人間模様*7
恐らくアシルの母……今の王の後妻であろうその女は、アレットに平手打ちを避けられるとは思っていなかったらしく、ぽかん、としていた。だが、すぐさま、アシル・グロワールに取り押さえられ、椅子に座らされる。
「え、ええと、こちらの方は……?」
アレットがそっと、アシル・グロワールに問えば……彼は苦り切った表情で、言った。
「……こちらは、王妃殿下にあらせられる。つまり……その、私の母上だ」
「成程……ええと」
アレットは只々、『どうしていいのか分からない』という態度を見せた。母子喧嘩に巻き込まれたようなものなのだから、当然の反応である。
「この……よくも!よくも、アシルを誑かしてくれましたね、この泥棒猫!」
「私は猫ではありませんが……」
蝙蝠に猫とは何事か、とアレットは少々腹を立てる。猫とはベラトールのような者のことを言うのである。そしてそもそも、泥棒でもない。
「分かっていますか?この子は勇者になって、国の英雄に相応しい立場と能力を手に入れたの。次の王の座に、手が届く位置に居るのよ!」
「はあ」
「それが……どこの誰とも知れない、平民上がりの傭兵如きに執心している、だなんて……そんな噂が立ったら、この子が王になれなくなるわ!」
アレットは王妃をちらり、と見て、それから、困り果てた顔でアシル・グロワールを見つめてやった。……アシル・グロワールはそんなアレットの視線を受けて、大層居心地悪そうにため息を吐くと……すぐ、王妃を黙らせにかかった。
「母上。フローレンにはそのような邪心はありません」
王妃は、『泥棒猫』ではなく自分の息子が話しかけてきたことで多少落ち着きを取り戻したらしかったが、それでも尚、怒りが収まらないらしい。
「アシル!あなたもどうかしてるわ!どうしてこんな、出処の分からない平民なんかを……!」
「私に忠義を尽くし、命を賭した家臣に恩賞を与えるのは当然のことです。それに、レオ・スプランドールを処刑するためには、彼女の証言が必要不可欠なのですから」
「そんなこと言って……!」
王妃は自分の息子に話が通じないと見るや否や、再び憎々し気にアレットを睨む。
「誰の差し金なの?」
「え?」
「第一王子の?或いは、亡き先妃の?……言いなさい!」
「どちらでもありません、王妃様」
この王妃とは話が通じそうにない。少なくとも、相手はアレットとの対話をまるで望んでいないらしい。となれば、アレットが食い込む余地はなく、少なくとも今は、さっさとこの話を打ち切る方が賢明だろう。
「そんなわけが無いでしょう!一体何が望みなの!卑しい平民め!」
そして王妃は再び、手を振りかぶった。
……アレットには十分に避けられる速度であったが、アレットは敢えて、頬に平手打ちを食らうことにした。さっさとこの話を切り上げるために。
パシン、と音がして、アレットは頬を打たれる。だが、アレットは微動だにしない。アレットの力の前では、王妃の平手打ちなど虫が止まった程度のものであった。
王妃はそんなアレットに激高し、更にもう一度、とばかり手を振り上げたが……今度こそ、アシル・グロワールに止められる。
「母上」
低く鋭い声を浴びせられて、王妃は身を竦ませる。恐る恐る振り返り、自分自身の息子の顔を見て……そこに確かな怒りと失望があるのを見て、さっ、と青ざめた。
「御退室を。私はフローレンから報告を受けなければならないので」
青空色の瞳が、随分と冷たい。それを真っ直ぐに向けられた王妃は、振りかぶった手を弱弱しく下ろした。
「わ、私に出ていけと言うの?」
王妃は『この女ではなくて、私に出ていけと言うのか』と確認したかったのだろうが、アシル・グロワールは何も喋らない。ただ黙って、王妃の行動を待っているだけである。
王妃はわなわなと震えると、すぐ、踵を返して部屋を出ていった。
……そうして、バン、と激しい音を立てて執務室の扉が閉められて、ようやく、室内は静かになったのだった。
張り詰めた空気が、緩む。アレットがその場にへたり込むとすぐ、アシル・グロワールが駆け寄ってきた。
「……すまない、フローレン。見苦しいものを見せた上に、怪我まで」
「いいえ、大した怪我ではありませんので」
アレットはすぐ立ち上がることはせず、柔らかな絨毯の上にへろん、と座り込んで、苦笑いを浮かべてみせた。アシル・グロワールが罪悪感をより強く覚えるように、と意識して振舞う。
