秘密*1
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第六章:憧憬
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然程、時間が経ったわけでもない。季節1つ分も離れていなかった。
だというのに、魔物の国の大地を再び踏んだアレットは、深く深く、懐かしさと愛おしさに包まれていた。
……ただいま。
そう心の中で呟いて、アレットは魔物の国の空を見上げる。
見上げる空はよく晴れて、日差しは麗らか。……冬の終わりが近い、そんな日のことであった。
魔物の国の南部は、人間達に侵略されて久しい。人間の国とやりとりするための港が整備され、港町には人間が多く住んでいる。更に、港から少し離れた位置にも大きな町ができているのだ。
それらは魔物の身からしてみれば只々疎ましいばかりだが、人間達にとっては良い環境なのだろう。特に、港から少し離れたこの場所にある宿は、人間の国からやってきた貴族にもよく使われるほどのものであり、そこを自由に使えるともなればアシル・グロワールもまた、それなりに上機嫌であった。
「フローレン。船旅で疲れただろう。今日はゆっくり休め」
「ありがとうございます」
人間達の手で人間達のために整えられた住空間は、魔物であるアレットにとっては然程意味が無い。『そろそろ天井からぶらさがりたいなあ』と少々寂しく思いつつ、アレットは割り当てられた宿の客室を見まわした。
アシル・グロワールは満足気であったが、やはり、アレットからしてみるとぶら下がるための梁がもう少し欲しい。梁が無くともぶら下がろうと思えばぶら下がれるが、より良いぶら下がり環境の為には、やはり諸々が不足している。
……そして何より、やはり、仲間が足りない。
例えば、硬い岩場での野営であっても、隣に可愛い後輩のふわふわ尻尾があれば極上の寝床となるだろう。共に語らえる、心を分かち合った仲間の居る環境というものはやはり、素晴らしいものだ。
「……まあ、無いものねだりしても、ね」
アレットは呟くと、ため息を吐いて大きく伸びをした。
仲間は居ない。今、ヴィアに伝令を頼んだ通りにソル達が動いているとしたら、彼らは人間の国の魔力という魔力を全て回収して回っているところだろう。
そうしておけば、勇者が生まれることは無くなる。魔力を持つ生き物は、魔物の国でだけ生まれればいい。それならば、元より、諍いなど起きなかった。
……否、諍いはやはり、起きていたのかもしれない。
欲深い人間達は魔力などなくとも、銃を使って魔物を殺し、魔物の国を奪うことを考えた。勇者という圧倒的な武力に支えられた進軍ではあったが、欲深い人間達はきっと、勇者が無くともいつかは恐ろしい武器を開発し、それを手に魔物の国を滅ぼしにかかっていたことだろう。
だから、本当に争いを無くしたいのなら、人間を皆殺しにするしかないのだ。
アレットが荷解きをしたり、今日の湯浴みのために暖炉で湯を沸かしたりと働き始めたところで、少々控えめにドアがノックされる。
「はあい」
アレットが返事をしてぱたぱたと小走りに部屋の戸を開けに行けば、そこに立っていたのはエクラであった。
「あれ、エクラさん、どうしたの?」
「……なんだか落ち着かなくて。少し、話しに来たのだけれど、いい?」
「勿論!さあどうぞ。待っててね、すぐお茶を淹れるから」
どうやらエクラはなんとなく落ち着かないようである。……無理もないかもしれない。エクラはつい先日までごく普通の人間の少女であった。それが急に勇者になったとはいえ、やはり、魔物の国に足を踏み入れるのは恐ろしかったのだろう。
アレットは湯浴みのために沸かしていた湯を野草茶のために転用することにして、早速、茶を淹れ始める。干した野草を薬缶の中にぽんぽんと放り込んでいけば、香ばしく爽やかな香りがふわりと室内に広がった。
エクラがわくわくと嬉しそうな顔をしながらアレットの隣にやってきて、共に暖炉の薬缶を眺めることになる。……エクラは環境が変わってからほぼずっと、気を休める時にはアレットの野草茶を飲んでいたからか、野草茶の香りを嗅ぐと落ち着くようになってしまったらしい。
「そろそろ茶葉にする野草が尽きてきたなあ。どこかで採取に出たほうが良さそう」
「その時は呼んで。一緒に行きたい」
「うん、分かった。一緒に行こうか」
早速、エクラと外出の約束などを取り付けてしまいつつ、アレットは薬缶を揺らして茶を抽出していく。薬缶の中の湯はすっかり、野草茶の茶色に染まってきていた。
頃合いを見計らってそれをカップに注げば、エクラはほっとした顔でそれを受け取り、野草茶を味わい始める。アレットも自分の分を飲みつつ、ふと、エクラに聞いてみることにした。
「やっぱり、緊張してる?」
尋ねると、エクラはやや強張った顔で頷いた。
「魔物の国だもんね」
アレットが苦笑しつつそう言えば、エクラはまた頷き……そして、ふと、表情を曇らせる。
「プレジル騎士団長も、来られたらよかったんだけれど」
「ああ……フェル・プレジル殿はなんだかんだ、緊張を和らげてくれてたよね」
どうやら、エクラとしては見知った顔が1人分減ったことも、緊張の原因であるらしい。
