怪物*8
パクスは頭を抱えている。敬愛するアレットに『焼き立てのパンみたいな色の毛並みだねえ』と言われたこともある自慢の尻尾をびたんびたんと床に打ち付けつつ、あまりに複雑すぎる話を理解しようと必死に頭を悩ませていた。
「お、おい、パクス。あんまり無理するなよ……?」
「はい!隊長!必ずやご期待に沿いますので!」
……パクスの頭を悩ませているものは、ソルが解読した壁画の文章である。
壁画の文章は『命こそが魔力の枷である。』という冒頭から始まり……そして、難解な言葉がその後に続いたのである。
『魔力が集まり、枷が生まれ、意思に呼応し、枷は命へと変ずる。命は枷として魔力を掴み、その魔力によって命が体を作る。そうして我ら、魔物は成る。』
『我ら魔物の命は、魔力を離さぬ枷である。我らが死す時、魔力は枷より解き放たれいずれ大地へと還り、また、魔力を失った命は、自ずと崩れ去っていく。』
『意思を持て。それは魂である。枷を命へと変ずるものであり、命を統べるものである。意思在りて枷は命へと変じ、我らが生まれる。』
『それら理を統べる者、それが魔王である。』
『魔王はその意思を、広く大地へと伝えよ。その意思が我らを生み出すように。国の安寧を保つように。意思なき命が生まれぬように。』
……ソルから訳を聞いても、パクスには意味が分からなかった。一体何の話をしているのやら、さっぱりである。
そもそもパクスは、文章を読むのが苦手なのだ。特に、目の前の壁画に書いてある文章は、そもそもがただの装飾的な模様のようなものである。訳を聞いた今も、パクスにはそれが文字に見えない。
だが、敬愛する隊長の前である。パクスには失態が許されない。自分にそう課して、パクスは一生懸命、頭から湯気を出さんばかりに悩み、悩み、悩んで……。
「いや、俺はお前に難しいことの理解は期待してねえ」
「あっ、本当ですか!?ならやっぱり考えるの、止めます!」
パクスは考えるのを止めた。
向き不向きというものはある。だから魔物は補い合い、助け合えばよいのだ。大丈夫。パクス自身が考えられなくとも、敬愛する隊長や信頼できるベラトールが代わりにきっと考えてくれることだろう!
……考えるのを止めた途端、頭が軽くなるような爽快感と安堵とを覚え、パクスは元気に尻尾を振る。
「……おーおー、流石、俺の自慢の隊員だ。思い切りの良さが半端じゃねえ……」
そんなパクスを、ソルは何やら複雑そうな目で見ていたが。
「で、こりゃ一体、何のことだい」
「恐らく……俺達、魔物の生まれ方、なんだろうな、とは、思う」
ソルも首を傾げつつ、しかし、ここで考えることを放棄するわけにはいかない。何せ、ソルの背後には、期待の眼差しに目を輝かせた後輩が、ぶんぶんと尻尾を振っているのだから。パクスは『やっぱり隊長はすごい!』とやるつもりなのだろう。なのでソルは、『すごい隊長』でなければならない。
「……ヴィアのことを考えると、まあ、結構妥当なことが書いてあるよな」
「……魂、かい?」
「ああ、そうだ」
ソルは壁画の文字の二行目を指でそっとなぞる。……ヴィアは確か、『魂だけ』とやらの状態になって魔物の国を彷徨い、そこで魔王の残り湯……つまり、魔力の多い水と触れ合って、スライムとなった、と言っていた。
ヴィアの誕生は、この壁画に書いてある二行目の状況だったのだろう。ヴィアの魂が魔力と触れ、『枷』とやらを命に変えて、スライムが生まれた。
……随分と抽象的な話だが、ヴィアが居たおかげか、多少、呑み込みが早い、ように思う。少なくとも、ヴィアの話を一切聞かずにこの壁画の文字だけを眺めていたなら、間違いなくソルもパクスのように頭を抱えていたことだろう。
「最後のは、魔王様の意思が、魔物を増やしてた、ってことになるのかね」
「ああ……そう考えるしかないだろうな」
ベラトールも理解に苦しんでいる様子ではあったが、ベラトールはベラトールなりに、紙に考えを書き出してからそれを眺めて悩む方法を取っている。少なくとも、パクスのように思考の海に全面降伏するようなことにはなっていないらしい。
「そうだね……魔物ってのは、大抵、気が合うだろう?少なくとも、人間程にどうしようもなく考えが合わないって奴にはそうそう行き会わない」
ベラトールが話し始めるのを聞いて、ソルは頷く。
魔物達はそれぞれに『個』であるが、同時に『全』でもある。当たり前にそう思って生きている。……だが、どうやら人間はそうではないらしい、ということは、知っている。
「それは、私達が皆、魔王様の意思を元にして生まれた魔物だから、ってことなのかね」
