葉の中にある。争いを無くす気などさらさら無い、傲慢で身勝手な人間達を嘲笑う言葉に。
「もう誰にも死んでほしくなかったのに」
本心からそう言えば、アシルはアレットの言葉をレオへ向けたものと勘違いしたらしい。自分がレオを刺したことへの罪悪感が急激に湧き起こってきたと見えて、アシルはどんどん青ざめていく。
「……でも、アシル様がまだ、いらっしゃるから。まだ、何もかもが終わったわけじゃ、ないから」
混乱に揺れ動くアシルに、アレットはそっと手を伸ばし、きゅ、と遠慮がちに抱きしめた。『もう残されたものはこれしかない』とでもいうかのように。
弱弱しいアレットからの抱擁に、アシルは戸惑いつつもそれを受け入れた。アレットの背に手が回され、アレットのように遠慮がちにではなく、それなりに力強く、アレットの体が抱き寄せられる。
そのまま、アレットはしばらく、アシルの胸に顔をうずめるようにしてすすり泣くのだった。
それから少しの間を置いて。
「フローレン。確認したいのだが……先程の、魔物は」
アシルがそう、遠慮がちに問いかけ……しかし、アシルの胸から顔を上げたアレットの目が見上げてきたことで、アシルはその先の言葉を失った。涙に潤んだ赤い瞳は、間違いなくアシルの注意をも奪っていく。
……そして。
ふっ、と頭上が陰る。
太陽の光を遮っているのは……闇夜の黒さに染まった翼。そしてその翼はどんどんと迫り、アシルがはっとして剣に手を掛けた時には、ソルのナイフがアシルの眼前に迫っていた。
そしてアレットはアシルの背の後ろで手を動かし、その手に隠し持っていたナイフをアシルの背に突き立てたのである。
「勇者もこうすると死ぬんだなあ」
アレットは、アシルから体を離して数歩下がる。すると、アレットに凭れるようにして体を支えていたアシルは、崩れるようにその場に膝をつき、うつ伏せに倒れる。
アシルの背にはアレットのナイフが深々と突き刺さり、心臓に達していた。同時にソルのナイフが肩口を切り裂いて、そこからもどくどくと血が流れ出している。
……そう。恐ろしいことに、アシルはあの状況にあっても、ソルの攻撃から逃れようとした。ソルが首を狙ったにもかかわらず、切り裂かれたのは肩である。
アレットが抱擁していなければ完全に避けられていたであろうと想像できる。そして、アレットがアシルを刺していなかったなら、間違いなく反撃に転じられて、今、ソルも致命傷を負っていただろう、と。
……だが、それらは起こらなかったことだ。今確かにある現実は、倒れたアシルと広がっていく血溜り。そして、低空からアシルを見下ろすソルと、返り血に顔も肩も胸も染めつつ血溜りを踏むアレット。それだけなのだ。
「なんだか不思議なかんじがする」
アレットはそう呟いて、そっと息を吐く。
「こんなにあっさり終わるなんて」
そしてアレットは、只々無感動にアシルを見下ろすのだ。
「フロー、レン……どうして」
一方、アシルも只々、アレットを見つめていた。見慣れた柘榴のような瞳がじっと自分を見つめているのを見て、その瞳がぞっとするほど無感動であることに慄く。
……まるで、人間らしくなかった。今までアシルに接してきたフローレンの、人間らしく愛嬌のある仕草や表情はすっかり消え失せて、ただ、そこには美しくも残酷な魔物の顔だけがある。
アシル・グロワールは、絶望した。