蝙蝠の反逆*1
魔王が負けた。
王都も陥落し、人間が魔物の国を支配するようになってもう3年が経つ。
それでも彼らは生きている。
虚しさの中に、憎悪を抱えて。
これは、勇者に魔王が負けた後の、魔物達の復讐の話。
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第一章:反逆
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ひやりと冷えた灰色の朝。ぼんやりと煙る街並み。廃材が積まれた路地を忙しなく行き交う者達は疲れ切っており、汚れた石畳の隙間に咲く小さな花になど目を留める余裕もない。
遠くから聞こえてくる人間の怒声を聞きながら、アレットは1人、傷みかけた粗悪な果物1つをゆっくりと食べ終える。
そしてアレットは足元の花を踏み躙って立ち上がった。
今日も生きるために。
アレットは限りなく人間に近い姿をしている魔物である。
背に生えた蝙蝠の翼さえ服の中に隠してしまえば、人間の少女とどこも変わりがない姿となる。
強いて言うなら柘榴石のような深い赤色の瞳は少々珍しいらしいが、人間だって千差万別の見た目をしているのだ。アレットが人間に化ける上で、この程度はまるで問題が無かった。
耳の後ろで2つに分けて結った少々跳ね気味の黒髪を揺らし、服の裾をぱたぱたと靡かせて、可憐な顔に笑みを作って、人間が住む地区を駆けていく。
いつも通り、すれ違う人間に愛想のいい笑顔で挨拶しながら行けば、人間は誰一人として、彼女の正体に疑問を抱きなどしないのだ。
そうしてアレットは一軒の建物の前へと到着すると、扉を控えめに叩く。
「おはようございます。アレットです」
声を掛ければ、やがてガチャリと扉が開き、中から人間が出てくる。
「よお。朝早くからご苦労だな。今日もよろしく頼む」
人間ににこりと微笑むと、アレットは早速、荷馬車へと向かった。
「今日の配達はこれで全部ですか」
「ああ。行き先はいつもと同じだ」
「分かりました。それじゃあ早速、出発しますね」
馬車の荷物を確認すると、アレットは早速、厩へと向かう。
……厩には、魔物が数人、繋がれている。
同胞が家畜のように扱われ、働かされていることを、アレットはよく知っている。そして、厩の同胞達がアレットのことを良く思っていないということも。
今も、自分達を『使う』側として現れたアレットのことを、魔物達は憎悪と嫉妬の入り混じった目で見ている。彼らとて、アレットの事情は分かっている。だがそれでも、やり場のない感情はこうしてアレットへ向かうのだ。
……その内の一人だけは、別だったが。
「アレット先輩!今日も西の開拓地ですか?」
「うん。そう。……パクス、お願いしてもいい?」
「勿論!よろしくお願いします、先輩!」
顔を輝かせてアレットに声を掛けてきた青年、犬の魔物であるパクスは、アレットの職場での後輩だった。
敗戦後も彼は未だにアレットを先輩と慕い、このように接してくれている。それがアレットにとって、数少ない心の支えとなっていた。
アレットはパクスを繋ぎ止める枷を外し、彼を連れて厩を出る。
……人間の目がある間は、それらしく振る舞わなくてはならない。アレットは自分より大きな体躯のパクスを少々ぞんざいに扱いながら荷馬車へと繋いだ。
「手際のいいことだなあ。そいつ、アレットが扱う時だけは大人しくしていやがる。何かコツでもあるのか?」
「うーん、あんまり引っ張りすぎないようにしていますけれど、それくらいかなあ」
人間にはその気はないだろうが、監視の前だ。ボロは出さないよう適当に流しながら、アレットは御者台へと乗り込む。
「それにしても、お前も若いのに災難だな。こんな植民地送りにされるなんて」
「それはお互い様ですよ」
ちなみにアレットは今年で齢120歳となった。魔物の中では若輩であるが、それでもこの人間の方が間違いなく『若い』であろう。だが、人間には魔物の年齢が分からないらしい。『若い』と言われる以上、アレットはそういうものとして振る舞うことにしている。
