5.3.3
重い金属が長く擦れる音がして、汽車はゆっくりと速度を落とし、やがて停車した。反動は少なく、体のバランスを崩すほどではない。いったん窓の外を見ると、そこは当然のことながら駅の構内で、屋根があるためか、やや暗い。そしてそこには高原のようだと思った爽やかな景色の面影など、微塵も残っていなかった。景色だけではなく、どこか鉄と機械油と埃が混ざったようなニオイが漂ってくるような気がして、荷物を抱えて低いプラットフォームに降り立つと、それはいよいよ現実のものとなった。
――北辺地という町は、錆びている。
僕の第一印象はそれだった。
車窓からの眺めも、プラットフォームに降り立ったときも、そして駅のゲートを抜けた後も、それは変わらなかった。
ラピスラズリ採掘の中心都市。鉱山の町。北辺地の外観は事前に仕入れていたものと相違なく、錆びついていた。錆びながらにして粗野な活気に溢れていた。この雰囲気は帝都で言えば港湾区に似ているかもしれない。或いは三百年前のサコの町で味わった雰囲気に似ていると言ってもいい。
だからといって、この独特なニオイを、二つの町では味わったことはない。ヴィクトルは平気そうだが、カルラは眉間にしわを作り、ハンカチでずっと鼻を覆っている始末だ。僕もこのニオイは苦手だが、慣れればどうにかなりそうな気はしている。
ニオイのことは気になるが、新しい町に着いたとなれば、最初にやるべきは宿探しである。特に他と比べて治安が悪いと言われているこの町では、安心できる宿泊場所を確保することは、何よりも優先されるべき課題なのである。通常であれば情報の少ないこの世界、この時代のことだから、そういう宿探しにも四苦八苦するのだが、今回はそのような苦労はしなくて済むだろう。
なぜなら、ミーネ・リンドベリ猊下とのお茶会の帰り道、リリェフォッシュさんからお奨めの宿を聞いていたから。
最初は青華教の寺院を紹介されたのだが、いくらリリェフォッシュさんが紳士でも、寺院の職員が他の宗教関係者に寛大だとは限らない。だから寺院は丁重にお断りをして、代わりにいい宿を教えてくださいとお願いしたのだ。リリェフォッシュさんはそれについても機嫌を損ねることなく対応してくれて、僕たちが今、徒歩で向かっている青華亭というホテルを教えてくれたのである。
名前から青華教の息がかかっていることは容易に想像できるが、流石にホテルに排外主義者の過激派がいるとは考えにくい。そもそも、この大陸の排外主義者に過激派はいるのだろうか。少なくとも上陸してから読んだ新聞では、そのような事件は見なかった。北部では少し対立があるようだが、それでも他の大陸から来た人間が襲撃されたという事件は見ていない。連邦政府がその手の事件を意図的に隠している可能性もあるが。
ところで件の宿、青華亭は駅から歩くこと十五分ほど、人家の立ち並ぶ細い坂の道を上がったところにひっそりと佇んでいた。この周辺の建物もバルント・ハーヴや青藍で見たものと、外見上は変わりない。普通の家々は背が低く、海が泡立ったような壁の上に浅い角度の屋根が乗せられている。青華亭のようなやや特別な建物は、恐らく木骨レンガ造りだとは思うが、壁面はモルタルが綺麗に塗られており、木材は露出しているがレンガは露出していない。もしかしたら、モルタルが綺麗に塗られているだけで、内部はレンガではなく、コンクリートや新華那琉大陸様式の、安山岩を使用している建物もあるかも知れない。
青華亭の前で振り返ると、この辺りは少し高くなっていて、町を見渡すには丁度良い場所だった。他にも小高い場所がいくつかあるから、町全体を見渡せるわけではないが、それでもつい先ほど降りた駅や遠くまで一直線に伸びる線路、駅を中心にして四方向に走る大通りと、そこを盛んに行き交う人々と馬車、そして蒸気や煤煙を吐き出す煙突と青墨色のスレート屋根がひしめき合う様子が見えた。
こうして見る限りは、今の世界でよく見られる工業化が進んでいる町であり、治安が悪いという評判には首を傾げざるを得ない。しかし、ここからは細い道は見えないし、小高い丘の裏側も見ることはできない。治安が悪いとしたら、そういう部分のことなのだろう。
