魔王*5
ベラトールが飲み込まれた。それを見たソルは、頭に血が上るような感覚を覚える。
「……ぶっ殺してやる!」
だがそんなソルより先に、パクスが動く。強化されて強化されて、およそ、この世の魔物の中で最も速く地を駆る者であろう今のパクスの、その持ちうる限りの全ての力を使って、怪物へと向かっていった。
後先をまるで考えない捨て身の攻撃の姿勢を見て、ソルは咄嗟に、まずい、と感じる。ベラトールに続いてパクスまで失う訳には、と。
……だが。
蟇蛙めいた悲鳴が上がる。シャルール・クロワイアントのなれの果てが、盛大に醜い悲鳴を上げて苦しんでいた。今まで苦しみなどまるで感じていなかったような怪物が、である。
その隙はあまりにも大きかった。考えなしのパクスが怪物の背骨へ渾身の拳を叩き込める程に。
メキリ、と、音がして、怪物の背骨が折れていく。
……2か所。
背骨は、2か所で、折れていた。
パクスが殴った一か所の他……ベラトールが飲み込まれた、肋骨のあたりで、もう一か所。
ソルは即座に、のたうつ怪物の肋骨へとナイフを繰り出した。パクス並みに後先を考えずに行った攻撃だったが、ソルの横でパクスが怪物の頭にしがみ付き、ひたすらに殴り続けていたために攻撃が十分、通った。
「……やったかい?」
ソルが折り取った怪物の肋骨の内側、怪物の口腔なのかもしれないそこでは、ベラトールが体を引き千切られながらも、にやりと笑っていた。
その手の鋭い爪を、内側から怪物の背骨に、突き立てて。
やがて、シャルール・クロワイアントのなれの果ては、すっかり動きを鈍らせて、ただ死を待つだけとなった。
その横で、ソルはパクスと共に、ベラトールを肋骨の中から引きずり出し、汚れの無い地面へと寝かせる。
「はあ……まあ、こうなったらしょうがない。後は適当に食っておくれ」
……ベラトールは最早、生きることを諦めていた。肋骨の中に取り込まれてから咀嚼されていたと見える体は、無残に引き千切れ、今、息があるのが不思議なほどである。
「ベラトール……おま、お前……なんで、あんなこと……」
「何、貧乏くじを引きたくなかったから、さ。……私を食わせる言い訳には、丁度、よかっただろう?」
じっとベラトールを見つめるパクスの瞳に涙は無い。涙を流すほどの力も残っていないのだろう。そしてベラトールも、消え入りそうな声を息と共に吐き出すばかりであった。
「悪い、ね。私は、魔王の器じゃあ、無い。生き残るのは、私じゃない、って、思ってたさ……ヴィア、あんたみたいに、ね」
「ベラトール嬢……」
小さなヴィアもソルの懐から飛び出して、ベラトールの頭の横に、そっと着地する。ソルもベラトールの傍らに片膝をつき、その横では、くうん、とパクスの小さな鳴き声が風にそっと流れていく。
「私にだって棺は必要ないよ。私は、魔物だからね。誰かの死体を踏み越えて、それでも先へ行こうとできるのが……私達魔物の、強さだ。違うかい?」
囁くような声に耳を澄ませて、皆、頷く。何故なら、彼らは皆、魔物だから。
「あなたは誇り高く高潔な魂を持った、最高の戦士です、ベラトール嬢」
「魂、ね……」
ヴィアの言葉に、ふと、ベラトールが笑った。苦しげに喘ぐようでありながら、それでも、その口元は確かに笑みに緩んでいた。
「私達魔物の魂は、私達の、意思の中にある、から……」
「ああ、分かってる」
ベラトールの細い声を引き取るようにして、ソルはその漆黒の瞳に強い意思を宿す。
「お前の……いや、俺達の魂は、決して途絶えさせない」
そうしてベラトールを看取って、ただ静かな聖堂の周りで、ソルは長く長く息を吐いた。空気ごと、やりきれない思いを吐き出してしまいたかった。
パクスも、ヴィアも、ただ黙って静かに、呼吸だけを続けていた。こちらもまた、世界中のありとあらゆる音から切り離されたように静かであった。
「神は、お前達を、決して許しはしない」
……そこに、静けさを破る声が聞こえる。
否、ずっと発されていた声だったのかもしれない。ただ、今までソル達の耳に入らなかった、というだけで。
「それを決めるのはお前じゃない。神だ」
ソルはその声に、ただ静かに返した。そして……立ち上がり、懐から赤い宝玉を取り出す。
レリンキュア姫が『派手よなあ』と少々顔を顰めていたこの宝玉こそ、今、死にゆくシャルール・クロワイアントに見せつけるに相応しい。
ソルは、赤い宝玉をそっと胸に飾って、堂々と、誇る。
「見ろ。お前の憎む魔王が、今、誕生したぞ」
仲間達の意思を、魂を引き継ぐ者として。
シャルール・クロワイアントはただ、次第に薄れていく意識の中でソルの姿をじっと見ていた。
「……ついでに、どうやら神は俺達を祝福してくださるらしい」
魔王、と名乗った鴉の上で、魔力がふわりと踊る。聖堂に漂っていた魔力は今、『魔王』という強大な魔力に引き寄せられ、ふわふわと集まっては神々しく輝く靄となっていた。
まるで、『魔王』の言葉通り、神に祝福されているかのように。
「……神よ」
祝福される魔物の王を視界に収めながら、そう呼び掛ける。だが、シャルール・クロワイアントの呼びかけに応えるものは無い。