人間が完璧に意思を揃えて立ち向かってきたのなら。くだらない内輪もめばかりしているのでなかったら。……そうなったら、人間はより、魔物の脅威であっただろう。
魔物が魔物である理由の一つは、恐らく、その命に同じ意思を……『魔王の意思』を、宿しているからなのだろう。
「……かもしれねえな。まあ、もしかすると、レリンキュア姫あたりはまた別の生まれ方をしてたのかもしれねえが……ガーディウムは北の森の中で生まれたっつってたから、多分、魔王様の意思由来の魔物だろうな。俺もそうだし、アレットも多分そうだろ。パクスは……」
「よく分かりませんけど多分俺もそうです!あれ?でもヴィアは違うんですかね?だとするとヴィアはすごいやつですね!」
「だなあ……」
「つくづく妙な奴だね、あいつも……」
……そして結論としては、『魔王の意思を持たず、自前の意思だけでスライム化していたヴィアは、やはり、変な奴であった』。
ソルは、『これ、ヴィアと一緒に読みてえ文章だったなあ』などと思いながら、どこか遠い気持ちで、それでいて穏やかに、壁画の文面を見つめるのだった。
「……さて。じゃ、これが最後の神の力の欠片、ってことか」
やがてソルは、そっと、祭壇の上にあった宝石へと手を伸ばす。無色透明のその宝石は、ソルが手を伸ばすと、その輝きをより一層強くし……。
そして、動いた。
「きゅー」
あまつさえ、鳴いた。
「……えっ?」
……ソルもベラトールも、そして勿論パクスも、目の前の出来事の意味が分からないまま、もそもそと動き出した神の力の欠片を、ぽかん、と眺めていた。
だが。
もそもそもそ、と動いていた宝石が、にゅる、と形を変えていく。
宝石はその無色透明なままに膨れ上がり、熱い飴のように捻じれ、曲がり、広がって……次第に大きく大きく、形を変えていく。
罅割れた表面はやがて、滑らかな鱗へと整えられる。
伸びた先には頭部が生まれ、その咢には鋭く牙が並ぶ。
そして背に、強くたくましく、翼が生えた。
……そうして生まれた竜は、大きく吠えるとすぐ、ソル達へと襲い掛かってきたのである。
振り下ろされた爪を咄嗟に避けて、ソルはぞっとする。
ソルとて、大分、強くなった。この旅に出る前から既に『銃弾より速い鴉』であったソルだが、今や、その速さは銃弾などでは測れないほどになっている。
神の力の欠片を2つ、仲間達と分けて食らっている。それに加えて、レリンキュア姫に、ガーディウムに、ヴィアに……仲間達をも、食らってきた。
だが、そのソルでも、ぞっとさせられる。それほどの強さを持った竜が、目の前に立ちはだかっている。
「パクス!あまり前に出るな!」
「分かりました!隊長の後ろに行きますね!」
それなりの強さの敵であれば、パクスが猛進していく後ろからソルが助けに入ることも多い。……だが、今回ばかりはそうもいかないようだ。
目の前に現れた宝石の竜は、あまりにも速く、あまりにも強い。こんな敵の前に、むざむざと可愛い隊員を出せはしない。一度当たれば致命傷になるであろう攻撃の数々は……パクスのように受け止め払いのけるやり方ではなく、ソルの、引き付けてから躱すやり方でいなしていかなければならないだろう。
ソルは意を決して、床を蹴る。大きく飛び上がった漆黒の鴉は、宝石の竜の眼前に躍り出る。颯爽と飛んだソルに、宝石の竜は宝石でできた鱗を煌めかせながら、宝石の牙を、こちらへ向けてくる。
それをソルはギリギリまで待って……躱す。
ばくり、と、ソルのすぐ横で宝石の竜の顎が閉じられた。ソルが一瞬遅れたなら、今、竜の口の中でソルは無残に潰され、引き千切られていたことだろう。
……だが、こんな危険を冒しただけの価値はある。
「よし!食らえッ!」
竜の後ろへ回っていたパクスが一声吠えると、竜の首の後ろ……頸椎に当たる部分に、その鋭い牙で噛みついたのである。
ソルが強くなったというのなら、パクスもまた、強くなっている。
得てきた魔力は当然多く、そして、パクスはどうも、あまり器用な方ではないからか、その魔力のほぼ全てが身体機能の向上へと使われているようなのだ。
要は、魔法によって身体が強化されているのだ。その強化は魔法の類である故に、強力だ。それこそ、鋼をも凌ぎ、刃すら噛み砕き、あらゆる装甲を破壊できるまでに。
……だが。
「あれっ!?全然噛めない!なんだこいつ!」
パクスの焦ったような声が聞こえて、ソルは青ざめる。
首の後ろを噛まれた竜は、今、ぎろり、と、その目をパクスへ向けていた。
……まるで、怪物だ。
ソルはパクスを庇うべく竜の眼前に飛び出しながら、心の中で悪態を吐く。
神よ、これは流石に試練としては、やりすぎじゃねえのか、と。