「戦争は終わったんです。私みたいな傭兵崩れにも仕事があるだけ、ありがたいって思わなきゃ。……それじゃあ、行ってきます!」
アレットは可憐な微笑みを浮かべると、パクスに軽く鞭を振るい、馬車を出させた。
町を出るまでは、我慢しなくてはならない。人間の目があるかもしれない場所で、アレットが魔物を労わるような素振りを見せてはいけない。そうすることでアレットは人間に化けおおせることができ……結果として、魔物の同胞達を救うことができる。
パクスと会話するでもなく、馬車を進めていく。
馬車は重いはずだ。人間とは比べ物にならない力を持つ魔物にとっても、そう軽いものではない。
それを牽引させていることを只々申し訳なく思いながら、アレットはその間、町のあちこちから自分へ向けられる侮蔑の視線に耐えている。
……『人間なんかのふりをして』。『仲間をあのように扱って』。『やはり蝙蝠など信用できない』。『恥知らずめ』。
ひそひそと囁く魔物達の声を聞きながら、ただ、アレットは御者台の上で前を見つめていた。
パクスがそっと、速度を上げるのが分かる。彼はアレットが向けられる囁きや視線から少しでも早く逃れられるよう、いつもこうして気を遣ってくれていた。
……皆、分かってはいる。アレットがこのように人間に化けている事情も、その合理性も、分かってはいるのだ。犬には犬の、竜には竜の、蝙蝠には蝙蝠の戦い方がある。それは皆、分かっている。
だが……自分達の身に降りかかる理不尽の中で、誰もが疲れ果てている。
ただ、それだけのことなのだ。
「……そろそろいいかな」
町を抜けたアレットは、周囲の気配に感覚を研ぎ澄ませ、人間の目が無いことを確かめる。
そうして誰も居ないと分かると、さっさと御者台から飛び降りた。いつまでも自分をパクスに牽かせている訳にはいかない。
「先輩、乗っててくれてもいいんですよ?大した重さじゃないんですから」
「だったらパクスが乗っててくれてもいいけれど?大した重さじゃないんだから」
アレットはパクスと並んで馬車を牽く。馬車はそう軽くはないが、2人で牽けばそう負担でもない。
ここから西の開拓地までは四半日程度の道程だ。その間の大半を、アレットはこうしてパクスと共に進むことにしている。
「いやあー、俺は重いですよ?先輩みたいに空を飛ぶ者でもないし」
パクスの言う通り、彼は『大した重さじゃない』訳ではない。柔和な青年ではあるが、地を駆る者である彼の体躯は鍛えられ、それなりのものとなっている。
逆にアレットは、そんなパクスからしてみれば十分『大した重さじゃない』と言えるだろう。背中に隠した蝙蝠の翼は飾りではない。小柄で華奢な少女の体は、空を飛ぶ魔物特有の軽さを備えたものだ。
「俺、ソル隊長にだってしょっちゅう『重い重い、圧し掛かるな』って言われてたなー」
「あはは、あったねえ、そんなことも」
パクスと並んで昔の話などしながら、アレットは笑う。懐かしく温かく、楽しかったあの時はもう二度と戻ってこない。だからこそ時々はこうして思い出さなければ、今の冷たく乾いた日々に押し潰されてしまいそうだった。
「……ソルは、皆は……元気かなあ」
「……元気ですよ。絶対に元気です」
今と昔とを照らし合わせないように、2人はまた、馬車を牽いて歩く。西の開拓地が近くなるまではしばらくこのままだ。
だが、休憩を挟まずとも、2人はそうは疲れない。人間には動かせないであろう重さの馬車を動かし、それを半日牽いていることができるのだ。
何故なら2人は、魔物の戦士なので。
魔物は人間とは違い、多かれ少なかれ魔法を使うことができる。
その中でも特に魔法に適性がある者は体内に魔法を循環させて人間を遥かに凌駕する力を発揮し、体外にすら魔法を放出して人間にとってあり得ない事象を巻き起こすことができる。
