怪物*5
その日、人間の国は大いに荒れた。
ここ最近だけでも様々な出来事があったが、それを遥かに超える波が国を襲ったのである。
……第二王子が勇者になったという朗報に続いて、更に勇者レオ・スプランドールの妹までもが勇者となり、更に、『王家が勇者の力を奪った』と主張しさえもした。そうして国内でも耳の早い人間達は、事の行方を注視していたが……そこに、なんと、大聖堂が口を出してきたのである。
『邪神に魅入られた勇者』であるレオ・スプランドール。『勇者の力を奪い取った者』であるアシル・グロワール。そして、『神に選ばれていない勇者』であるエクラ・スプランドールの三名の『処理』を、王城へ願い出てきたのだ。
「……一体、どうなっている。俺は……俺は、本当に、勇者なのか……?」
ということで、国内情勢よりも何よりも、アシル・グロワールの心情が荒れている。
自分自身の力を神に与えられたものと信じて疑わず、それ故に自らの正義を特に顧みることも無かったアシル・グロワールである。ここにきて自分自身の力の根源を否定された挙句、大聖堂から『消えろ』と宣告されたも同然の状況。……即ち『神に見捨てられた』。
こんな状況とあっては、アシル・グロワールも自分で自分を疑い始める始末である。本当に自分は勇者なのか。本当に自分に正義があるのか。
そんなことをつらつらと考えても考えても、答えなどあるわけはない。只々、アシル・グロワールは思考の海に沈んでは溺れ、もがき、苦しみ……。
「騎士団長殿、どうか、お気を確かに」
……そして、救われる。
嵐の海に身一つで投げ出されたような心境のアシル・グロワールに、何より優しい救いの手が差し伸べられる。
愛しい愛しい『フローレン』の手がそっと手を握り、そして、柘榴の粒のように透き通った紅色の瞳が、じっと、見つめてくる。
……その瑞々しく美しい紅に、アシル・グロワールは落ち着きを取り戻した。まるで、荒れ狂う海の中、縋りつく板切れを見つけたような、そんな心地であったのだ。
「大丈夫です、騎士団長殿。騎士団長が神に選ばれし勇者であることは誰の目から見ても明らかですとも!」
にっこりと優しく、そして励ますように明るい笑顔を見て、アシル・グロワールはつられて少々、笑う。
「それに……もし、神に選ばれていなかったとしても。神の意に背くものであったとしても……それでも騎士団長殿は、民を救うため、魔物の国で活躍されてきたではありませんか。その功績までもが否定される謂れはありませんよ」
優しい声と笑顔が、握られた手に伝わるぬくもりが、アシル・グロワールのささくれ立った心をじんわりと癒した。
「私も、あなたに助けられました。騎士団長殿が勇者でなかったなら、きっと、私は魔物の国で死んでいたことでしょう」
「フローレン……」
自分の手よりずっと小さな、柔く華奢な手を握って、アシル・グロワールは『ああ、そうだった』と思い出す。
そう。自分が勇者となったことを、後悔などしてはならない。それの正当性など、疑うべきではない。
何故なら、勇者の力を得たことで、何物にも代えがたい愛しい存在を救い出すことができたのだから。
「……そうだな。どうかしていた。礼を言うぞ、フローレン」
「お役に立てたなら光栄です」
自らの力の理由を思い出して、アシル・グロワールは活力を取り戻した。
状況は何も好転していないが、それでも、気分だけは随分と明るく、前向きになった。これで状況を良くしていくため、動いてもいけるだろう。
……自分が正当なる勇者でなかったとしても、最早、構わない。
そう、アシル・グロワールは自らに言い聞かせた。
「ま、殿下の元気が出たならいいけどな。どうすんだ、これ。色々解決してなさすぎだっつうのに」
「とは言っても、大凡のところは見えてきましたよ。シャルール・クロワイアントの脱獄を手引きしたのは第一王子でしょうし、目的は大聖堂を通じて『勇者』全員を抹殺することだったのでしょうし」
アシル・グロワールを落ち着かせてやってから、数刻。アレットはフェル・プレジルと2人、第三騎士団御用達の倉庫の木箱の上で腕組みしつつ、状況の整理をしていた。
