5.4.4
大琉璃花の麓にポツンとあった小屋を、僕は避難小屋だと予想したが、もう一つの可能性としては監視小屋がある。それも、鍵がかかっていなかったのだから、軍隊や治安機関のような武装した組織のものではなく、大学などの研究機関が使用しているものではないだろうか。この場合は監視小屋というより観察小屋とした方が、イメージはしやすいかも知れない。
そのように考えてみたところで、それはストンと腹に落ちたのだが、だからといって、現状が何か変わるわけでもない。分からないものは分からないままとして、というか調べてもこの小屋のことは何も分からなかったのだから、僕たちは大琉璃花を調べることを優先させなければならないし、そうすることしかできない。
「私も中を見たいのですが」
「どうぞ」
入口のドアからカルラがちょこんと顔を覗かせて、僕はそそくさと小屋の外に出る。彼女が入ったのを見届けてから、改めて小屋の外観を観察してみるが、そう言えばこれは華那琉大陸様式ではなく、他の大陸でもよく見かけるような木の小屋だなと思った。
カルラが小屋の中を歩く音が聞こえてくる中で、どうしてなのかを考えていると、カルラが窓を開けて、きょろきょろと辺りを見回した後、すぐ閉めた。恋人同士ならお互いに手を振って笑顔を向けるところではあるが、目は合ったものの、そういう気持ちにはならなかった。向こうも同じだろう。目が合ったときに、特に表情が動かなかったのだから。
だがこれで、この建物がなぜ華那琉大陸様式ではないのかが分かった。窓だ。採光か、観察か。どちらの都合かは分からないが、大きな窓が必要だったのだろう。もちろん、これが分かっても何も始まらない。僕らの目的は大琉璃花であって小屋ではないのだから。
「避難小屋というものは、確かに緊急時には助かりそうですが、通常の家として寝泊まりするのには心許ないですね」
小屋から出てきたカルラは、恐らく竃とトイレ、そして井戸がないことをそのように表現したのだと思う。確かにその通りで、この設備では長期間の監視の用には向かないと思えてきた。
「じゃあ、大琉璃花をよく観察しに行こう」
「ええ」
小屋の外に置いてあったカルラの荷物を半分持ち、彼女の速度で巨大な大琉璃花に歩いていく。空の青さとは違うこの琉璃色は、シェスト教でもリヒト教でも祭服に使われている色だ。一般的な色といえばそれまでだが、ウチテルの話を聞いた後では、また違った見方もできるだろう。すなわち、シェスト教の開祖もリヒト教の初代ウチテルも、大琉璃花の麓で大悟したのだと。
「大琉璃花の、この違和感は何でしょうか。神々しいまでに青く、美しい。にもかかわらず、周囲からは切り離されているように思えて、しかし、全体としては調和しています。そこに人知を超えた何かを感じ、畏れる。華那琉大陸に住まう民たちが、挙ってこの景色に神を見出すのも道理ですね。スヴァンテさん、あなたはどう思いましたか?」
「僕も全く同じ意見だ」
その通りだ。僕はこの理解の及ばない景色に言い知れぬ不安も覚えて、それがために神の気配も感じたのではないかと思う。だけど、僕が不安を感じたのはそれだけだっただろうか。何かを見落としているような気がしてならない。景色だけで僕が不安を感じるだろうか。否だ。他に何かあったのだ。でも、それがなんだったのか思い出せない。
景色ではないが、もしかしたらカルラ・アンジェロヴァの事だったのかも知れないと思って、少し気にしていたことを聞こうと口を開いた。大琉璃花の壁のような斜面はもうすぐだ。
「カルラ、大丈夫か」
「荷物も持って頂いていますし、問題はありません」
先を歩いていた彼女がくるりと振り返って答えたが、僕が聞きたかったのは体力のことではない。体力面も確かに心配ではあるのだが、知りたいことは違う。
「あ、えっと、質問の仕方が悪かった。ジェイニーの件を気に病んでいないかと」
立ち止まり、じっと目を見る。カルラは僕の殺害を指示していないと、あの帝都の夜、言い切った。帝都支部が勝手に出した指示だと。けれど、つい先日会ったジェイニー・ロザリーは、明らかに東の聖女カルラ・アンジェロヴァを崇拝していて、それがために手を汚したのだ。僕を殺そうとしていた以前の彼女ならばともかく、殺意を微塵も感じさせない今の彼女からしてみれば、それはどれほどやるせないことだろう。
僕の視界の中で、彼女は首をほんの少しだけ傾げ、すぐに戻して柔らかく清浄な声を出した。
「……それは、憐れみでしょうか。だとしても、私はあなたを殺そうとしたのです。そのような感情は私を却って追い詰める不要のものとして、あなたの裡に留めおいて下さい」
「しかし」
「惨めなのですよ、自分が殺そうとした人間が普通に接してくれることが。自分がたまらなく卑小な人間に思えて、どうしようもなくなるのです。だから、私の中で結論が出るまで容赦して下さい。帝都であなたを初めて見たときから、どこか懐かしい気持ちになったことも含めて」
「分かった。すまない」
「いえ、私の気持ちの問題ですから。さあ、今は気持ちを切り替えて、この神の花を調べましょう」
そう言って前に向き直り、再び彼女は僕の先を足取り軽く進んでいく。
懐かしい気持ち。言われてみれば、大教会前の広場で話をしたときに、まるで昔馴染みと話しているような感覚があった。彼女もそう思ったのであれば、白炎持ち同士だったからとも考えられる。そうであれば、僕がグロリア・ホルストに対して抱いていた家族のような感情の正体も、なんとなく見当がつくものだ。
そして、目の前に大琉璃花がある。花には到底見えない、鉱石の壁がある。他の鉱石が付着している部分もあるが、基本的には釉薬をかけたばかりの陶器のような肌をしていて、とても滑らかに、半透明の瑠璃色を放っている。
これほど大きなラピスラズリの結晶ができるまでには、いったい何万年、いや、何億年必要なのだろうか。
そのとき、僕は不安の正体に気が付いて、左隣にいるカルラに声をかけようとした。しかし、それは成功しなかった。僕が声をかけられたのだから。
頭にノイズが走った。大きな雑音が頭の中を駆け巡る。その隙間から声がする。その隙間から映像が見える。
『■子■ちゃん、しっかり■■くれ! 今、救■■を呼ぶから!』
これは、誰の記憶だったろうか。
これは、いつの記憶だったろうか。




