5.3.8
ふわりとした香りを多分に残しながら、黒く温かい液体が舌を通り過ぎて喉に落ちる。その落ちる刹那、それは再び香りを放って消えるのだ。強く。
「こいつは帝都のコーヒー屋よりうまいな」
「まろやかで美味しいわ」
青緑色の陶器のカップで提供されたコーヒーを、それぞれのタイミングで口に含んで、匂いと味を楽しむ。二人の言う通り、パーコレーターで淹れたものより、口当たりがまろやかで苦味も少ない。けれど、雑味も含めたコーヒー豆そのものを味わう、という意味では、パーコレーターの方に分があるかも知れず、そこは好みが分かれるところだろう。
しばし、無言で味わった後、第一の目的を忘れてしまわないよう、僕は口に出す。
「……ところでこの辺りというか、華那琉大陸の昔話や言い伝え、おとぎ話なんかを調べてまして」
「学者さんでしたか」
「まあ、そのようなものです。マスターはそう言ったものをご存知じゃないですか?」
「ふーむ、残念ながら青華教に伝わるものくらいしか知りませんね。アップルパイの準備が出来ました。どうぞ召し上がって下さい」
白い皿に乗せられたアップルパイを一口頬張る。出来立てのように温かく、マスターの心配りが嬉しい。味の方は、流石に青華亭のものとよく似ているが、リンゴはこちらの方が柔らかく、また心なしかシナモンが強いような気がした。
いずれにせよ、これも美味しい。二切れしか頼まなかったことを後悔する味だ。
出かける前に不機嫌だったカルラも、きっとこれで機嫌を直してくれていることだろう。何しろ彼女は支援者であるリヒト教の、その窓口なのだから、変なことで機嫌を損ねるのは非常によろしくない。
そんなカルラが一切れ食べ終え、少し口を拭いて僕の質問を繋いだ。
「それでは昔話、言い伝え、おとぎ話に詳しそうな方に心当たりはないですか?」
「ああ、それならありますよ」
マスターのその言葉に、僕の期待は高まる。きっとヴィクトルとカルラも同じだろうと思ってしまったが、よくよく考えてみれば、ヴィクトルの目的は僕やカルラとは違うのだった。だから、そんなに期待していないのかもしれない。彼が追っているという犯人とも、きっと遠いことだろう。一緒にいてくれれば心強いのだが、果たして彼はいつまで僕たちと旅をしてくれるのだろうか。ふと、そんなことを考えてしまった。帝都で罪を犯したその犯人とやら――恐らくジェイニー・ロザリーが、わざわざ華那琉大陸まで逃げることなど、確率としてはかなり低いだろうに。
「近所に雑貨屋エリーというお店がありましてね、そこのお婆ちゃんが色々と話を聞かせてくれると思いますよ。私もいくつか聞いたんですけど、あまり頭には残りませんでした。あはははは」
マスターが話を忘れやすいことはともかく、これで手掛かりはつかめた。もっとも、その手掛かりが真実につながっているかどうかまでは分からない。それでも、まったくないよりはましだろう。
「――ごちそうさま。色々とありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。またいらして下さいね」
美味しいコーヒーとアップルパイの余韻が残る中、すぐに雑貨屋エリーに行くことにした。思い立ったが吉日であり、善は急げであり、変わりやすいのは男心と秋の空なのである。最後のは少し違うかも知れないが、相手にも当然、都合というものがある。懐中時計を見れば、まだ十一時にもなっていない。早めに行って件のお婆ちゃんと出会い、そして話をたくさん聞くことができれば最良だ。
* * *
ノラ・エンデンからほんの少し南に戻り、そこからメインストリートよりは細いが路地よりは太い道に入る。東へ真っ直ぐ伸びるその道を進むと、やがて三叉路に行き当たり、その二俣に分かれている始点に雑貨屋エリーはあった。
外見は、この辺りでは珍しい二階建てのコンクリート造りである。一階と二階の間からは瑠璃色の布で作られた大きな庇が飛び出ていて、頼りない棒がそれを支えていた。そして、二階から目のように覗く二つの窓の上に『雑貨屋』、下に『エリー』と取り付けられた大きな文字が、ここが目的地の〈雑貨屋エリー〉であることを告げている。
庇の下では、大きな台の上で皿やお椀、金物のマグカップ、鍋がひしめき合っていて、その台の間を通り抜けて開け放しの店内へ足を踏み入れた。店内はやはり外よりも薄暗い。
「ごめんください」
奥に向かって声をかける。正面真ん中からは、奥に商品棚しか見えず、店員がいるかどうかは分からない。自然と大きくなったその声に、少し遅れてやや枯れた声があった。
「いらっしゃい」
