5.2.10
青墨色の通路を歩くこと少し。
この本殿と呼ばれている建物の、一番奥と思われる場所からは少し外れた部屋で、その少女はちょこんと正座をしていた。
草花の伝統模様が描かれた瑠璃色の布がいくつも壁にかかるその部屋は、少なくとも応接室には見えない。居室にしてはベッドや布団もないことから、法主猊下のリビングか休憩室という表現が適当だろうか。
その中にいて彼女は、市井の女性とは異なる服を纏い、凛として佇んでいる。嬉々として咲いている。異なる服をどのように表現すれば良いか。僕の薄い知識の範囲内であれば、モンゴルの民族衣装デールに近い。首元までしっかり覆う前合わせの着物で、右肩の辺りで留められているあれである。その瑠璃色のデール風装束には、意匠化された草花の模様が白い糸で刺繍されており、見た目には実に爽やかだ。そして当の彼女は、黒髪を頭の高い位置でまとめたポニーテールに、黒い瞳を持っていた。大きな黒い瞳は、くっきりとした太い眉毛とともに、見るからに快活そうな印象を周囲に与えていることだろう。実際、僕もそう思ったもので、話し始めてからもそれは変わらなかった。
「初めまして、ミーネ・リンドベリ猊下。私はシェスト教の司祭、スヴァンテ・スヴァンベリと申します」
床に置かれた座布団のようなものに座っている猊下に対して、見下ろしたまま挨拶するのは流石に礼儀がなっていないので、三人それぞれ靴を脱いで敷物に上がり、正座をして挨拶をする。
「うむ。よろしくの」
「初めてお目に掛ります、リンドベリ猊下。私はリヒト教のビスコプであるカルラ・アンジェロヴァにございます。本日はお招き頂き、光栄の至りに存じます」
「うむ。名前はよく知っておる。よろしくの。ところで一緒に来たそこのおっちゃんは誰じゃ?」
「これ、猊下。そのような口のきき方をしてはなりませぬ」
「うむうむ、分かったぞ爺や。すまなかったな、そちらの御仁よ。名はなんと申すのじゃ?」
「あ、俺か」
「うむ、お主じゃ。お主以外におっちゃんはおらん」
「これ、猊下」
「うぬぬ」
「まあまあ、その辺で。俺は確かに自他ともに認めるおっちゃんですから。それで、あー、俺の名前はヴィクトル・エリクソン。ヒ大陸の帝国で帝都公安警察に勤めております」
「ほう。お主もこっちの名字だな。出身はこちらかの?」
「いえ、親父とお袋がこっちの出でして」
「二世か」
「そうなりますな」
「うむ。警察の話も是非聞かせてもらいたいものじゃな。これ爺や。お茶とお茶菓子を早う出すのじゃ。妾は甘いのが良いぞ」
「御意」
通路側で立ったまま控えていたリリェフォッシュさんが、コツコツと靴音を立てて去っていくとほぼ同時に、ミーネ・リンドベリ猊下から、質問攻めというか、旅の話を聞かせてくれだとか、担当した密室殺人事件の話を聞かせてくれだとか、元気と好奇心を抑えきれない感じで、矢継ぎ早に話しかけてきた。
それでも、リリェフォッシュさんがお茶とお茶菓子を持って戻ってくるまでは、猊下は比較的落ち着いていたのだが、それが到着した後は、僕たちの話に興味深く頷き、はたまた大袈裟に驚いたりして、それはもう賑やかなお茶会になったのだった。
などと言うのは、第一部、第二部でお茶会を分けた場合の、第一部の話である。
賑やかに進んだ第一部のお茶会に対して、第二部のお茶会は表面的には和やかに、しかし僕の心の奥底では厳かに執り行われたということを、事前に申し上げておかなければならない。
「はっはっは、なるほど帝都というのは、本で読むよりもよほど混沌としておるんじゃのう。反対にウミヴァドゥロというところは、ちと清潔に過ぎるような気がするのう」
「左様ですね」
