破滅への行進*1
王都の広場を中心に、宴が始まった。
誰かが酒の瓶を持ってきて、誰かが食べ物を持ってきて、そして誰かが楽器を奏でて歌を歌えば、その場で踊り出す者が出てくる。こうして王都は眠らない夜を迎えたのである。
宴の中心は、言わずもがなアシルであった。尤も、アシル自身は民衆の中へ降りていくことはせず、バルコニーで騎士団の者達と共に広場を見下ろし、時折民衆に手を振る程度のものであったが、民衆としてはそれで十分であったらしい。元より、騒ぐ口実が得られればそれでよい、という者も多いのだろう。
アレット自身も、葡萄酒のカップを渡され、軽食を渡され、菓子を渡され……と、飲み食いに巻き込まれていたが、それらを適当に胃へ納めた後、きょろ、と周囲を見渡す。
アシルは騎士達に囲まれて酒を飲んでおり、当面、『フローレン』を必要とはしないだろう。
……それを確認して、アレットはそっと、宴を抜け出す。
何故ならば、レオの姿が見えなかったから。
エクラを置いてきた辺りに向かってみれば、案の定、エクラは死んでいた。ソルが何かやったんだろうな、とアレットは冷静に考えつつ……エクラの遺体の傍に蹲るレオへと近づいていく。
レオはアレットに気づいているのかいないのか、振り向くことはおろか、顔を上げることさえしない。
「……レオ」
そっと声を掛けると、のろのろと、レオが動く。彼の傍らのエクラの死に顔は、至極安らかなものだった。ソルは一体、どんな手を使ったのだろうか。
「エクラは……どうして、死んでるんだ」
レオの目は、アレットを見ているようで見ていない。アレットの方へなんとなく顔が動いた程度で、精々、アレットの足元を見ているだけなのだ。顔を上げる気力は、無いらしい。
「……解毒剤は、使ったの。でも、それよりも、エクラさん自身の勇者の力の方が強かった。エクラさん、自分で自分を治してたよ」
「じゃあ、なんでエクラは……」
アレットが答えると、レオの目がようやく、のろのろと動いてアレットの目を見る。その青空色の目に深く深く絶望が根を張っているのを見て、アレットもまた、悲痛な表情で続けた。
「多分……毒が、あまりにも、強かった。或いは、エクラさんの力だけじゃ、毒を、どうにもできなかった。そう、だと、思う」
レオの表情にようやく、絶望以外のものが混ざるようになる。
「……どういうことだよ。エクラは、毒を、治しきれなかったって、ことかよ。じゃあなんで……なんで、お前は、エクラを置いて……!」
芽生え始めたそれは、怒りである。現実を受け止め、或いは受け止めきれずに、怒る。レオはふらふらと立ち上がると、アレットの胸倉を掴んだ。
「おい、どういうことだよ、フローレン!」
アレットは、レオの怒りを眼前に見つめながら、怖気ずに続ける。
「彼女、言ったんだ。『私のことはいいから、早く行って』って。『兄さんを助けて』って。……それが、エクラさんの望みだったから。だから、私はあなたの元へ向かった」
レオの脳裏に何が巡ったのか、アレットには確かめる術が無い。だが、レオは恐らく、玉座の間で第一王子が放った銃弾から守られたことを思い出しているのだろうと思われた。アレットが居なければ、多少は怪我を負っていただろう、と。
「俺の、ために、エクラは……」
そして、アレットに守られた事実がある以上、レオは怒りの矛先を自分自身へと向けることになる。……自分が不甲斐ないばかりに、妹が死んだ。そう、考えているのかもしれない。
「エクラさん、誰にも死んでほしくないって、言ってたよ。だから、少しでも多くの人を生かすために、私を……ああ、どんな気持ちで、どんな気持ちで、私を見送ったんだろ」
アレットは目を潤ませて、声を滲ませて、レオではなくエクラに向けるように話す。エクラの傍らに座り込めば、レオもその隣に座り込む。
「勇者だよ。エクラさんは、本当に、勇者だ」
アレットは涙を零してエクラの頬を撫でる。冷たくなった頬からは、もう、命の気配は欠片たりとも感じられない。