だが当然、全ての魔物がそうであるわけではない。大半の魔物はその魔力を、劣悪な環境に適応し、生活するために使い果たしている。
戦うことに魔力を使えるほど魔力を多く持つ魔物は、そう多くない。ましてや、武器を持つ人間に素手で挑んで勝てる魔物は、ほんの一握りだ。
アレットもパクスも、かつては王都を守る兵士であった。戦うことができる。今までに何人もの人間を殺し、仲間達を守ってきた。そうして皆で生き残ってきたのだ。
だが、大半の魔物達は……アレット達がかつて守ってきた多くの民達、幼い子供達は、そうではない。
魔物達が今こうして人間達に統治されているのは、戦える者があまりにも少ないという理由に尽きる。多くの魔物達が、先の戦いで勇者によって殺されたのだ。生き残った戦士はそう多くない。そう多くない戦士達では、王都に居る全ての魔物達を救うことなどできない。
であるからして、動けない。
人質に取られている仲間達も多く居る。人間達は新たに生み出した『銃』なる武器を装備している。いくら戦士でも、1人でこの状況をひっくり返すことはできない。
そして何より……魔王が死んだのだ。
魔物達に力を与えていた魔王が死んだことにより、魔物達は大幅にその力を減じさせている。
魔王は死に、後継者たる姫君もまた、行方不明。魔物達は魔力も士気も大きく失って、今の生活に甘んじている。
先細っていく未来を見つめて、どうすることもできずに。日々の疲労と虚無感に苛まれながら。
……アレットもまた、その1人である。
「……先輩。今年の冬はどうですか?」
「うーん……フローレンにも聞いてみるけれど、ちょっと、厳しいかもしれない」
2人は会話しながらふと、この先のことを口に出す。
楽しい思い出話だけをしていたいものだが、そうもいかない。考えるべき事は山のようにある。目下の問題は、魔物の国特有の長く厳しい冬をどうやって越すか、というところである。
「やっぱり食料がどうしても足りないと思う。物資もできればちゃんとしたものが欲しい。毛布がもう少し、あればいいんだけれど」
「……俺達が今、運んでる分だけでもあれば、違いますよね」
「そうだね」
ちら、と、アレットとパクスは荷馬車を振り返る。そこに積み込まれているものの多くは、人間の国から運ばれてきた物資だ。上等な毛布や防寒具の他、開拓地で工面するのが難しい加工品の類が多い。
「いつかは……やらなきゃいけなくなるかもね。そう遠くないいつか、だけれど」
アレットがそう零すと、パクスは表情を厳しくしつつも頷いた。
どのみち、このままではいけないと分かっている。先細っていく未来の果てにあるものは魔物の死でしかない。ならば。いずれ死ぬのならば、せめて。
「……人間達は俺達が死んでも何とも思わないんですもんね」
「そうだね。『私達に棺は必要ない』。でしょ?」
人間は魔物のことなどまるで考えていない。搾取するだけ搾取して、死んだら死んだでそのまま放っておけばよいと考えている。
そう。アレット達、魔物に棺は必要ない。魔物など弔う必要はない。人間達はそのようにしているし、アレット達として、仲間の亡骸を丁重に弔う余裕は無いのだ。
「あーあ……先輩。もし『やる』時には絶対に、俺のことも巻き込んでくださいね?」
「まあ考えておくよ」
憎悪と決意に表情を険しくするパクスを見て、アレットは少しだけ、安堵する。
絶望しているよりは、憎悪を滾らせている方が余程健全だ。死にたいと思うよりは殺したいと思う方が健全だと言っていたのは誰だったか。ソルが言っていたんだったかな、などと思い出しながら、アレットは薄く笑う。
憎悪は何も生まない、などと聞くこともある。だが、結局のところ、今のアレット達を支えているのは仲間達を想う心と、それすらも塗りつぶしてしまいそうなほどの憎悪である。
この心がある限り……人間への復讐を諦めずに居る限り、アレット達は生きていられるだろう。
そうして半日弱の行程を経て、アレットとパクスは西の開拓地が見えるところまでやってきた。
