5.3.6
「なあ、スヴァンテ。とりあえずビールというのは、俺からしてみれば変な注文だったが、こっちの方の注文の仕方なのか?」
そんなことは恐らくないだろう。スヴァンテの記憶にもそれはない。日本にいた頃の癖がつい出てしまったと反省するが、ではこちらの慣習に合わせるならば、なんと言うのが正解だったのかは、やはりスヴァンテの記憶には存在しないようだった。つまり、特別な慣習など存在せず、普通に注文するのが慣習と言える。無論、よく冷えたものを頼む、と付け加える客はよくいるようだ。
そうなると、ヴィクトルの質問には僕としては首を振るだけである。
「……やってるのは僕だけかな。華那琉大陸の風習ではないと思う」
「そうか。どうもこっちに来る前から、風習がかなり違うんじゃないかと身構えていたんだが、実際歩き回ってみれば帝国とほとんど変わらないからな。そればかりか人間の見た目も変わりない」
「いいじゃないか。何か不満でもあるのか?」
「不満はない。むしろ快適だ。シェスト教の礼拝にほとんど顔を出したことがないからな、熱心な信者が言うところの礼拝できないストレスもない。だが、知っている限りの話では、エコー大陸では服装や食べ物の習慣が、隣のヒ大陸と違うというしな。それなら離れたハレ大陸や、それからさらに離れたこの華那琉大陸で、ほとんどヒ大陸と風習が変わらないのが、どうにも気味が悪くてなあ。建物が違うのは分かるし、伝統的な服装が違うのはもちろん分かったが、最近の建物と服装がなあ……お、ありがとう」
ビールとシードルが先ほどの女給の笑顔とともに運ばれてきて、ビールの泡が見えるうちに急いで一口含む。
「こっちのシードルはよく冷えててうまいなあ」
「ビールもよく冷えてておいしい」
「そんじゃあ、次はビールも頼むか」
「食べ物も何か口に入れた方がいいと思う」
「それもそうだな。おばちゃん、ラムチョップ二人前!」
「あいよ!」
ヴィクトルが大きな声を出して、女給も元気に答える。酒場の話し声、笑い声、バカ騒ぎ、歌声――それらすべての雑音は、時間が経つにつれ否応もなく増し、通常の声量ではヴィクトルと話すことすらままならない。
「お客さんたち、運がいいな。今から、焼きたてを出してやる」
見た目は五十も半ばだろうか。髪の毛の生え際もすっかり後退していて、額にも玉のような汗を浮かべた酒場の主が、白い歯を僕らに見せていう。彼は鉄の棒ごと肉塊を別の台に乗せ、かつて背中であったであろう部分から、ナイフを巧みに使って骨付き肉を切り離す。それを無造作に木皿に乗せて、またもや無造作に僕らの机に置いた。
「ほらよ。熱いうちに食え。すぐに食え。美味いぞ」
木皿の上のこんがり焼けた骨付き肉からは、焼けた肉のニオイの他にニンニクとコショウの香りも漂ってきて、口の中が瞬く間に唾液で満たされる。たまらず素手で持ち、すぐにでもかぶりつきたいところだったが、ヴィクトルに肩を叩かれ、指先で視線を誘導された。何を見ろということなのかと、指からの直線を辿ってみれば、肉の下には黄緑色の大きな葉っぱが二枚、敷かれているではないか。無造作に盛り付けたように見えて、手早く葉っぱを敷いていたことに感心すると同時に、これはレタスよろしく肉に巻き付けて食べろという店側の意思表示だなと瞬時に理解し、すぐさまそれを実行に移した。葉っぱ越しのラムチョップはまだまだ熱を帯びているが、これも二枚使えばどうということはない。
まずは先端を一口。コショウとニンニクの香りが鼻孔を刺激し、パリッとした食感と歯切れの良い肉が口の中に侵入する。その上コショウとニンニク、そして滴り落ちずに残った肉汁の精鋭たちが口の中でほどよく暴れまわって、喉を通らぬうちに次を欲するのだ。
次、といえば、やはりラムチョップに巻いたレタスのような葉っぱとの組み合わせも試してみなければならない。ややしんなりとした葉っぱとともに、骨を避けて大きくかぶり付けば、シャキッ、パリッ、ホロッで口が幸せになる。なんという味覚と食感の暴力か。
「あんたらは美味しそうに食べるなあ。気に入ったよ。だが、この辺りの人間じゃねえな。雰囲気が違う。どこから来たんだ?」
「ヒ大陸から」
「同じく」
「そいつは随分とまあ遠くから来たもんだな。そんで、わざわざ俺の酒場を選んできてくれたってわけか。ありがたい話じゃねえか、おい」
「わざわざ足を運んだ甲斐があったよ。これはヒ大陸では味わえない」
「そうだな、まったくその通りだ」
「ま、じゃんじゃん焼くからよ! 楽しんでいってくれよ!」
「ところでマスター、どうして〝崖っぷち酒場〟なんていう名前を付けたんだい?」
「おうおうおう、流石にヒ大陸から来るだけあって、目の付け所が違うねえ」
「どうも」
「話せば長くなるんだが」
「手短に頼む」
長年聞き込みをやってきたせいだろうか。こういうときのヴィクトルは容赦がない。しかし、酒場の主人もこの手の受け答えには慣れているのか、嫌な顔一つせずに話してくれた。
「俺は昔、南の青藍って町にいたんだけどよ、若い頃からそりゃあもう、商売で成功したいって思っててな、しかもただの成功じゃなくて大成功したいって思ってたわけなんだよ。それでな、下働きで稼いだ金で、なんとか靴を売る会社を立ち上げてみた。あれは二十五のときだったなあ。今でもあのときのワクワクは忘れらんねえ」
酒場の主人はお喋りが大好きで、自分を語るのも大好きらしい。かなり大袈裟な身振り手振りを交えながら、得意顔で話してくれている。しかし、先ほど本職の癖が出てしまったヴィクトルは、酒が入ったことでどうも気が大きくなってしまっている節がある。
「なるほど。それで事業に失敗してこっちへ流れてきたと」
けれど、酒場の主人はそれにも慣れていた。口の端の片方だけを上げてニヤリと笑い。
「ああ、そうだ、その通りだ。だがお陰で今のこの店がある。やぶれかぶれで始めた店だったが、大繁盛だ! なんてすばらしい町、素晴らしい酒、素晴らしい羊肉! 愛してるぜ! 野郎ども!」
両手を広げたまま、何度も下から振り上げ、大声で客を煽る。するともうすっかり出来上がった客たちが口々に「崖っぷち万歳!」「俺もだマスター!」などと言い始め、崖っぷち劇場は最高潮。もうすっかり話を聞ける雰囲気ではなくなってしまったのだ。
けれどお腹は減っている。僕の体はまだカロリーを求めている。
已む無く、当初の目的を一つ諦め、おいしい食事をとることに専念して、僕らは店を出たのだった。
「スヴァンテ、すまないな。俺の聞き方が悪かったようだ」
「あの主人は難しいからしょうがない」
「だとしても、酒は飲まずに話をするべきだった。今度は気を付ける」
青華亭への帰り道、ヴィクトルとそんな話をした。星空は、煙で少しくすんでいてよく見えなかった。