しばらくそのままエクラを撫でていると、レオも傍らで俯き、涙を零し始めた。
勇者になってから、彼が失ってきたものは、あまりに多い。
そして、奪ってきたものも。
「……レオ。あなたは、死なないで。生きて。生きてね。どうか、あなたは……」
だが、無情にもアレットはそう、言った。
それがレオを苦しめると知りながら。知っているからこそ。レオが、エクラを棺に入れて弔うことができるからこそ。
宴の翌日、王都は再び悲しみに沈んだ。
戦勝を祝う宴の後には、後片付けが待っている。……特に、戦死した者達の遺体を片付ける時には、皆、気持ちが沈み込む。
だが、死者を必要な犠牲と割り切ることもできる。何せ、戦いに勝ち、これからこの国がよりよくなっていくと信じられるから。
死者に報いるために、と、生き残った者達は皆、精一杯働いた。その甲斐あって、合同葬儀が執り行えることとなったのである。
合同葬儀は厳かに、かつ盛大に行われた。
だが、葬儀には聖職者の数が少ない。それもそのはず、大聖堂の関係者は皆、合同葬儀への参加はおろか、王都への入場すら許されなかったからである。大聖堂はアシルを裏切り謀殺しようとしてきた経緯がある。今後とも冷遇は続くだろう、と多くの者が見込んだ。
そうして合同葬儀は城内で中立の立場を保ってきていた司祭が主催する形で行われ、多くの民が参列した。
……王都の聖堂の中に運び込まれた棺は皆、立派なものだ。死者に割くだけの資材も労力もある、ということなのだろう。アレットはアシルの傍に立って棺の列を冷めた目で見ていた。
弔うことができなかった仲間達のことが思い出される。
ヴィアも。ガーディウムも。レリンキュア姫も。そして、フローレンと、多くの王都の仲間達。
皆、人間に殺され、そして弔うことすらできなかった。棺など用意できなかった。
未だに気持ちの整理すら、つけられていない。あらゆるものを喪って、喪ったことを思い出さないよう、前へ前へ突き進んでいるだけ。ふと立ち止まった時、暗闇から押し寄せる悔恨の、その痛みをアレットはまだ、直視できずにいる。
……全て、終わるまでは。
そう思い、アレットは再び、棺の列に目を戻した。魔物達からあらゆるものを奪っていった人間達の、棺の列を。
エクラはひときわ美しい棺に納められ、そして、墓の下に眠った。
墓石にはエクラが好きだった花の彫刻が施され、そして、『優しく清廉な勇者エクラ・スプランドールここに眠る』と碑文が刻まれている。
……その前で、レオはじっと膝を抱えて座り込んでいた。
こうしている場合ではない、と分かってはいる。人々は皆、戦いの痕を元に戻そうと働いているのだ。
銃弾によって罅割れた壁に漆喰を塗り直し、砕けた石畳を張り直し。……やるべきことは幾らでもある。アシルは乱れに乱れた治世を元に戻すべく働いているところであったし、フローレンも炊き出しや傷病者の世話に追われている。
だから、レオも働かなければならない。未来はまだ続く。むしろ、これからなのだ。これから、レオは今まで自分が成してきたことの清算のため、この国と魔物の国をより良いものにしていかなければならない。
……だが、どうにも、動かない。体もそうだが、それ以上に、心が。
「レオ」
そんなレオを呼ぶ声が聞こえる。振り返れば、忙しく働いているはずのフローレンが居た。
フローレンは少し笑みを浮かべると、レオの隣に腰を下ろした。
「やっぱりここに居た。きっとここだろうと思って……ほら」
そして、レオに差し出した包みは、食事であった。パンに野菜やハムを挟んだだけの簡単なものであったが、それを見れば空腹を思い出す。
「……いらねえ」
だが、レオはそれを断った。エクラが死んだ今、どうにも、生きていく気力が無かった。ものを食べずに死ぬというのなら、それでもいいような気さえしていたのだ。
「駄目。食べて。あなたは生きなきゃいけないんだから」
