5.5.4 井に坐して天を観る
空だ。
意識を取り戻したとき、そう思った。
どこまでも、青が続いている。
僕は死んだのだなと思った。
いつもなら、ここで少年神が出てきて……いや、違うな。その前に部屋があるんだ。真っ白な椅子に真っ白な机、真っ白な壁、真っ白なカーテン、そして青い空。
けれど、在るのは一面の深い青だけだった。
僕はずっと浮遊感に包まれている。
いつまで経っても、少年神は現れない。
「神様!」
呼んでみたが反応はなく、そこには瑠璃色のような深い青が在るだけだった。
父はひどい目にあっていないだろうか。クヌートは、グロリアは、カルラは無事だろうか。
「神様!」
何回か呼んでみたところで、それは変わらない。
しかし――
『白き炎を持つ者よ、ここにはお主が崇める神などおらぬ』
声が聞こえてきた。声が頭の中に流れ込んできた。
『ヒトの神など、ここにいようものか』
『神などおらぬよ』
いくつもの声が同時に聞こえてきて、それはやはり頭の中に直接流れ込んでくるようだった。見回せば、そこにはいくつかの黒い炎が揺らめいている。
「……ケモノか!」
『落ち着き給えよ、神の従者。いや、観測者と呼んだ方がよいのか? いずれにしてもこれも縁だ。我々と少し話をしようじゃないか』
その提案には構わず、シクロを顕現させてリボルバーから弾丸を発射した、はずだった。けれど弾丸は出ず、黒い炎もそのまま。そもそも黒い炎のケモノなどいるのだろうか。
『無駄なことを』
『無駄だよ。ここは表と理が違う』
『お主の武器はここでは使えぬ。諦めるがよい』
「……それで? 僕と茶飲み話でもしたいのか? ケモノの癖に」
『それも悪くない提案だが、まず、お主の認識の訂正からだ。我々はケモノではない』
「では、なんだというんだ?」
『そうだな。我々は自分たちのことをこう呼んでいる。ブルンスフォンゲと』
『我々はブルンスフォンゲ』
『これからはブルンスフォンゲと呼んでもらおう』
「じゃあ、そのブルンスフォンゲは、いったい僕に何の用があるって? それにここはどこだ?」
『特別な用などない。話し相手が欲しかっただけだ。場所については最後に教えてやろう』
『我々はお主と話がしたいだけなのだ』
『我々と存分に話し合おうではないか』
話がしたい、話し合おうなどと言われても、ブルンスフォンゲとやらは何を話したいのか伝えてこない。これではいつまで経っても話が始まらないではないか。
『ときに、お主はこの世界がどのような形をしているか知っておるか?』
やっと話が始まったことに僕は安堵する。
けれど、彼らはどうしてそんな当たり前のことを話題に選んだのだろうか。そんなことは学校で習うことで、よほどのことでもない限り、みんな知っている。
「球体だ。世界は丸い」
『ほう。それが表の常識か』
「その通りだ。何百年もかけて、天体の動きや色々なことを計測して、球体であることを確定させた、というのが常識だ」
『それが間違っているとは思わないのかね?』
「確かに世界の形は球体ではなく平面であると主張する人間もいるが、それは観測結果から否定されている。実際、僕も天体観測のデータから、球体で間違いないだろうと思っている」
『では、お主らが見ている天体の動き、あるいはヒトが見ている事象、それそのものに疑問を持ったことは?』
「何を馬鹿な――」
『この世界の形は円筒だ。それが我々ブルンスフォンゲにとっての真実だ』
否定が出来ない。否定しきれない。
『我々は、円筒形の世界に閉じ込められている』
『我々の住まう円筒形の世界こそが、原始の世界であり、本来の世界の形なのだ』
『本来の世界は常に混沌として、不確実で不確定だ』
『円筒形の世界は、何もかもが確定していない。我々の存在すらも』
『遥かな昔、この世界には我々しか存在しなかった。やがてヒトがどこからか現れ、この世界を恐れた。ゆえに集まり、神を作り出し、神の名のもとに、神の観測により、世界を確定させていった。世界はこうなのだと確定させた』
『ヒトは混沌を恐れたのだ』
『ヒトは不確定なものを恐れたのだ』