「ま、そういうことだったんだろうな。くそ、後手後手に回っちまったなあ……」
「そうですね。せめて、城下に怪物を放たれる前に気づければよかったのですが……」
実際は気づいていて諸々を止めませんでした、ということはすっかり隠しつつ、アレットはしょげた顔でフェル・プレジルと相対する。
「……やはり、あの怪物も、第一王子の手によるものと考えるべき、ですよね?」
「或いは、シャルール・クロワイアント……もしくは大聖堂、か。どうなってんだかなあ……まさか、大聖堂が魔物を呼び込んだなんて、思いたかねえが、造ったとも思いたくねえし……」
フェル・プレジルも頭の痛そうな顔をしているが、アレットとしては『まあ、それでも多分大聖堂がやってるよ、これ』という気持ちでいっぱいである。どう考えても、大聖堂がおかしい。
「まあ、第一王子だって、声高に第二王子の処刑なんかは主張しねえだろうしな。それでも、第二王子がどっかに追いやられるくらいはありそうだが……」
「ま、まさかまた魔物の国送りに!?あれほど苦労された騎士団長殿が、また!?」
なんてこと!とばかり、アレットは反応してみせるが、『まあ、そうだろうなあ』という気持ちでいっぱいである。どう考えても、そうなる。
「……となると、レオ・スプランドール殿と、エクラさんは……」
「うーん……そっちについては、もう処刑で済ますんじゃねえかな、と思うけどな……いや、エクラ・スプランドールだけは飼い殺しにしたいかもしれねえが」
こちらについてもアレットは『だよね』と内心で頷く。特に、レオ・スプランドールについては、中途半端にシャルール・クロワイアントと関わっているだけに、第一王子側からしても大聖堂側からしても、さっさと始末したい相手であることは間違いない。
ただし、そこにエクラの存在が引っかかって、未だに処刑に至っていない、という話なのだ。
何せ、エクラは民心を得てしまっている。エクラの演説によって、多少なりとも『勇者』というものに疑問を抱いてしまった民衆は多い。それでいて、民衆は同じく『勇者』であるエクラについては、疑う目をほとんど持っていないだろう。
何せ、エクラはつい先日までただの平民であった、見目の良い少女だ。そんな少女が主張も空しく処刑台に上るともなれば、民衆は事実も何も関係なく、怒りを王家へ向けるだろう。
……見目が良い、というのは、大切なことなのだ。今、アレットがこうして人間の国に溶け込んでいるのも、半分近くは見目の良さによるところではないかと思われるが。
「……で、フローレン。お前はどうするんだ」
考えていたアレットに、フェル・プレジルは心配そうに声を掛けてくる。何だかんだこの人間は、世話焼きな性質であるらしい。彼の中ではすっかり『第一王子が悪』と決まったらしく、その分、アシル・グロワールやアレットに対し、親身な様子を見せている。
「どうする、と言われても……どうしたらいいんでしょう、これは」
「それはまず、お前が『どうしたい』かによるんじゃないか?」
アレットが適当に話をはぐらかすと、フェル・プレジルは『先輩』として助言を始める。尚、フェル・プレジルはどう見ても30か40年程度しか生きていないひよっこである。100歳を超えたアレットからしてみれば自分の方が余程『先輩』なのだが、そこは黙って、神妙に頷いておくことにした。
「そうだな……もしお前がこの状況から一刻も早く離れたい、っていうんなら、アシル殿下の側仕えを止めて故郷に帰るって手もあるだろ?」
「えっ、そんなことをするつもりはありませんよ、私は」
フェル・プレジルから突如として発された言葉に驚いてみせつつ、アレットは少々困ったように笑う。
「私には帰る故郷もありません。騎士団長殿に救われた命ですから、騎士団長殿のために使いたいと考えています。たとえ、多少危険な目に遭ったとしても」
「……そうか。アシル殿下は幸せ者だなあ。こんな忠臣を得て」
……そう。アレットには、帰る故郷があるが、帰れない。最低限、勇者の血肉を食らって魔力を得てからでなければ、アレットは魔物の国へは帰れない。
