5.3.7
男二人で崖っぷち酒場を堪能した翌日の朝。
いつも通りに三人揃って、サンドイッチと紅茶で朝食を摂る。
昨晩は結局、収穫なしだったとカルラ・アンジェロヴァに話しても、特に眉間にしわを寄せることもなく、涼しい顔で朝食の時間を過ごしていた。内心、怒られるかもしれないと思っていた。なぜならこの旅は、リヒト教からの多大な援助によって成り立っているのだから。それだけに彼女の反応には拍子抜けしたし、彼女が東の聖女と呼ばれるている所以を勝手に分かった気になったりもした。
「それで、今日はどこに連れていってくれるのかしら?」
涼しい顔ではあったが、その口振りからはやはり不満が漏れ出ていた。これは失敗できない。挙句にヴィクトルは知らんぷりだ。だから僕が答えるしかなかった。
「ノラ・エンデンという喫茶店に行こうと思う」
「あれ、素敵ね。どうしてそこを選んだの? 他にも教えてもらったお店はあるでしょう?」
一緒に話を聞いていたくせに、わざわざそんなことを言う。どうも女心というものは分かりにくい。いや、もしかしたら、援助者としての立場から聞いているのか? 渡したお金が適切に使われるかどうかという、そういう視点なのだろうか。
「ノラ・エンデンは北辺地の中ではかなり古いお店で、しかも区画整理された昔からの住宅街の中にある。昔話や言い伝え、あるいはそれらを知っていそうな人物にも、行き当たるかも知れない」
「お料理は?」
「店主が淹れるドリップコーヒーとアップルパイが絶品らしい。ここのアップルパイも、ノラ・エンデンのレシピを特別に教えてもらって参考にしたのだとか」
「それなら行かない理由はないわね。さっそく向かいましょう」
「お、行くか」
会話に加わるのが遅いと、心の中でヴィクトルに毒づいて、今朝もやはり坂を駅の方へと下っていく。途中の崖っぷち酒場は、昨晩の賑わいが嘘のようにひっそりとしていて、夜の雰囲気は到底感じられないものだった。
青華亭を出て十五分ほど下ると北辺地駅前の賑やかな広場に出た。人々が朝から盛んに行き来しているが、駅に出入りする人間は比較的少ないように思える。だとすると、汽車を利用する人間よりも、僕たちのように移動の途中としてこの広場を通過する人間が多いのだろう。そういう人間を当て込んでか、駅前広場に面した飲食店は多く、屋台を出している店も見受けられた。だが、僕たちはそこには入らない。目的地はまだ先だから。
駅前広場からは四方向に広い道が走っている。細い道は沢山あるが、広い道は四本だけで、しかもまっすぐ遠くに伸びているから、いかにも都市計画に則って作られたメインストリートという風景を作り出していた。
僕らが目指すノラ・エンデンはその内の一本、真っすぐ北に伸びる道を通っていくことになる。宿から広場に出た道から見ること右手。途中には細い道が二つほどあり、そこもヒトの往来が多いため、出会い頭に衝突しないように離れて歩く。そうしていても、縦に横にと好き勝手に交差している人々とぶつかりそうになるが、この町の住民は慣れているのか、広場を抜けるまでに体がぶつかることはなかった。それでもぶつかってしまうことはあるようで、罵り合いの末に殴り合いのケンカが始まることもあったが、僕らにはそれをどうこうする義理はない。すぐ近くの人間以外は、横目でちらりと見るだけで、逃げるでもなく通り過ぎていくから、これがこの町の日常なのである。
ところで件の喫茶店ノラ・エンデンは北へのメインストリートを十五分ほど歩いたところにあった。青華亭も駅から十五分ほどの場所にあったことだし、駅から十五分は離れないとこの町は落ち着かないものなのかも知れない。
見た目はやはり伝統的な華那琉大陸様式で、しかし、煙突が二本、少し離れて立っているところが北部にある飲食店を匂わせる。思い返せば、崖っぷち酒場でも二本あったような気がしてきた。南部の飲食店の煙突は一本だけだったから、自然環境か何かがやはり違うのだろう。
それはさておき、いつものように華那琉大陸名物の重いドアを押し開け、ドアの鈴を鳴らしながら中に踏み込む。中の椅子や机、カウンターなどは創業当初から使っているもののようで、随分と落ち着いた木材の色が滲み出ていた。カウンターの奥にいるマスターも相応に古い人間、という言い方もどうかと思うが、白髪の老爺などを予想していたのだが、しかし、いたのは見た限り三十代後半の男性である。こちらに気付くと、その細面に人好きのしそうな笑顔を浮かべて「いらっしゃい」と言い、ちらりとヴィクトルとカルラも見て「お好きな席にどうぞ」と続けた。
