5.4.3
「カルラ、野営をしたことはあるか?」
「当然、ありません」
「じゃあ、君はそこに座っているだけでいい」
「手伝わなくていいんですか?」
「恐らく邪魔にしかならないから、じっとしていてもらえるのが一番ありがたい。料理もしたことはないんだろう?」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
北辺地の町を出て、僕らは徒歩で大琉璃花を目指した。
その神話の世界のような巨大鉱物結晶の情報については、事前に雑貨屋エリーのエルヴィラさんに聞いてあるから抜かりはない。そのときの話によれば、まず大琉璃花は、|フォルカフ・ブロ・ブロモル《青の民》からはブロ・ギュと呼ばれて崇拝されていたという。その数、全部で六基。|フォルカフ・ブロ・ブロモル《青の民》にはいくつかの氏族があり、近くのブロ・ギュは自分たちを守ってくれるものだとして、崇拝していた。でもこれは、あくまでも〝かつては〟が付く話であり、今は廃れ、大々的に祀っている氏族はないだろうという。それくらい、昔の烏朱王国の廃教政策が徹底していたということだ。
そして、六基あるブロ・ギュ、というか大琉璃花のうち、四基は北辺地の北端からでも見える。残り二基は、他の大琉璃花の陰に隠れて北辺地からは見えないそうだ。
エルヴィラさんから教えてもらったことはもう一つある。現在、いくつかの琉璃花には鉱山の専用列車が走っているだけで、一般人向けの汽車はない。だからといって整備された道路も、ましてや荒涼とした大地を走ることが出来る自動車もないから、馬に乗るか徒歩で行くしかないという。でもそれは僕たちも事前に知っていたことである。エルヴィラさんはそこに情報を付け加えてきた。
曰く、窪地に気を付けろと。どうしてですか、と聞いてみれば、冬に降った雪が溶けて窪地に溜まり、湿地を作るからだという。湿地ならば見れば分かるでしょうと聞くと、困ったことに、そういう湿地には草に覆われた浮島が多く発生して、|フォルカフ・ブロ・ブロモル《青の民》の人間でも見分けがつかないことが多いのだと言っていた。
そういうことだから、僕たちは今、遠くに見える大琉璃花を目指して歩いている。最も近いものなら丸一日歩けば到着するらしく、鉱山用列車の線路で位置を確認しつつ、窪地に踏み込まないようにして、荒涼とした草原を歩いている途中だった。
この草原には、当たり前のように家が無い。何か家のようなものがあるとすれば、線路の保守工事用の小屋くらいだ。しかしそれも鍵がかかっていて入ることはできない。鍵を壊して強引に入ることは出来るが、そのような無法はいらない争いを生むだけである。
だから僕は、雑貨屋エリーでエルヴィラさんがお奨めする丈夫なキャンプセットも購入し、時間を見てはカルラを休ませていた。カルラもそれなりに体力はあるのだが、それでも僕と比べれば体力はないし、歩く速度も遅い。彼女と離れ離れになってしまったら、最悪の場合、僕は何人ものヴィエチニィ・クリッドから命を狙われる事態になるだろうから、何が何でも彼女と一緒にいなければならないのだ。現金かも知れないが、文字通り資金も出してもらっている手前、カルラを丁重に扱うしかない。もっともカルラ本人は、そのような扱いをされることを嫌っているようだが、過労で倒れられても困るので、強制的に休憩をするしかない。本人のそうした意志が本人のためにならないのであれば、誰かが止めるしかないのだ。
そういうこともあって、丸一日歩けば最初の大琉璃花に到着すると言われていたところ、大事を取って途中テントで一泊し、結果、大琉璃花の麓に辿り着くことができたのは、北辺地を出発した翌日の昼前だった。
「これは、凄いな」
「ええ、本当に」
遠くから見ていたときも薄々は思っていたが、こうして近寄ってみると、大琉璃花というものは実に大きい。小さな丘や山のようにこんもりと大きくて、見上げるばかりであり、そしてところどころ表面が滑らかで瑠璃色に輝いている。逆に、遠くから見えていた花冠のようなものは、麓ではよく分からない。