一頻り町の様子を眺めたところで、再び青華亭に視線を戻す。建物は華那琉大陸でよく見る青墨色の屋根にモルタル壁という外観の二階建てで、外から見る限り六部屋くらい客室がありそうだ。レストランがあるかどうかは分からない。正面の玄関と思われる両開きの扉は焦げ茶色で、見るからに重量感がある。ドアノブを少しひねってそれを押し開けると、慎ましやかなベルの音が控えめなエントランスに響いた。
カウンターからこちらを見遣る老婆が、にこやかに「いらっしゃいませ。何名様ですか?」と声をかけてくる。同時、微かに甘い匂いも漂ってきた。
「三名です。青藍のリリェフォッシュさんの紹介で来ました。ヴァルテル・リリェフォッシュさんの」
「まあまあ、ヴァルテルの」
「はい」
僕が返事をすると、老婆は一瞬目を見開いた後に、それまでよりもいっそうにこやかになった。
「私はこの青華亭のオーナー、アスタ・クロンハイムよ。気軽にアスタって呼んでちょうだいね。ところでヴァルテルの紹介と言うことは、あなた方も青華教の関係者なのかしら? あまりそんな風には見えないのだけど」
「あ、えーと、青華教に興味がある旅行者です」
「ふーん……ヴァルテルがただの旅行者にここを紹介するなんてね。まあいいわ。滞在は何日くらいの予定で、部屋はいくつ使う? 空いてるからこちらとしては四部屋以上使ってもらっても構わないわ。もちろん、その分のお金は頂くけど」
グレーの長い髪を後ろでひとまとめにしている、このアスタ・クロンハイムという女性は、どうやらお喋りが好きらしい。それにちゃっかりと金儲けにつながることを言ってくる。もちろん、四部屋などお金の無駄でしかないから、通常通り三部屋と、指を三本立てたのだが、横にいたカルラがその内の一本を柔らかく包み込んで二本にしてしまった。
「クロンハイム様、一人部屋と二人部屋を一室ずつお願いしますわ」
そうすると、老婆は途端に僕とカルラを交互に何度も見て「おやまあ」などと言う。これは間違いなく勘違いしている反応だ。二十九歳の僕、僕と年齢が近く見えるが年齢不詳のカルラ、そしてどうみても初老の域に入っているヴィクトルがいれば、普通は僕とカルラが夫婦か恋人だと思うだろう。青藍のソレプゴン・ホテルでフロント係の男性が邪推をしなかったのは、従業員教育の賜物か、はたまたヴィクトルかカルラのどちらかが、きちんと説明してくれていたに違いない。
だから、ここで僕が説明することは、せいぜいこの程度だ。
「あの、誤解しているようですけど、僕と彼女は特別な仲ではありませんので、きちんと部屋は分けているんですよ」
これで問題なく伝わるはずで、伝わらなかったら大問題である。
「あら、そうなの? それは失礼しちゃったわね。そしたらそちらのお嬢さん……あらやだ。私としたことが、まだ皆さんの名前を聞いてなかったわ。ゲストブックに書きながら、教えてちょうだいね」
警戒心が強い状態でそう言われても、と思う面はあるのだが、しかし、相手はリリェフォッシュさんの知り合いである。しかもかなり親しそうだ。あの穏健な老紳士の知人であれば、本名を名乗っても問題はないはずだ。もっとも、カルラのような有名人は別として、僕やヴィクトルの名前にどれほどの価値があるのかと問われれば、その答えは価値などないに決まっている。いや、カウンターでニコニコしているアスタさんには、少なくとも価値があった。悪用ではなく、コミュニケーションのために知りたいという価値が。
名前が無ければコミュニケーションは難しい、ということでもあり、それは当然、神にも通じる。神という名前がついた概念があるから、ヒトは祈る。神に役割とご利益と名前がついているから、ヒトは祈ることが出来る。概念も名前も無ければ、ヒトは祈る神を持ちえない。名前は大事だ。名前がなければ、相手のことを自分の中で整理が出来ない。カテゴライズが出来ない。どのような人物であるのか、類型化できない。場合によっては、認識も記憶も難しくなる。名前によって、初めて個体として認められるのだ。いや、それは言い過ぎかも知れない。だが、名前があることによって、その固体の輪郭が少しでもハッキリするのは間違いないだろう。名前が無いケモノたちは、そうやって輪郭がぼやけたままなのだから。