そう。フェル・プレジルは城に残った。流石に国の騎士団長が2人も席を外すわけにはいかない、という至極真っ当な判断によるところである。
「あの人が居ると、場の雰囲気が和らぐから……」
エクラはそう言って、細くため息を吐く。彼女からしてみれば、いきなり勇者になってからこの方、慣れない環境続きである。その中でフェル・プレジルはエクラの緊張を和らげる要因となっていたらしい。いつの間にか。
「そっか……その分は私やレオに頼ればいいよ。ね」
「そうね、ありがとう」
アレットはエクラに笑いかけてやりつつ、持ってきていた茶菓子の缶を開ける。素朴な焼き菓子だが、こういった時には丁度いいだろう。
「なんだか、変な気分」
エクラは茶を飲み、茶菓子をつまんでため息を吐く。
「私が勇者で、しかも、魔物の国に居るだなんて」
「そう?まあ、そっか。急だったもんね」
エクラからしてみれば、この1月あまりであまりにも大きく環境が変わっている。自分自身が『勇者』となってしまったこともそうであろうし、それに伴って本来なら会うことも無かったであろう者達と会い、その上、一生訪れることなどなかったであろう魔物の国に踏み入るまでに至っている。
「……ねえ、エクラさん」
アレットは茶のカップをテーブルに置くと、『ふと気になった』というように表情を陰らせつつ、エクラに問う。
「やっぱり、魔物の国は、怖い?」
アレットの問いに、エクラは何かを思ったらしい。『フローレンの様子が少しおかしい』くらいは当然思ったことであろうし、それに伴って何か推測していてもおかしくはない。
……そうして、エクラは答えるのだ。
「そう、ね……怖い。うん。怖い。けれど……」
エクラはそう言ってから言葉を途切れさせて、少し、考える様子を見せた。演技でもなんでもなく、本当に今考えているのだろう。エクラは言葉を扱うのがあまり得意ではないようなので。
「でも、嫌では、ない、と思う」
「……嫌ではない、っていうのは」
「魔物が」
アレットが重ねて尋ねれば、エクラはそう言って、自分の言葉を確かめるように続けた。
「……ヴィアは、嫌な魔物じゃなかったから」
「ああ……そっか」
どうやら、レオだけではなくエクラにとっても、ヴィアの存在は大きかったようである。何せ、エクラにとっては生まれて初めて見る魔物であったのだ。そしてヴィア以外に魔物を知らないともなれば、魔物全体に対する見方も変わってしまうのかもしれない。
「そうだね。ヴィアは、そういう魔物だった」
アレットがそう言えば、エクラは、ちら、とアレットを見て少し探るような目をした。
……アレットとヴィアの関係は、まだ、エクラに伝えていない。エクラからしてみれば、死んだスライムが死の間際、『私の死体である水を瓶に詰めてフローレンというお嬢さんに渡してほしいのです』と頼まれたことからして、『フローレン』の正体が気になっていることだろう。
「……ねえ、フローレン」
そうして、エクラが意を決したように、口を開いた時。
「フローレン、いいか?」
……ノックの音と共に、レオの声が聞こえてきたのだった。
「エクラも来てたのか」
「ええ」
部屋に入ってすぐ、レオはエクラに気づいて少々気まずそうな顔をした。フローレンの部屋を一人訪ねてきたことを妹にはあまり知られたくなかったのかもしれない。
「えーと、レオ、どうしたの?」
ついで、とばかり、アレットがレオに野草茶のカップを出せば、レオは礼を言ってそれを受け取って飲みつつ、少々渋い顔をした。
「いや、第二王子殿下がお呼びだ、ってだけだけどな」
「ああー……」
いよいよか、とアレットは頷く。どのみち、魔物の国の奥へと踏み入るより先に、アシル・グロワールに伝えておかなければならないだろう、と思っていた。
「お前が話してから、俺も話すつもりだからな」
「成程ね。そういうことなら、やっぱり私が先に話した方がよさそう」
レオとアレットのやりとりを横で聞いているエクラは、『なんのことだろう』とばかり首を傾げているが、これもどのみち、明日の朝には分かることだろう。
……何せ、アレットは『自分は魔物である』と伝える予定であり、レオは『魔物の国を侵攻するのは止めないか?』と持ち掛ける予定なのだから。
「そういえば、アシル殿下がそわそわしてた。フローレン、何か理由を知ってる?」
「あー……これは、いよいよ、これ以上はお待たせできないなあ」
エクラの不思議そうな問いかけに、アレットは苦笑しつつ、曖昧に濁す。
……成程。どうやらアシル・グロワールは、『フローレン』の秘密について、気になるあまり挙動不審になっているらしい。
「……まあ、大丈夫だろ。あの王子が今更お前を手放すとは思えねえし」
「だと、いいんだけれど……」
アレットはため息を吐きつつ、前を向く。
……アレットの正体を明かされた時、アシル・グロワールがどうなるかは分からない。そう。ここまで絆しはしたものの、やはり、最終的にどうなるかはやってみなければ分からないのだ。
「まあ、できる限りのことは、するよ」
だからこそ、アレットは手を抜けない。可能な限り、あらゆる手段を用いて、アシル・グロワールを騙さねばならない。
アレットは自分の客室を出ると、アシル・グロワールの部屋へと向かう前、ふと、窓の外を見る。
……宵闇に沈もうとしている地平の彼方に、影が見える。
人間達の襲来を察知して集まってきた、勇敢な魔物達だろう。