しかし、それだけで後はない。求める商品があるのならば、勝手に探してこっちまで来いということだろうか。もちろんこっちには求める商品はなく、探しているのは昔話などをたくさん知っているという老婆である。声の発生源に見当をつけて、棚の間からそちらへ出ると、簡単なカウンターの前で、その老婆は椅子に腰かけていた。
肩までの真っ白な髪を後ろで縛り、瞳は青い。小柄で背中は曲がっておらず、体格はふっくらというか逞しく見える。目尻は年齢相応に下がり、その表情は一見して柔らかい。
「あの、少しお話いいですか?」
老婆の周りは、少し広くスペースが取ってあった。椅子がいくつも余っているから、時間を見ては、仲のいい人たちで集まって、お喋りを楽しんでいる様子が想像できる。
「……いいよ」
「ありがとうございます」
彼女は少し考えた様子だったが、そのように返事をしてもらえたので、僕たちは遠慮なく椅子を引き寄せて座った。
「お婆さん、名前はなんて言うんだい?」
最初に聞いたのは珍しいことにヴィクトルだった。思うところでもあるのだろうか。
「あたしの名前はエルヴィラ。フルネームだとエルヴィラ・ブロ・ヤコブソンだよ、若いの」
「……よしてくださいよ。俺はもうすっかりおじさんなんですから」
「あたしからみればあんたは十分若いから、遠慮することはない。ところでどんな話を聞かせてくれるんだい? あんた方はよその大陸から来たようだから、きっと面白い話を聞かせてくれるんだろ?」
「よその大陸から来たってどうして分かるんだい?」
確かにそうだ。南部では言われなかったが、北部では言われることが多い。どことなく雰囲気が違うという理由だそうだが、雰囲気というものはそんなに変わるものなのだろうかと、多少、気にはなっていた。
「どうしてかねえ、どうして分かるのかねえ」
老婆がその細い目で僕たちをじっと見ているが、それでどうということもない。彼女のうちにあるものも通常サイズの黒靄で、精神状態は落ち着いていると言っていい。
「ああ、分かったよ。色、というのかね、そういう印象があんた方は違うんだよ。この大陸の人間はだいたいパッと見たときに〝青い〟と思うんだ。だけど、あんた方はちっとも青いとは思わなかった。白いとか茶色いとか思ったね。それから目の色だ。男二人は、まあ、こっちでもよく見かける青だったり茶色だったりするけど、そこの娘さんのような榛色はない。あたしも最近になって一人見かけたくらいだ」
そう言われて三人でお互いをじろじろと見たが、瞳の色の話はすぐ分かるものの、色の印象というものはまったく分からなかった。カルラはバルント・ハーヴから群青色の服に着替えているから、普通のヒトから見たら青いのだが、エルヴィラさんは青いと思わなかったという。
青い、とはいったい何なのだろうか。とても気になる。アスタさんと崖っぷち酒場の主人もそのように感じていたのだろうか。だけど、ここへ来た目的はそうではない。話を進めなくてはならない。
「ところで――」
「ところでエルヴィラさん、お店の名前はやはりご自分の名前から付けたんですか?」
カルラと同時に口を開いて、僕は咄嗟に口を閉じる。カルラはためらいもせずに最後まで通した。
「ああ、そうだね。あたしの名前から取ったんだ。故郷の集落……あー、|フォルカフ・ブロ・ブロモル《青の民》って言った方がいいか。五十年ちょっと前に、この町が大きくなるってんで、生意気盛りだったあたしは|フォルカフ・ブロ・ブロモル《青の民》の集落を出てきてさ、こっちに引っ越してきてから、すぐに手作りの食器を売る商売を始めたんだ。どんどん南部から引っ越してきたから、それは儲かってしょうがなかったねえ」
「エルヴィラさんは一人でこちらに出てきたんですか?」
「いや、もうそのときは子供が三人いてね、子供たちを連れて出てきた。旦那も連れてきたかったんだけど、俺は行かねえ、とかなんとか言ってたから、もうそれっきりさ」
「それは大変でしたね」
「大変だったけど、楽しかったよ。旦那と会えなくなっちまったのは寂しかったけどね」
「そうすると、エルヴィラさんは|フォルカフ・ブロ・ブロモル《青の民》の昔話をよく知っていたりしますよね?」
ようやく僕の出番だ。ヴィクトルとカルラのおかげで、エルヴィラさんも口が滑らかになっているに違いない。
「確かにそうだね。子供の頃はよく村の老人たちから聞いたもんさ。なんだい、あんた。もしかして昔話を聞きたいのかい?」
「ええ、是非」
どうやらスムーズに話してくれそうなので、僕は内ポケットから手帳とペンを素早く取り出して、メモを取る用意をする。
「あれまあ、随分と気合を入れて聞くもんだねえ。気に入ったよ。時間が許す限り話してやろうじゃないか」
そうして僕ら三人は、客が来ないのをいいことに、エルヴィラさんから昔話をたくさん引き出すことに成功したのだった。