ここでは土地を拓き、人間の為の食料を生産している。魔物の為の食料は不足しているが、これからより一層増えていくらしい人間の為の食料の生産が優先されているのが現状だ。
今日もアレットの食事は傷みかけた果物1つだったが、それすら口にできない魔物は少なくない。パクスは労働に使われている分、多少はマシだろうか。
「先輩。そろそろ乗ってください。人間に見つかっちゃう」
「うん……じゃあ、悪いけれど」
「それは言いっこなしですよ。よーし、じゃあのんびり行きますか!」
開拓地にも人間は居る。奴らに見つかっては事だ。アレットは馬車の牽引をパクス1人に任せ、御者台に乗る。
ごとごとと鳴る荷馬車に揺られ、冷たい秋風に吹かれながら、アレットはただ前方を見据えて御者の役に徹した。
開拓地に到着してからの仕事は単純だ。王都でもそうだったように仲間達から侮蔑の目を向けられながら、人間達が住まう建物まで馬車を動かし、そこで人間といくつかやり取りをして、積み荷を降ろす。難しい仕事ではない。
「アレット!こっちも積んで帰ってくれ!」
「はあい!……うわあ、重いですね。何が入ってるんですか?」
「リンゴだ。やっと収穫できたからな」
重い木箱が幾つか積み上げてあるのを見て、アレットは『これが魔物の食料だったら』とふと思う。だが考えても虚しいだけだ。
革手袋を嵌めた手に力を込めて木箱を運べば、人間達は『中々やるなあ』と口笛を吹く。『これでも傭兵上がりですから』と笑って答えればそれ以上、特に怪しまれることはない。人間の若い女がどの程度の重さまでなら持ち上げられるか、アレットは既に知っている。人間に化けおおせているアレットに抜かりはない。
そうしてリンゴの木箱や麦の麻袋を荷馬車に積み込んだら、アレットはさっさと御者台に戻る。
「ところでアレット。お前、飯食ってるか?」
人間の問いかけにアレットは小首を傾げて微笑んで答える。
「朝はちゃんと食べましたよ。でもお昼は持ってくるの忘れちゃいました」
「しょうがねえなあ。じゃあ、これ持ってけ。帰りの馬車で食えばいい」
すると、人間はアレットに紙包みを1つ、投げて寄越す。それを受け取って中を確認すると、そこには小ぶりなリンゴが1つと、パンに肉や野菜を挟んだものが入っていた。
「わあ、ありがとうございます!」
満面の笑みで礼を言うと、人間達は『いいってことよ』と笑顔で返し、その後ろで働いている魔物達は冷たい目を向けてきた。
アレットは魔物達の目から逃れるように、荷馬車を発進させる。パクスもまた、アレットに応えるように素早く荷馬車を牽き始めた。
「じゃあ、また来ますねー!」
アレットは人間達に愛想良く手を振ってやりながら開拓地を後にした。
……そして、開拓地の人間達からはもうそろそろ見えなくなるだろう、という距離でアレットは先程の紙包みを開けてパンを2つに分け、分けた内の小さい方をさっさと食べてしまう。続いてリンゴを綺麗に半分に割った。歪な形のパンとは違い、リンゴは綺麗に分けないとパクスが気づいて遠慮するのだ。
そうして食料を分けてから御者台を降り、半分のリンゴを齧りつつパクスに紙包みを差し出す。
「はい、パクスの分。半分こね!」
「うわーい!ありがとう先輩!うわー、肉入ってる!やったー!」
無邪気に喜ぶ後輩を可愛く思いつつ、アレットは馬車の積み荷に思いを馳せる。
「今日は何をくすねてやろうかなあ」
明日まで生きる為の方策に思いを馳せながら、アレットは歩を進めていく。
……彼女は蝙蝠だ。器用で身軽で、卑怯者。
仲間達にそう蔑まれ、罵られても、アレットの性質がこの時世を生き抜くに適したものであることに変わりはない。だからアレットは、魔物と人間の間を行ったり来たりしながら上手く生きている。
それでも彼女は魔物である。背の翼を、自らの誇りを忘れたことなど有りはしない。
だからこそ、生きるのだ。生きて、生きて……その『先』を目指す。
全ては、魔物達の為に。
いつか来る、反逆の時の為に。