5.5.3
翌朝、小屋の中は静かだった。何かを書いている音、食事の音、食器を片付ける音が聞こえる。それでも話し声は昨日よりも多かった。
父を除いて。父は椅子に座って、窓の外をじっと眺めて、そして俯き、そしてまた窓の外を眺める。それを何回か繰り返した後、徐に立ち上がってドアを開け、表に出ていった。
「父さん」
クヌートが呼びかけるも、父は振り向かずにスタスタと歩いていってしまう。僕はクヌートと頷き合った後、父を追いかけた。
声はかけない。
父の背中はこんなに小さかっただろうかと、またそんなことを思いながら僕は歩く。
昨日まで大琉璃花が在った場所は、瑠璃色の残骸だけが積み重なり、そこに花のような何かがあったことなど、とても分からない。
その場所を横目に通り過ぎる。父は恐らく見てもいない。向かっている方角は恐らく西。そこには何があっただろうか。あとどれくらい、父は背中を丸めて歩き続けるのだろうか。
「父さん」
声をかけてみたが、やはり反応はない。
そうして二十分くらい歩いた頃だろうか。茫とした真っ青な湖が眼前に広がり始めたのは。
父が小石の散らばる湖畔に座り、僕も隣に腰掛ける。それでも父は気付かずに、ただ景色を眺めているようだった。
「父さん」
父が驚いたような顔でこっちを見る。
「なんだ、スヴァンテ。いたのか」
「うん」
父はまた、黙って青い湖面を眺めていた。
「ここ、バッケ・ブロ・ノドだろ」
「そうだ」
水が青いのだろうか。湖底が青いのだろうか。それとも空が青いせいだろうか。透明度が高い癖に、この巨大な湖の水はどこまでも青く澄んでいる。
「父さん、残念だったね」
「ああ」
このままゆっくりと時間が過ぎていくような、そんな気がする。
だが、それは何人もの足音と怒号によってかき消された。
「トシュテン、トシュテンはいるか!」
大きな声のした方を見れば、ミーネ・リンドベリが着ていたような、青い前合わせの服を着た男たちが、恐ろしい形相でこちらへ向かって歩いてくるではないか。先頭の男は口の周りから立派な白いヒゲを生やしていて、立派な体格と相まって、只者ではない雰囲気を漂わせている。そうだというのに、父はゆっくりと立ち上がって、ゆっくりと口を開く。
「やあ、これは長老。お久しぶりです。なにかあったんですか?」
「なにかあったどころではない! 貴様、大琉璃花に何をした!」
「何もしていませんよ。仮に何かしたとしても、私が大琉璃花を粉々にできるわけないでしょう?」
「そんなことは聞いておらんわ! ところで隣の若いのは誰だ? お前のところの倅か?」
纏う雰囲気が全く異なる二人の横で、僕はひとまず成行きを見守っている。二人の距離は二十歩ほどは開いているだろうか。男はどうやら父の知り合いで、|フォルカフ・ブロ・ブロモル《青の民》のどこかの氏族の長老なのだろう。しかし、供の者を五人も十人も連れてきたのは、いったいどういうことなのか。まさか本当に、トシュテンが大琉璃花を壊したと思っているのだろうか。
「息子のスヴァンテだ」
「お主、倅の一人は、遠くに行って戻ってこないと言っていたではないか!」
「それがつい一昨日、こっちに顔を出してくれたんだ」
「つまりよそ者か!」
「うん? まあ、そうなるかな」
「では、こいつが大琉璃花に穢れを持ち込んだのだろう! お前たち! こやつらを連れていくぞ!」
「い、いや、待って下さいよ。どうやって私たちが大琉璃花を壊せるっていうんです」
「ふん! 白葦の者は怪しげな術を用いて島を閉じたというじゃないか。我らの大琉璃花も、外つ国の術で破壊したのだろう」
父が長老に一生懸命説明しているようだが、お供の一人が間に割って入った。次には、父に近づこうと足を踏み出す気配がして、僕もそこに入り込んだ。シクロを顕現させて。
「父さん、逃げて!」
トシュテンが逃げたかどうかも確認せず、僕は目の前の男の頭にスモールソードの腹を叩きつける。もちろん、瞬間的に重くして。男は気絶して倒れたが、はてさて、ここは相手の命を取るべきか。
答えは否だ。父は今後も大琉璃花の研究をしたいに決まっている。そのときに血なまぐさい噂は邪魔なのだ。
二人目の男が僕に近寄ってきた。丸腰だ。そのような相手に剣を振るうのは気がひける。左手のリボルバーから男の足元に弾丸を放つと、男は怯んでそれ以上近寄ってこない。
「離せ! やめてくれ!」
悲鳴にも似た父の声が聞こえてきた。視線をやると、屈強な男の肩に父が担ぎ上げられているではないか。父は必死に暴れているが、戦闘訓練など受けていないだろうし、年齢が年齢だ。男の体はビクともしない。
だから僕は、左手のリボルバーをそいつに向けた。
しかし引き金を引く直前、重い何かが僕の横っ腹にぶち当たった。
僕の体が浮き上がる。状況を把握できない。目まぐるしく景色が動く。
そして僕は宙を舞った。
視界の端で、二人の男が手を上げているのが見えて、僕はこの二人に投げられたのだと理解する。
反射的に体を丸め、衝撃に備えた。
しかし、僕の体は地面に当たらなかった。
ドブンと音がして、周りが途端に青く染まる。
すぐに状況を理解した。
浮き上がらなくてはならない。早く父を救い出さなければならない。
口を閉じ、手足で水を掻いて脱出を試みる。
何かに足を掴まれた。
何かに腹を掴まれた。
何かに腕を掴まれた。
何かに首を掴まれた。
何かに頭を掴まれた。
僕が、沈んでいく。
どこまでも深い青の底に。