そう言われれば、二つある目的の両方を叶えられるカウンター席に座る以外の選択肢はない。ヴィクトルとカルラに目配せをして、マスターと思われる男性の正面の席に三人並んで腰かけた。カウンターも古く、細かい傷は目立つものの定期的に手入れがされているようで、大きな傷みは見えない。
「レギュラーコーヒーを一つ」
「俺も」
「私はミルクコーヒーを」
「かしこまりました。お出しするまでにしばらくお時間を頂戴します」
「では、その間に僕たちとお話でもどうですか?」
僕の声掛けに、彼は穏やかな表情で「いいですね」と答えながらも、コーヒー豆、コーヒーミル、スプーン、小さなボウルを自身の前に置き、慣れた手つきで豆をコーヒーミルに移していく。
「僕たち、別の大陸から来て昨日ここに到着したんですけど」
「それはいいですね。ここはまた、騒がしいだけで何もないところでしょう?」
「ええ、まあ」
「お客様は正直ですね」
穏やかな顔のマスターがコーヒーミルのハンドルを回し始めると、ガリガリとした音が鳴り始め、声が聞き取り辛くなることが想像された。ヴィクトルは豆を挽いているところを見たことがあるらしく、いつもの顔だが、カルラはこれが初めてらしい。豆が砕かれる音に少し眉根を寄せつつも、その視線はカウンターの向こう、少し低くなっているキッチンに置かれたコーヒーミルに注がれている。
「このお店はドリップコーヒーが美味しいと聞きました」
「ありがとうございます。ちなみにどなたからお聞きに?」
「青華亭のアスタさんからです」
この間にもガリガリとコーヒー豆が削られていく。
「なるほど、アスタさんから。そうなると、アップルパイも薦められたでしょう?」
「ええ。あ、アップルパイもホール……じゃないな、二切れずつお願いします」
「ご注文ありがとうございます。コーヒーの後で準備しますね」
「それで、ドリップするコーヒーとはどのようなものなのですか?」
静かな店内に、少しの話し声とガリガリとした音、たまに薪が爆ぜる音が鳴っている。
カルラはドリップというものに興味があるらしい。そういえば、この旅でドリップしたコーヒーを出しているところは一つもなかったかもしれない。多くはコーヒー粉が少し沈んでいたから、パーコレーターで淹れたものなのだろう。この世界のこの時代では、その方法とかなり細かく挽いた豆に直接お湯をかけるのが一般的な淹れ方で、帝都でコーヒーを出す店でもドリップ式など相当に珍しい。僕がすべてのコーヒーショップを知っているわけではないが。そして、ドリップ式については、日本にいた頃によく飲んでいたのに決して詳しくない。だから、僕もカルラの質問に乗っかり、マスターの回答に耳を傾けた。
「えっと、少しお待ちくださいね。……よっと」
マスターがコーヒーミルの引き出しを開けて、挽きたてのコーヒー豆をボウルに移した。ハンドルを回す素振りは見せないから、これで必要な分は全部終わったのだろう。
「淹れながら説明しますね。ドリップコーヒーというのはですね」
そのように言いながらコーヒーミルをどかすと、虫取り網を小さくしたような柄のついた布袋と、首の長いガラス製のポットを前に並べた。柄のついた布袋はガラスポットの上に置かれ、その中に挽きたてのコーヒー豆を移していく。次にコンロから蒸気の立ち昇るヤカンを持って、手を震わせることなく、ヤカンのお湯を布袋の中に注いでいった。
「このように、お湯で出したコーヒーの液体を布で濾し、小さい欠片などを取り除いたものがドリップコーヒーです」
「普通に淹れる方法よりも、時間がかかりそうですね」
こう言ったのはカルラだが、僕たちは三人揃って布から垂れ落ちる半透明の黒い液体を凝視していた。一滴ずつ、という遅さでもないが、やはり濾す分、パーコレーターを使う抽出方法よりはかなり遅い。
「そうですね。しかし、この時間があればこそ、コーヒーの味が完成するのだと思えば、そう悪い時間でもないように思えます。それに、今のうちにアップルパイを取り分ける準備も出来ますから、私としては助かります」
マスターはそう言ってカラリと笑った。