ただ、風の音がかすかなざわめきとなって通り抜けていき、そして、それきりであった。
聖堂の中は比較的、綺麗なものであった。石造りの小さな建物は、然程豪奢ではなく、むしろ質素な部類に入るようなものであったが、それはそれとして、それなりに片付き、汚れも無い。
聖堂の中へベラトールの亡骸を運び込んで、ソルとパクスは長く深く、息を吐く。
「……食べなきゃ、ですね」
「ああ、そうだな」
ベラトールもそれを当然のこととして語っていた。その通り、生き残った者達がベラトールの意思と魔力とを引き継ぐために、彼女の亡骸を食らうべきだろう。
……だが。
「俺が1人で食う。お前は別のもん、食ってろ」
「えっ」
ソルは早速、ベラトールだったものを肉に切り分けていきながら、そう、言った。
「な、なんでですか隊長!?どうしたんですか隊長!?」
「……お前を死なせるのが、どうにも惜しくてな」
ソルは、騒ぐパクスの方を見ずに、そう言って笑う。
……パクスにも魔力を分け与えて、共に戦うべきなのだろう。そして、時が来たなら、パクスをも食らい、ソルはいよいよ真の魔王として、魔物の国の頂点に立つ。それが一番よい筋書きなのだと、分かっては、いる。
だが……どうにも、可愛い隊員を、死なせたくなくなった。いよいよ、残る仲間が数少なくなってきたための感傷なのだろうが、それでも。
「それに、お前に俺を食わせて1人生き残らせるのも、ちょっとな」
「……うう」
パクスは馬鹿だが、愚かではない。ソルの考えを悟って、しゅん、としてそれ以上の反論はしなかった。……パクスも、分かっているのだ。生き残る者の苦痛が如何ほどか、考えたことが全く無かった訳ではない。できるだけ、考えないようにしていただけである。
「だから、お前に回す魔力はねえよ。全部、俺が食う。何日かかかるだろうが……ま、魔王になるって言っちまったしな。不遜にも、宝玉まで身に着けてる。後に退くつもりはねえ」
ソルが何を思ってそう言っているのかも、パクスには分かる。分かるのだ。だから、忠実で献身的で、そしてきっとアレットと同じくらい寂しがりのパクスは、頷くことにした。
「……分かりました。俺、死にたくない、とは思ってませんけれど、でも、隊長に寂しい思いをさせたくは、ないので……だから俺、お傍にいますからね!隊長!」
「ああ、期待してる」
ソルはここでようやくパクスの方をちらりと見て、笑った。それが嬉しくて、パクスはぶんぶんと尻尾を振る。
悲しいことがあっても、辛いことがあっても、自分を必要として、自分に期待してくれている相手が居るのだ。元気はきっと、幾らでも湧いてくる。
「沢山撫でていいですからね!肘は毛が溶けましたけど……あ!でもまた生えますよ、きっと!」
「元々肘を撫でるつもりはねえ。腹と尻尾だけ出しとけ」
「はい!どうぞ!俺の!腹筋!です!」
「うわー柔らかくねえー楽しくねえーしかもうるせえー」
ソルは笑いながらパクスの腹筋をぺしぺしと翼で叩いて、その傍ら、ベラトールを着々と食らっていく。
……こんな状況ではあるが、いつか、城の食堂で警備隊の仲間達と共に食事をしていた時のことを思い出す。パクスも、ソルも、どちらとも口には出さなかったが、お互いにそんな気持ちで、そこに居た。
「ソル。外に落ちた血は私が頂いたが、よかったかな?」
やがて、ヴィアがそう言いつつ戻ってくる。その透明な体の中には、わずかに血が混ざって濁っている様子が見えた。それもいずれ、消化され尽くして透明になっていくのだろうが。
「そうだな。お前にも、もう少しいてほしい」
ベラトールの魔力は、一欠片たりとも無駄にしたくない。その点、地面に染みこんでしまった血液まで吸収できるヴィアの存在はとてもありがたかった。
「……悪いが、私もこの体がいつまで持つか、分からない。いつまでいられるかは……」
「そういうこと言いつつ、誰よりも長く生き残ったりしてな」
「おお、そうなったら実に悲劇的だ!私以外の者から見れば喜劇だろうが……」
仄暗い未来をお互い見ないように会話しながら、笑って、ヴィアはソルが食事を進めていくのを見守る。パクスも笑いながら、そんな2人を見て……。
「……あっ、これ、もしかして俺、食うものないんじゃないですか!?」
……気づいたように、叫んだ。
「だからそう言っただろ」
「大変だ!俺、腹減りました!」
「荷物の中に干し肉とか入ってるだろ、食ってろ」
更にパクスが騒ぎ始めれば、まるで、いつもの風景のようである。
ただ、レリンキュア姫が『煩い犬よなあ……』と呆れておらず、ガーディウムが黙ってくつくつと笑ってもおらず、ヴィアがごく小さく、ベラトールが静かで、そして、アレットが居ない。ただ、それだけで。
「やだー!俺、隊長の手料理がいい!美味しさが段違いなんですもん!食べたい!食べたい!隊長の手料理食べたい!先輩のでもいい!」
「しょうがねえ奴だなあ……」
ソルは苦笑しながら、今、この時を少しでも味わうべく、荷物から調理道具を取り出すのだった。
いつまで続くか分からない時間を、精一杯、大切にするために。