「口の端が切れているかもしれない。手当を」
「いえ、本当に大丈夫です。どうぞ、お気遣いなく」
アシル・グロワールの心配をそっと振り解いて、アレットは立ち上がる。
「その……やはり、私は一兵卒としての立場を、守るべきかと」
そして、アシル・グロワールが望んでいない言葉を、聞かせてやるのだ。
「母上のことで不愉快に思わせただろう。彼女に代わって謝罪する」
「いえ、王妃様のご心配もご尤もかと思いますので……」
アシル・グロワールは目に見えて焦っていた。『フローレン』を失わないように、と必死な様子である。
「母上にはよく言っておく。今後、執務室に近づくな、とも。だからもし、お前が母上に遠慮するというのなら、そんなことは気にせず……」
「ですが、騎士団長殿のお立場が、危うくなられます!」
それでもアレットは折れない。それをアシル・グロワールが望んでいないと知っているからこそ、折れないのだ。
「……それは、私の本意ではありません。騎士団長殿の足を引っ張るような真似は、したくないのです」
「フローレン……」
アシル・グロワールが、自らの立場を大いに恨んでいる様子が見て取れた。王子でさえなければ、『フローレン』と手を取り合って共に過ごすこともできただろうに、とでも思っているかもしれない。
……そして、そう思うことによってより深く、泥沼に嵌っていく。
「ですので……その、今後は、フェル・プレジル殿と共に、報告に参ります。それでしたら王妃様や他の方々のご機嫌を損ねることもないでしょうから……」
焦燥と絶望を隠そうともしないアシル・グロワールを前に、アレットはしおらしく、俯いてみせた。そう簡単に『フローレン』を手にされては困る。事情が複雑になってきた今、分かりやすく単純で、かつ操りやすく妄信的である人間が居るのはありがたい。騎士団長にはまだこれからも、そういった人間であってもらわねば。
「ええと……では、改めまして、報告を。レオ・スプランドールから得た情報ですが……」
アレットは健気にも一兵卒『フローレン』として報告を始める。そんなアレットの姿を見て、より一層『手に入らないもの』への渇望を自覚したらしいアシル・グロワールの様子を見ながら、内心で笑う。
人間の国を滅ぼすのであれば、アレットは傾国の美女として暗躍すべきだろう。騎士団長と王子と勇者を兼任する人間を1人、虜にできるのならば今後も随分とやりやすいはずである。
ただ……アレットは『こういうのヴィアが喜びそうだなあ』と、思った。そしてやはりと言うべきか、アレットの懐で小さなヴィアがぷるるん!と喜ぶ気配があったので、それは気にしないでおくことにした。
それからアレットは、城内の情報収集と、人間達との関係の構築に励んだ。
特に、エクラ・スプランドール。……彼女は比較的、御しやすかった。第一王子側も第二王子側も、『ほとぼりが冷めるまでは放っておくしかない』と判断したらしく、エクラ・スプランドールに会いに行くことは然程難しくなかったのである。
ということでアレットは次第にエクラ・スプランドールに懐かれるようになり、同時に、『フローレン』が見てきた人間と魔物の戦い、そして勇者について語って聞かせ……徐々に、アレット達にとって都合の良い人間となるよう、調整していった。
同時に、レオ・スプランドールについても、情報提供を行うことで操っていく。彼はあまり賢くない上、エクラの情報を定期的に提供するだけで信頼を得られるので、操るのはそう難しくなかった。
レオ・スプランドールは『自分の力はエクラの言う通り、王家の手の者に奪われた。犯人はシャルール・クロワイアントである』という主張を練り固めている様子であり、次の裁判の日が待ち遠しい様子となってきた。
……そう。レオ・スプランドールがそのように主張したならば、王家側は全てを突っぱねて『勇者の力は神がもたらしたものであり、レオ・スプランドールとは何の関係も無い』と言い張るか、はたまた、『そうかもしれないがシャルール・クロワイアントが勝手に行ったことであった』と主張するかのどちらかとなる。
前者であればエクラ・スプランドールとの戦いに発展するが、既に民衆の前に姿を現している彼女を……それも、罪の無い無垢な少女、という印象の強い彼女を敵に回すのは、賢明ではない。