だが、フローレンは少しばかりの怒気を含んだ声でそう言って、ぐいぐい、と包みを押し付けてくる。仕方なくレオがそれを受け取ると、フローレンはもう一つの包みを開いて、レオの隣でそれを食べ始めた。
……こうなっては仕方がない。レオも包みをかさりと開いて、中のパンに齧りつく。
美味かった。それと同時、美味いと思ってしまう自分に嫌気が差す。エクラが死んだというのに、自分は何をやっているのか、と。
「エクラさんは、きっと、あなたを恨んでなんかいないし、この先の未来を憂えてもいなかったと、思うよ」
……だが、フローレンはそう、言う。
レオが直視を避けてきたものを、容赦なくぶつけに来る。
「ましてや、あなたに死んでほしいなんて、絶対に思ってない。生きて……それで、幸せになってほしいって、思ってた」
「そんなこと……」
「思ってたよ。絶対に」
否定しようと口から零れ出た言葉さえ否定して、フローレンは強く強く、レオを見つめる。
……その目は、否定できなかった。フローレン自身がレオに『生きて』と願っていることが強く伝わってくるのだ。
その視線に圧倒されて、レオは口を噤む。
「ああしていればよかった、っていう思いは尽きないけれど……でも、弔えた。私は……フローレンは、弔ってもらえなかった。誰かの幸せを願って死んだわけでも、なかったし……」
フローレンはレオからそっと視線を外して、エクラの墓石に話しかけるようにぼそぼそと喋る。それを聞いて、ああ、そういえばこいつは一度死んだんだもんな、とレオは思い出す。
「死者の気持ちは分かるつもり。これでも一回、死んでるんだから」
「そうだったな」
フローレンは恐らく、この世で誰よりも、死を身近に体験してきた者だ。その彼女が死について語るからか、レオの心に、するり、とフローレンの言葉が沁み通っていく。
「……私自身ですら、私の死のことは割り切るまでに時間がかかった。自分以外の大切な人が死んだ時の割り切り方は、分からない、けれど……長い時間がかかって当然のものだっていう風には、思うよ」
フローレンはレオの心境の変化に気づいたのか、遠慮がちに笑って、そっと言葉を続けた。
「だから、ゆっくり、ね。……でも、ゆっくりでもいいから、生きて、前に進めると、いいよね」
「……そうだな」
それからは黙って、ただ、パンをかじり続けた。
エクラの墓前で一体何を、などとはもう思わない。
……きっと、必要なことなのだ。まだ悲しみも後悔も怒りもレオの胸を満たしているが、それでもいつか、いつかは立ち直れる日が来るのだろうと、ぼんやり思えた。
ゆっくりでいい。だが、前に。
……レオは少しばかり、勇者としての心を、思い出していた。
そうしてレオがフローレンに連れられて町の方へと戻ると……そこでは少々、騒ぎが起きていた。
「ああ、フローレン!手を貸してくれ!血を吐いてる奴が何人も居る!」
……なんと、そこには血を吐いて倒れ伏す者達の姿があったのだ。それこそ……毒にやられた、あの時のエクラのように。
凍り付くレオの横で、フローレンはすぐさま動き、的確に指示を出しながら倒れた者達を介抱し始めた。
……それを眺めるレオに、声が聞こえてくる。
「井戸に毒が投げ込まれていたらしいんです」
「なんだと?一体、誰がそんなこと……」
……そう聞いた時、レオは大いに、怒った。
「……まだ残党が居やがるのか」
エクラを殺した第一王子の一派の生き残り。それがまだ居る、ということは大いに……喜ばしいことであった。レオ自身も自覚していなかったことであったが、確実に。
「……残党を探す」
レオは誰にともなくそう呟いて、空を仰ぐ。
そこにエクラは居ない。だが、青空を見上げれば、勇者としての繋がりを感じられるような、そんな気がするのだ。
「それが、俺の使命だ」
こうしてレオは、自棄的で怠惰な生活から抜け出すきっかけを得た。混乱と荒廃の中でこそ勇者は輝く。正義の剣を振りかざす先を見つけたレオは、ようやく、前向きに……そしてやはり少々盲目的かつ依存的に、動き出したのである。