5.4.5
「スヴァンテさん、大丈夫ですか?」
カルラの優しい声が遠くから聞こえてきて、僕の五感を覆い尽くしていたノイズは消え失せた。狼狽えるように周囲を見回すと、カルラはつい先ほどと変わらぬ場所にいた。
「え? あ、大丈夫……でもないか。これは君にも話しておいた方がいいことだな」
「何かが起きたのですね」
「と言うと、そっちでは何も起こらなかったということか?」
「そうですね、何も起こりませんでした。ただ美しいラピスラズリが目の前に在るだけでした」
「なるほど。僕の方は――」
言いかけて、言葉に詰まる。果たして先ほどの光景をどうやって説明したものか、すぐには分からなかったのだ。
「過去が見えた。自分ではない誰かの過去だ」
言えたのはそれくらいで、それがもっとも適切な説明だと思った。
「もう少し具体的に話してください。例えば、音がした、ニオイがした、何かに触れている感触があった、夢を見ているようだった、というような。そして何が見えたのかも。とても大事なことなのですから」
「分からないんだ」
「何かを見たのに、それが何か分からないというのですか」
「問い詰められても困る。僕が見たものは、そう、例えて言うなら、真夜中の大嵐のときのように視界も耳もほとんど塞がれていて、そこからたまに嵐以外の何かが見えて、風雨以外の音が聞こえたと、そんなようなものだったのだから」
「そう、ですか」
表情はいつも通り柔らかいが、その口調から彼女が落胆しているのだと分かる。しかし、どう説明すれば伝わるのか、分からないのだからしょうがない。それよりも、彼女に確認しなければならないことがある。もしかしたら、そちらの方が彼女にとっては重要なのではないだろうか。
「それともう一つ、君に確認しなければならないことがある。正確に言えば二つかも知れないが、今はそれはどうでもいい」
「どのようなことでしょうか?」
「オイレン・アウゲンに、大琉璃花が映っているか?」
彼女は大きく目を見開いて、大琉璃花と僕を交互に見る。
「そんな……まさか」
しばし目を瞑り、じっとして、それからパッと彼女の瞼が開かれた。
「スヴァンベリ司祭。これはいったいどういうことですか」
「……同じか。理由なんか、こっちが聞きたいよ」
僕も目を閉じてもう一度確認する。
オイレン・アウゲンの映像には、やはり大琉璃花が存在していて、それは今までの僕たちの常識からはかけ離れたものだった。
「念のために聞くけど、華那琉大陸に上陸してから、オイレン・アウゲンは正常に機能してた?」
「ヒトの黒い靄を正確に捉えていたと思います。ケモノはまったく分かりませんが」
「では、他のプライモーディアル・ブレッシング……あ、そちらでは滅獣の理と言うかも知れないけど、それはどうだった?」
「こちらでもプライモーディアル・ブレッシングと言いますが、上陸してから使う機会がありませんでしたから分かりませんね。そういうあなたこそ、どうなのです? こちらに上陸してから、何か使ってみたのでしょうか?」
シェスト教のイビガ・フリーデ、或いはリヒト教のヴィエチニィ・クリッド。いずれにおいても使われる神の奇跡とも言うべき術が、プライモーディアル・ブレッシング又は滅獣の理である。それらの構成員であれば常時展開しているであろうオイレン・アウゲンは、ケモノを探知するレーダーであり、そして構成員が使うシクロや後述するナハト・ルーエ、ヴィエゼニ、それからヒトの負の感情であろう黒い靄をも映し出すものだった。
オイレン・アウゲン以外でよく使うものと言えば、ある程度大きなケモノを確実に還すための神の箱ナハト・ルーエくらいなものだろうか。しかし、ナハト・ルーエはケモノに対する術であり、ケモノが出ない華那琉大陸では用がない。実際、オイレン・アウゲンには、上陸以来一度もケモノの姿は映らなかった。他にはヴィエチニィ・クリッドがケモノを閉じ込めるためだけの檻として、ヴィエゼニという術を使っているのをうっかり見てしまったことがあるが、それもやはりケモノを相手にするための術であるので、ここでは用がないものだった。蛇足だが、ナハト・ルーエにはシクロを消滅させる効果があることも、グレアム・グッドゲームとの一戦で分かっている。恐らくヴィエゼニもシクロに何らかの効果があるだろうが、現状、カルラと争う可能性は限りなく無いに等しいので、そのことはいったん忘れよう。
「そうなると……試してみようか。僕はナハト・ルーエを使う。そちらは」
「ヴィエゼニを使いましょう」
「念のため、大琉璃花から離れたところでやろう」
「それもそうですね」
そうして、少し離れたところで、更に大琉璃花に背を向けて、それぞれ術を行使した。詠唱の文句はあるが、ナハト・ルーエのイメージはスヴァンテ・スヴァンベリの体に刻み込まれているし、それはカルラのヴィエゼニも同じだろう。
僕から少し離れたところには、ほのかにダークグレイに輝く立方体が音もなく現れて、収縮をイメージすると、急激にしぼんで消えた。
そのすぐ後、タイミングをみていたのだろう。「囲め、ヴィエゼニ」との声の直後、カルラの前に、サーカスの猛獣を入れておくような頑丈そうな縦格子の檻が現れた。それは見事なまでに真っ白に輝いている。かと思えば、次の瞬間には収縮するでもなく、パッと消えたのだった。
「ナハト・ルーエは大丈夫だったようですね」
「そちらのヴィエゼニも大丈夫そうだ」
「そうですね。意外ではありましたが」
「意外? どういう風に?」
彼女の意外という言葉を聞いて、僕は待ってましたとばかりに問いかけた。それは当然、僕も考えていたことだったから。
「シクロを顕現できないのは、以前にお話した通りです。私は例外的に少し出せますし、あなたはもっと例外で完全に顕現させられますが。この事象の原因は、現地に暮らす人々の信仰の違いによるものだと私は思っていたのです。信仰が弱い土地であるために、アイン神の力がこの大陸には及ばないのだと、そして信仰と表裏一体の関係にあるケモノも、そのために出現しないのだと、そう思っていたのです」
「うん。カルラの話を聞いて、そして実際にシクロのことを目撃して、僕もそうだと予想してた」
「そうでしょう。けれど、神の奇跡たるプライモーディアル・ブレッシングは使用できました。なおかつ、ケモノ、我々の極限の恐怖心たるシクロ、そしてプライモーディアル・ブレッシングが映るオイレン・アウゲンに、この大琉璃花もハッキリと映っています」
「そうだな」
「ねえ、スヴァンテ・スヴァンベリ司祭」
「うん」
「大琉璃花は、いったい何だというのでしょう」
僕は「さあ?」としか答えられなかった。何も知らないのだから、何も答えようがない。でも、もしかしたら、他の大琉璃花を調べれば、答えが見つかるかもしれないという、漠然とした期待は抱いていた。
そうして僕たちは大きな疑問を手に入れて、一つ目の大琉璃花を後にした。




