5.4.8
グロリア・ホルストは良き妻であり、良き母であり、善き神の僕であり、そしてイビガ・フリーデの佳きヴェヒターであった。けれど、彼女の不幸は己が信仰する神によって引き起こされた。正確なところは分からないが、帝都での一件から推測するに、彼女は白渡りを経験し、そこで使命を授けられたということで間違いないだろう。よりにもよって、スヴァンテ・スヴァンベリを殺すなどという、崇高な神の使命を。
そんなグロリア・ホルストのシクロは、まず冷えた空気が発生して氷の蔓が対象に絡まり、「咲け、スノウ・クリーパー」の詠唱と共に氷の蔓から鋭利な棘が飛び出して対象を刺す、或いは冷気の花が咲くものだった。通常、冷気や炎などの事象はシクロに付随する。それはつまりシクロが先で、事象が後に現れるのがシクロ使いの常識ということだ。しかし、彼女の場合はその順番がおかしい。かなり特殊だ。事象として空気が冷え、その後にシクロが顕現する。しかも彼女のシクロは武器の形状をしておらず、対象に巻き付いた状態で現れる。そういうことを考えると、拳銃やライフルよりもヒトを暗殺することに向いているだろう。だからこそ、神は彼女に使命を授けたのかも知れないが。
そしてその氷の蔓は、三度、僕に放たれるはずだった。
「咲け、スノウクリーパー」
冷たい空気が足元を駆け抜けた後、蔓が地面と僕の体を這う。それはじきに僕の体に棘を突き立てるものだ。或いは蔓に花を咲かせ、今以上の冷気で僕の体組織を壊すものだ。対応策としては、動き回るしかない。
否。もう一つ、対応策があった。
「眠れ、ナハト・ル――」
ケモノもシクロも滅するナハト・ルーエを唱えるはずだった。僕を囲むように出せば、僕の体に巻き付いてもすぐに消せるから。しかし、その必要がないことに気が付いて、途中でやめた。
氷の蔓が、パリパリとか細い音を立てて崩れ落ちてゆく。形を成せない、形を保てない、人体にダメージを与えるような棘を作れない、冷気を維持できない。
「咲け、スノウクリーパー……咲け、咲いて、咲いてよ、どうして咲かないの」
目に薄っすらと涙を浮かべて、懸命にシクロを出そうとする彼女の心は、もう無ではなく、何をどうやっても氷の蔓が現れることはないだろう。彼女はきっと、華那琉大陸でシクロが出せないことを知らずにここまで流れ着いたのだ。この大陸にはケモノがいないのだから、そういうこともある。
一頻り叫ぶように詠唱をした後、うな垂れて静かに涙をこぼす彼女に、いったいなんて声を掛けたらいいのか。
「グロリア、帰ろう」
結局、僕が言えたのはそれだけで、彼女は無言で頷くだけだった。恐らく彼女は、あの夜の一件で、僕から逃げてここへ来た。そして何の皮肉か、その場所には僕とよく似た弟がいた。そこへ、たまたま、本当にたまたま僕が来た。何の因果によるものか、それとも神のいたずらなのかは知らないし、どうでもいい。
ともかく僕は、グロリア・ホルストと話をしなくてはならない。なぜ僕を殺そうとしたのかを知るために。
弟のクヌート・スヴァンベリと話さなければならない。父のトシュテン・スヴァンベリと話さなければならない。なぜ大琉璃花を研究しているのか、大琉璃花とは何なのか。
グロリアの先を歩き、小屋に戻る。
きっと彼女は僕をもう殺さない。カルラ・アンジェロヴァと同じように。グレアム・グッドゲームは指示があれば殺しに来るかもしれないが、少なくともカルラと一緒にいる間は襲ってくることはないだろう。
「ただいま」
ここは自宅ではないはずなのに、小屋のドアを開け、そんなことを口走る。
「お帰り」
「お帰りなさい」
クヌートもカルラも恐らく自然とそんなことを言って、僕とグロリアに何があったかなどを聞かない。二人とも無事だったから、というのが大きいと思うが、僕がいつも通りの顔なのに対して、グロリアが露骨に落ち込んだ顔をしているから、何かを察して気を遣ってくれているのかも知れない。変な誤解をしていなければいいのだが。
「スヴァンテ、よく来たな」
遅れて声をかけてきた男を見遣る。
白髪の少し長い髪を後ろで束ね、髭を蓄えた男。
大きな傷はないけれど、顔のつくりは僕とよく似ていた。それでもやはり、深いしわがその顔には刻まれている。
「久しぶり、父さん」
実際に顔を見た途端に、スヴァンテ・スヴァンベリの記憶が僕に流れ込んでくる。元々の肉体は彼のものなのだから、最初から容易に思い出せればいいものを、なぜ鍵となる単語があるにもかかわらず、記憶を引き出せないのか疑問である。僕が言うのもまったくおかしな話ではあるが、こういうときは以前のようにスヴァンテ・スヴァンベリの人格が出てきてくれた方が、スムーズに話しができるのにとも思う。しかし、彼はもう死んだのだ。少年神の言う摂理に則れば、その魂は巡らなければならない。この肉体に留まり続けてはいけないのである。
「相変わらず大琉璃花を研究しているの?」
話しながら椅子を探し、腰掛けて父トシュテン・スヴァンベリに向き合う。
彼は青藍の大学に籍を置き、もう僕が生まれるよりも前からずっと大琉璃花を研究していたのだった。――つい先ほど流れ込んできた記憶によれば。
そして母はいない。
スヴァンテ・スヴァンベリの母は優しく物静かなヒトだったが、彼が十二歳、クヌートが九歳の頃、流行り病であっけなく亡くなってしまったのだ。父のトシュテンはそれ以来、以前にも増して口数が少なくなったように思う。それでも僕たちの養育をしっかり行なっていたのだが、スヴァンテ・スヴァンベリ少年はそれを苦痛に思っていたようだ。十五歳になり、大人と同じ背丈になった彼は外で働くことを父に告げ、その後、色々あって今ここにこうしているということになる。僕は、本物ではないけれど。
「ずっと、研究しているよ」
短い返事のあとに訪れる沈黙。父はいつも通りで、僕が言葉を探している。
話題を見つけようと視線を彷徨わせた先では、カルラもグロリアも、そしてクヌートも簡素な椅子に腰を掛け、僕と父の会話を見守っているようだった。
「ねえ、父さん」
呼びかけても、「うん」や「はい」は言わず、父はじっと僕を見たまま。それも記憶の通りだから、そのまま言葉を続ける。
「大琉璃花って、いったい何なんだい?」