それに……今は、もっと気になることもある。
下手をすると、勇者よりも厄介であろう存在……大聖堂と、そこに匿われたシャルール・クロワイアント。
奴らの手の内を看破してやらねば、魔物の国に安寧は訪れないだろう。
それからアレットはフェル・プレジルと少々話して、結論を出した。
それは即ち、『やはり、大聖堂を調べるべきでは?』という単純な答えだ。
大聖堂の主張は、今まで人間達のために戦ってきた『勇者』をあまりにも軽視し過ぎている。確かに、平和になった国に過ぎた武力は必要ないのだろうが、それにしても、切り捨て方があまりにも惨い。
その辺りはフェル・プレジルも感じているらしく、アレットの言葉に大いに賛同してきた。……この辺りからも分かる通り、フェル・プレジルは随分とお人よしなのである。アシル・グロワールであれば『大義のためには必要な犠牲かもしれん』程度のことは言っていただろう。
そんなフェル・プレジルは、レオ・スプランドールやエクラ・スプランドールの身も案じているらしく、レオの方はどうしようもなかったとしても、妹のエクラまで処刑台に上らせたくはない、と考えているようだった。
……そしてアレットとしては、やはり、大聖堂の内情を知りたい。そこに、魔物ですら知らない魔術が隠されているのかもしれないし、或いは……本当に、『神』がそこに居るのかもしれないのだ。
何にせよ、大聖堂には何かが間違いなく、有る。魔物の国の脅威になる何かか、或いは、魔物の国を助ける何か。そういったものが、必ず、有るのだ。
なので、アレットは大聖堂への潜入を考えていたのだが……。
「……大聖堂に潜り込むのは、難しいでしょうか」
「裏から、ってことか?いやー、やめとけやめとけ。あそこは大義名分の無い人間が入り込むのは難しい。お堅い場所だからな」
アレットは『人間じゃなければ入り込めたりしないかな』と少しばかり思わないでもなかったが、人間でなく魔物であっても無関係な者を入れない程度に大聖堂の守りは堅牢、ということなのだろう。変に穿った見方をせず、アレットはまた頭を切り替える。
「ということは、正面から入れば入れてもらえるのでしょうか?」
「……まあ、大義名分が王城から出たりすりゃあ、入れるかもしれねえが」
返事をもらって、ふむ、とアレットは考える。
大聖堂の中に、どうも魔法を使う者が居そうだとなれば、アレットが忍び込んでも露見するまでそう長く時間はかからないだろう。ならばフェル・プレジルのいう通り、『大義名分』を背負って正面から入り込み、大聖堂の人間達がアレットを追い出すに追い出せない状況を作り上げるのが良さそうだ。
では、そのような『大義名分』を得られるだろうか。
……第二王子を使うのは、難しいだろう。何せ、大聖堂はほぼ間違いなく、第一王子と癒着している。となれば、第一王子が何故か執拗に狙っている第二王子に対して、協力するはずがない。名目上の『大義名分』にさえ、踊らされてはくれないだろう。
では他にアレットが使える手段があるか、と言えば……強いて言うなら、レオ・スプランドールとの会話の内容だろうか。
シャルール・クロワイアントとしても、レオ・スプランドールが何を知っていて何を漏らしたかは気になるところだろう。アレットがレオ・スプランドールの情報を売りに来た体で潜り込み、大聖堂に密偵としてうまく雇われれば、多少、望みがありそうだが……。
……そこまで考えたアレットは、いや、待てよ、と思い直す。
レオ・スプランドールについては確かにシャルール・クロワイアントが知りたがるだろう。そしてシャルール・クロワイアントを匿っている大聖堂もきっと、気になるはず。
だが……彼らが、レオ・スプランドール以上に知りたい『勇者』が、もう1人、居る。
「エクラ・スプランドールの存在は、恐らく、大聖堂も予期していなかったはず。彼女ならまだ、大聖堂に取り入ることができるかもしれません」
……アレットは、着々と計画を立てる。
明日からでも、エクラを連れて大聖堂へと旅立つための、計画を。