そして後者を選ぶならば、第二王子側は多少の非を受け入れることになろうが……そこでレオ・スプランドールが『元々は第一王子に勇者の力を与える予定だったらしい』とでも言ったならば、むしろ、第一王子側への攻撃材料が増えたとして喜ぶだろう。
そして、フェル・プレジルと第三騎士団。……むしろ、ここが最も難しいところであった。
何せ、フェル・プレジルは良くも悪くも中立である。彼を動かすものは利益ではなく、正義。誰かの勝利ではなく、王国の安寧。人間にとっての正義も人間の国の安寧も望んではいないアレットにとって、最も絆しにくい相手であった。
……だが、『盗み聞き』の内容をほぼそのまま明かせば、ある程度の信用を得ることができたらしい。能力の高さは正義を求める者にとって評価に値する点、ということだろう。
そして何より、『第一王子が第三騎士団に毒を盛ろうとしている』と伝えることによって、中立のフェル・プレジルを第二王子側へと傾かせることができた。ひとまず第一王子という共通の敵が居れば、そこに向けて力を合わせて突き進んでいくことも十分に可能である。
また……アレットは、折角なので、ここでアシル・グロワールをダシにさせてもらうことにした。
「……というわけで、王妃様に嫌われてしまいました」
「お、おお、そりゃあ……」
例の倉庫でフェル・プレジルへの報告と情報交換を行っていたアレットは、酒を飲みながら話を聞くフェル・プレジルにそう、漏らした。
「騎士団長殿のお役に立ちたいとは思うのですが、やはり、出自の分からない傭兵、というのは王城にとっての邪魔ですよね」
あくまでも、寂し気に、少し落ち込んだ様子で。まるで可憐な花が萎れているように振舞う。……フェル・プレジルは中立で正義感が強く、そして、どうせ世話好きであろう。ならば、世話をさせてやればよいのである。
「ですが、騎士団長殿のご迷惑にはなりたくないのです。だから私は殿下のお傍にいない方が良いと思うのですが、殿下はそうお望みではないご様子で……私は一体、どうするべきなのか……」
アレットがそうして萎れていると、フェル・プレジルは少々慌てた様子で酒を呷り……何やら神妙な顔で、助言を始めるのである。
「お前は能力も高い。まさか第一王子の部屋を盗み聞きしてくるとは思わなかったしな。少なくとも、俺にはできない。だから、第二王子殿下にお仕えしたいっていうなら、そうした方がいい。王妃様が何と言おうともお前を手放したくない、っつう殿下の気持ちは分かる」
フェル・プレジルは年長者としてか、そのような分析を行った後、また酒瓶の中身を呷り……そして、にや、と笑って、アレットを少々小突いた。
「なあ、フローレン。お前の気持ちはどうなんだ。アシル殿下の傍に居たいんじゃないのか」
「それは……勿論、そうです。お傍にお仕えして、お助けしたい。けれど、私が足手纏いになってはいけないとも、思っています」
「だが、お前を傍に置いておく利点っていうのも十分にあるだろ?そもそもお前は城のあちこちと仲がいいじゃないか。だから、お前を雇っておくことは、アシル殿下にとっても城内の印象を向上させる効果が見込める。お前が殿下の傍に居て、悪いことばっかりじゃないさ!」
フェル・プレジルは如何にも気のいい様子でアレットの肩を叩くと、安心させるように笑いかけてくる。
「それに元々、貴族連中は第一王子派が多いから。あんまり気にするな。あいつらの評価を得てもしょうがないさ。むしろ、お前が傍にいることで民衆からの覚えは良くなるだろうしな」
「……ありがとうございます。少し元気が出てきました」
アレットは少しだけ明るくなった表情で笑い返す。
「どのみち、騎士団長殿がお選びになることですから……騎士団長殿の望むままに、任務を全うしようと思います」
「うんうん。そうすればいい」
フェル・プレジルは自身の助言とアレットの反応に満足したらしかった。
……こうして他者を助ければ助ける程。他者の事情に踏み込めば踏み込む程。そちらへ肩入れしたくなって、中立ではいられなくなる。正義感が強く気のいい第三騎士団長は、こうして徐々に、『フローレン』へ入れ込んでいくのであった。
……一方、その頃、ソル達は。
「はあ、全く……結構、面倒だったな」
ソル達は神殿の中に居た。『最後の神殿』であるはずの、王都地下の神殿である。
そこは静まり返って、神聖な気配に満ちていた。
……ここまでで酷く傷つき、疲れ果ててきたソル達を、そっと、包み込むように。