5.5.2
僕の視界の中では、父と弟が大琉璃花から何やら削り出している。カルラはどこからか持ってきた折りたたみ式のイスに腰掛けていた。
長閑な景色の中で、グロリアが大琉璃花を見ながら、僕に語り掛ける。
そうしてグロリアが話してくれたことは、概ね予想通りだった。
曰く、白渡りで神と出会い、〝スダハンベエ〟なる魂の容れ物とするために、スヴァンテ・スヴァンベリを殺害せよ、と。誰にも言えず、さんざん悩んだ挙句に、彼女は神の御心に従うべきだと自分を納得させて、犯行に及んだのだという。しかし、殺したはずのスヴァンテ・スヴァンベリは、一命を取り留めたではないか。これは神の使命を果たしていない、しかし殺すのはやはり嫌だと、再び彼女は深く悩み続けた。結果、彼女はヴェヒターを退き、けれど使命を果たすことを諦めきれず、あの夜、仕掛けてきたと、こういうことだったのだ。
一度、空を見上げながら深呼吸をする。
空は高く青い。
雲は白く高い。
大琉璃花は、まるで空の青のすべてを吸い込み、それを凝縮したように、いっそう深く輝いている。
僕はゆっくりとその瑠璃色に近づいていく。偶然か、必然か、グロリアもカルラも、同じタイミングで近づいていく。
右手を伸ばし、触れた。
オイレン・アウゲンに映る像がざわめき、揺れた。
ノイズが僕を飲み込む。
膨大な量のノイズが僕の体を埋め尽くす。
時計の秒針の音が聞こえる。
軋むように音を奏でるノイズの中に、誰かの記憶が見えた。
血まみれで倒れている女性が見えた。
フルフェイスのヘルメットを被り、拳銃をこちらに向ける男が見えた。
僕は、商品補充で手にしていたミネラルウォーターをそいつにぶん投げる。頭に血がのぼっている。手足に沢山の血液が流れ込んでいる。心臓が速い。
ミネラルウォーターは男の体に命中したが、そいつは少し呻いただけだった。
銃口が火を吹いた。
僕は一瞬目をつむる。
どこも痛くない。当たっていない。
再び目を開いたその先で、男が再び女性に銃を向けようとしていた。血まみれで床に倒れる女性に。
体が勝手に動いた。
女性は晶子姉ちゃんだった。
男と晶子姉ちゃんの間に滑り込もうとする。男がスローモーションで動く。男に迷いが見え、そして銃口は僕に向けられた。
乾いた音が響く。
少し遅れて薬きょうが床に落ちた音が響く。
体から、体温が流れ出ていく。
それは止まることなく勢いを増していき、そうして僕は、どこまでも続く闇の中でたくさんの光に包まれた。
「お、おぉ……」
誰かが嗚咽を漏らしていた。
誰かが声を押し殺して泣いていた。
遠くに聞こえて、近くにも聞こえる。
どこから聞こえてくるのだろうと気配を探ったとき、パッとノイズが晴れた。
誰かの声にならない泣き声は、まだ聞こえている。
声のした方を見ると、膝に顔をうずめたカルラがいた。
その向こうには顔を歪めたまま固まっているグロリアがいて、クヌートが心配そうに二人を見ていた。父は大琉璃花から削りだした欠片を盛んにルーペで観察していて、この状態に気付いてすらいないようだった。
僕はカルラに近寄り、ごわごわした、しかし小さい背中をさする。
「カルラ、何か見たんだな?」
カルラは怯えた目で黙ってうなずいて、それでも口がうまく動かなかったようで、立ち上がって大きく息を吸う。我に返ったグロリアもいつの間にかそばにいて、カルラのことを心配そうな目で見ている。
そんな中で、カルラはようやく話し始めることができた。それはいつもと違ってたどたどしいものだった。
「私、大嵐の真っ只中にいるような夢を見たの。気付いたら目の前に見たこともない兜を被った人間がいて、私、撃たれたの。ひどい雑音が聞こえてて、銃声は聞こえなかったけど、それで、それでね、私、床に倒れたのよ。とても明るい天井が見えて、でも痛みは感じなくて、それで、ああ、私、死ぬんだと思ったらとても恐くなって」
グロリアが、何度も何度も頷いてカルラの話を聞いている。
僕は黙って頷いているだけで、気の利いた言葉をかけてやることもできやしない。
『花、開く』
そのとき、声が響いた。グロリアもカルラもクヌートも、そしてトシュテンも反応していない。きっと僕の頭にだけ響いた。
それから少し後、何かが振動を始めた。空気か地面か、その両方か。
今度は四人とも反応している。僕だけの感覚ではない。何が揺れているのか。
オイレン・アウゲンに映る大琉璃花が揺れていた。その中に、何かが蠢いている。その膨大な数の何かは黒靄だった。ヒトの澱み。ヒトの負の感情。ヒトをヒトたらしめるもの。ヒトの魂ではないもの。無数のそれが、猛烈な速さでむやみやたらと動き回り、大琉璃花の輪郭を内部から変えていく。
揺れる。形が変わる。振動する。暴れまわる。
「逃げるぞ!」
僕はあらん限りの声で叫んだ。
山のように大きなラピスラズリの結晶が動いているのだ。内部から動かされているのだ。それがどういう結果になるかなんて、想像するに易い。
僕が声を張り上げた直後、ラピスラズリと成分の分からない岩の、大きな塊が僕たちのすぐ近くに落ちた。
恐怖。
地面が揺れる。空気が揺れる。体が揺れる。心が揺れる。心臓の鼓動が早くなる。
グロリアがカルラを引っ張りながら、遠ざかっていく。
クヌートは……いた。父が、トシュテンが動こうとしない。
上を見上げて固まっている。クヌートが父を引っ張りながら、懸命に声をかけている。僕は父のもとに駆け寄った。クヌートと頷き合い、二人で父の両脇を抱えて無理矢理運び出す。大琉璃花から剥がれ落ちた岩が、石が降り注ぐ。
僕は懸命に駆けた。こんなところで死んでたまるものか。岩が近くに落ちるたび、父と弟の顔を確認して、また全速力で駆け出す。駆けて駆けて、ひたすらに駆けた。
そうして岩が落ちてこないところまで無事に逃げると、大琉璃花の形はすっかり変わっていた。特徴的な五角形の花冠が無数に集まり、それが他の大琉璃花と同じようにこんもりと咲き誇っているのだ。かと思えば、次の瞬間には無数の煌めきを残し、散った。瑠璃色の塊が粉々に砕け散り、土埃を高く舞い上げる。
もう、蠢く黒靄は映らない。
父は膝から崩れ落ち、地面を見つめたままピクリともしない。
その日は、皆、魂が抜けたように過ごした。
父は口を開かず、クヌート、グロリア、カルラは必要最低限のことしか喋らない。
僕はどちらかと言えば冷静だったかもしれない。グロリアの弱々しい白炎が消え、カルラのそれが火勢を増す。そして僕の白炎は変わらない。それは本人たちも気付いているはずだが、特に気にしている様子はなかった。そもそも、昼間のことが衝撃的過ぎたあまり、どうでもよくなっているのかも知れない。
そうして夜は更けていき、満天の星空の下で、かつての大琉璃花の欠片たちが、静かに青く咲いていた。