にこやかに相槌を打っているのは基本的にカルラ・アンジェロヴァである。僕はミーネ・リンドベリ猊下の、かれこれ二時間は話しても一向に衰えが見えないスタミナに負け、声の出しどころを失ってしまったといっても過言ではない。カミさんを愛してやまないヴィクトルも、その経験をいかんなく発揮して同じ有様に陥っていた。もちろん、カルラが率先して相手をしてくれているお陰で、交代でトイレに行って疲労の進行を遅らせることが出来ているのは幸いである。
部外者に話していいことはおおよそ話し終えたので、そろそろここから解放されるだろうと高をくくっていたのだが、しかし、話はそれで終わりではなかった。
「ところで東の聖女殿とスヴァンベリ司祭の二人は、この大陸に調べものをしに来たのであろう? その珍妙な魂と何か関係あるのかの?」
この質問に、僕は面食らい、思わずカルラと顔を見合わせた。ヴィクトルの顔は疲れているままで、特にどうということはない。彼はケモノもぼんやりとしか見えないから、僕の内なる白炎も、カルラの弱々しく色がくすんでいる白炎も分からない。しかし、彼女は違う。目の前で、今なおヒマワリのように咲いているミーネ・リンドベリには、僕たちの何かが視えている。
自然と背筋が伸び、頭には返答の選択肢が次々と浮かんでは消えていく。何を言うべきか迷う。機嫌を損ねてしまわないだろうか。機嫌を損ねたらこの場で始末されてしまうこともあるのだろうか。そもそも機嫌が悪くなることなどあるのだろうか。人間の内面など分かりはしない。自分の手が汚れない人間は、涼しい顔で処刑を指示することだってできる。しかし、どうなんだ?
「猊下はヒトの魂が視えるのですか?」
言葉に窮したカルラを横目に、僕が咄嗟に発した言葉は、結局それだった。だからといって変な対応でもないと思うし、そもそもオイレン・アウゲンで視える白炎や黒靄は、こっちが勝手に魄だと思い込んでいるだけで、本当は違うかも知れない。
「うむ。……おお、そうか。只人は魂が視えないんじゃったな」
そうだ、これでいい。ミーネ・リンドベリ猊下から情報を引き出す意味でも、僕の思い込みを表に出さないためにも、これが最適解なのだと思う。
「僕とカルラの魂が猊下の慧眼にどのように映っているのか、是非、教えて頂きたいものです」
「ふむ。二人とも良いのか? 特にスヴァンベリ司祭」
どうも嫌な予感がするが、ここまできてやっぱり止めますというのは、どうにも具合が悪い。他のヒトから見て、僕はいったいどうなっているのか。それを聞ける良い機会ではないか。もちろん、彼女の目が本当に魂を捉えていればの話ではあるが。
「私は構いませんわ。是非とも、どのようなものか教えてくださいませ」
「僕もお願いします」
「ふむ、良かろう。まず軽く説明するとじゃな、妾には頭部の中心の辺りに魂が視える。本当はあまり視たくないんじゃが、勝手に視えることが多くて困ったものでの。さておき、普通の魂は真ん丸の白いボールを基本にして、凹んでたり、出っ張っていたり、恐らく人生経験で変わるんじゃろうな。そこなヴィクトル・エリクソン警部補も正にそんな感じの普通の魂じゃ。ところが二人のは違う。まず、東の聖女殿はボールが三つある。大中小の三つじゃ。大きいボールと中くらいのボールが隣り合っていて、小さいボールは大きいボールの中にある。そして問題のスヴァンベリ司祭の魂じゃが――」
自分の唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえてきた。
「七つある。嫌というほど、いや、実際イヤなんじゃが、それほど魂を見てきた妾もびっくり仰天するような有様じゃ。しかも、一つは限りなく黒に近い。お主の魂はいったいどうしたというのじゃ?」