しばし、カルラと二人で呆けたように眺めた後、こうしていてもしょうがないと、見える範囲でヒトを探すのだが、これはどうにも見つからなかった。オイレン・アウゲンにも当然のように黒靄が映らない。
「カルラ、辺りに全くヒトがいないんだけど、君も同じか?」
「ええ、そうですね。スヴァンテさんと私以外、何も映りませんね。でも、あそこに小屋が見えるので、あちらに行ってみましょう。何か見つかるかも知れませんから」
ヴィクトルが離脱してから、どうもカルラの話し方が変わったような気がする。なんと言えばいいのか、角が取れたような、自然体のような、そんな感じだ。ついでに言えば、顔つきも同様に感じている。もしかしたら、ヴィクトルがいなくなったこととは関係ないのかも知れないが、僕としては今の彼女の方が話しやすくて助かるのは間違いない。或いは彼女の死のイメージとも関係がある可能性もあるが、それはこちらから聞き出せるような間柄ではないから、もちろん話題にしない。
それはさておいて、カルラが指さした小屋の話だが、大琉璃花から二百メートルは離れたところに、古くも新しくも見えないものが、突然ポツンと置いてある。大琉璃花が大きいために距離感が今一つ分からないが、見た目の表現としては、誰かがおもちゃの小屋を置いたような感じだ。
青い空の下に巨大なラピスラズリの結晶が横たわり、その近くに木で出来た飾り気のない小屋がちょこんとある。ウミヴァドゥロでウチテルと話したときには、このような景色に出会うとは想像だにしていなかった。
このような景色とは、簡単に言えば天上であり浄土であり、しかして常のものではなく、表現の行きつくところは幽世の景色である。
その景色に唯一存在する現世の小屋には、鍵はかかっていなかった。一見して手入れがなされているにもかかわらずだ。
カルラを外に待機させ、僕は一人で踏み入る。中は薄暗い。見渡す。電灯のスイッチは当然ない。この世界のこの時代だから、電灯のスイッチなどどこにも存在するはずがない。机が一つあった。椅子も二つある。あとは二段ベッドが二つ。それぞれに毛布のようなものが丸められている。
「何かありましたか?」
カルラが外から声をかけてきたが「まだ分からない。もう少し待ってて」と答えるのが精々だ。
さて、机、椅子、二段ベッド、毛布以外に何があるか。机の引き出しをすべて開けてみても、土埃が見えるだけで何もない。念のために二段ベッドと床の間も見てみたが何もない。あえて何があるか挙げるとすれば、何も入っていない本棚と北辺地まで含めたこの辺りの地図が壁にあるくらいだ。
「カルラ」
外へ出てカルラに声をかける。
「何かありましたか?」
彼女は先ほどと全く同じ質問を僕に投げかけた。
「いや、何もない。恐らくここは避難小屋か何かなんだろう」
「避難小屋? 避難小屋とはいったいなんでしょう?」
ああ、そうか。登山というものがレジャーとして一般化していれば、避難小屋という言葉もある程度は一般に広まるだろうが、この世界この時代ではそれは存在していないのか。
「山や森深く……あー、人里から遠く離れた場所にあって、天気が大きく崩れたときなんかに逃げ込める場所だ」
「まあ、そういうものがあるのですね。私、初めて知りました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
ところがここは山のような大琉璃花と言っても麓であるし、森などもない、まったくの平地だ。加えて、大琉璃花は採掘しようとするたびに事故に見舞われているから、鉱山の関係でも無さそうである。
だとしたら、なぜここに避難小屋のようなものがあるのか。
雨や落雷などから避難するためではあると思うが、と考えたところで僕はもう一つの可能性があることを思い出した。