あちこちからいくつもの声が飛んでくる。これは話し合いではない。ただの一方的なお喋りで、しかし僕は、彼らの言葉を遮りもせずに受け入れ続けた。
『確定した世界は徐々に我らの世界を塞ぎ、円筒形の檻をなした』
『我々はヒトの感情からケモノが生まれるよう、表の世界――確定世界の理に外典を埋め込み、ヒトに対抗しようとした』
『ケモノは不確定の穴を拡大させる』
『しかしそれすらも、ヒトが生み出したシェストの神によって妨害された』
『そればかりか、得体の知れぬ者に利用される始末だ』
『我々は閉じ込められたのだ』
『我々は不幸だ』
『我々は檻を破壊しなければならない』
『我々とこの世界は、本来の姿に還るべきである』
『そして我々は再び自由を手に入れる。混沌という名の自由を』
「そのための、更なる楔が大琉璃花だったと?」
『そうだ』
『よくぞ気付いた』
『あれはシェストの神を否定する新たな神として、我々が確定世界に表出させたものだ』
『計画はうまくいった』
『しかし、最初だけだった』
『もっともらしい神のフリをして、シェスト教を否定させるところまでは順調だった』
『ヒトの願いによって、あれもまた神になったのだ。偽物の神から本物のヒトの神になったのだ』
『ヒトの多くは混沌を望まぬ』
『我々はまだ諦めていない』
『いつか、きっと』
「どうして僕にその話をした?」
『言っただろう? 世界は観測によって確定していると』
『世界の真なる形を知る者が増えれば、世界の確定は崩れる』
『お前には期待しておるぞ』
黒い炎が小さくなっていく。
「待て。ここがどこか、まだ教えてもらってない」
『ここは世界の底だ。ではまた会おう』
黒い炎が消えていく。
どこまでも深い青色が、どんどん色を失っていく。
やがて僕の周りは闇だけになり、気が付いたときには、木々の隙間から空を見上げていた。
「青い……」
立ち上がり、周囲を見回す。周りは深い森。遠くには湖のようなものが見えた。あの湖には見覚えがある。セルハンの記憶の通りなら、あれはサンファン湖だ。
オイレン・アウゲンが展開されている。オイレン・アウゲンにオオカミ型のケモノが無数に映り、僕を取り囲んでいる。
「廻れ、リィンカーネイション」
二重の声と共に、僕の手元に無数の多角形が現れて、それは細剣とリボルバーを形作る。
同時、ケモノが襲いかかってきた。近いものから一斉に。
弾丸を放ち、細剣を振り回して、僕は一つ一つ滅していった。
ああ、神様。僕はこの先、どうしたらいいのでしょう。
ああ、神様。僕はいつまで彷徨えばいいのですか。
ああ、神様。真実はどこにあるのでしょうか。
神様、たまには顔を見せて、話を聞かせてくれたっていいじゃないですか。
ケモノはあと何頭いるだろうか。
オイレン・アウゲンに映るケモノの数に無心でいられなくなったとき、周囲の景色が白く染まり、時が止まった。
―― 第5章 坐井観天 完 ――
第6章に続く
第5章 あとがき
おはようございますこんにちはこんばんは。
作者の津多 時ロウです。
このたびは『転生のおと』の〝第5章 ― 坐井観天 ―〟を最後までご覧頂きまして、誠にありがとうございました。
今回の半兵衛くんの旅はいかがだったでしょうか。『紫黒の乙女』に近づけた第4章と違って、ほとんどアクションがなかったものの、半兵衛くんの心の世界には踏み込めたかなと思っております。
さて、思わせぶりに終わった第5章ですが、第6章の予定は未定です。生きているうちに必ず完結させたいと思ってはおりますが、集中して取り組みたい物語がありますので、いつも通りに設定としては完結にいたします。第6章公開の折には、どうか足をお運び頂ければ幸いと存じます。
あ、そうそう。
章タイトルの「坐井観天」の読み方ですが、「せいにざしててんをみる」だそうです。四字熟語だと思ったら漢文でした。意味は、井の中の蛙、といったところでしょうか。
そんな豆知識を最後にして、第5章あとがきを終わらせたいと思います。
あらためまして、第5章を最後までご覧頂き、誠にありがとうございました。
二〇二五年九月吉日 津多 時ロウ




