5.2.9
リリェフォッシュさんは、座席より少し高くなっている御者台のような運転席に座り、僕たちはその背後にある向かい合わせの座席に腰掛けた。屋根はない。そしてこの世界のこの時代の車にしては珍しく、煙突もないことから、この車が蒸気機関で動いていないということは分かるのだが、そうなると果たしてどんな仕組みで動いているのか気になるところだ。
「自動車が気になりますかな?」
「ええ、もちろん。自動車だけでも珍しいのに、これは蒸気機関でもなさそうだ」
僕が気になっていることを察したのか、リリェフォッシュさんが少し後ろを見ながら話しかけてきた。そうしている間にも、トットットットと軽い音が聞こえてきて、これはエンジンの音だと懐かしむ。
カルラとヴィクトルは音と振動を感じた途端に何事かと不安そうな顔で周りを見回していたから、ヒ大陸とハレ大陸北部にないことは間違いないだろう。
「これは青藍にある会社が開発中の、ガソリンエンジン車というもので、石油を加工した燃料を爆発させて動くのだそうです」
「そうですか」
僕が全く動じていないのを見たのか、リリェフォッシュさんの言葉に安心したのかは分からないが、カルラとヴィクトルの不安そうな顔はひとまず引っ込んで、大人しくなっている。日本でガソリン車に初めて遭遇した人たちも、同じようなリアクションだったのだろうか。走り始めたら揺れるだろうから、なんにしても大人しくしていた方が良いのは間違いない。
「それでは出発しますよ。それ」
老紳士の優しい声で車がゆっくり動き始め、何の音かは分からないが、バタバタとした音がどこからか聞こえてきた。そこから徐々にスピードが上がるものかと思ったが、少し速くなったくらいで、正直なところ、駅馬車と同じかそれよりも遅く感じる。開発中と言っていたから、恐らくスピードを抑えているのだろう。
風を感じ、視界の両側を流れる建物を眺めながら、ふと横に座るカルラを見れば、やはり彼女も気分が良さそうな表情をしていて、僕の正面で少々険しい顔をしているヴィクトルとは大違いである。
「大丈夫だよ、多分」
「お前たちは大丈夫かもしれないが、俺はさっきの爆発で動いてるってのがどうにも気になってな、それが気が気じゃないんだ」
「あ……あー」
「何かこう、もっと安心させるような言葉はないのか!?」
そう言われたところで、僕に車のエンジンの知識があるわけでもない。
知識としては当然、爆発させてそれを回転に変えてどうのこうのというものを持っているけれど、どうしてエンジンの中で爆発しても平気なのかは全く知らないのだ。言われてみればまったく不思議なことで、僕も少々不安になってきた。
僕がやや不安な表情を作れば、カルラが呆れ顔になってしまい、そんなことを繰り返しているうちに、リリェフォッシュさんから声がかかった。
「本殿に到着いたしました。ご案内いたしますので、自動車から降りてお待ちください」
その声にハッとして周囲を確認すると、少し遠くに敷地の境界を示す壁が見えた。
車が止められた場所は、レンガのようなものを敷き詰めて舗装しているようだが、少し離れれば芝生のようになっていて、無秩序にたくさんの花が咲き誇っている。そして、片づけを済ませたリリェフォッシュさんが掌で示した方向には、大きな花のような建造物が佇んでいるではないか。大きな花といっても、バラやチューリップのようなものではなく、例えばアジサイのように、いくつもの花冠が集まり、こんもりと盛り上がっているような形だ。
外から見る限り、その材質は壁と同じく伝統的な華那琉大陸様式でよく使われる、青墨色の安山岩と白いモルタルで、どこか海の底を思わせるものだった。それにもかかわらず、その最たるものであろう視線の先の建造物は、太陽の光をたくさん浴びて輝いている。ここは地上であったか、それとも海であるのか。そんな錯覚すら起こしそうだ。
「おいスヴァンテ、行くぞ。リリェフォッシュ氏を待たせるなよ」
見惚れていたっていいじゃないかと、ヴィクトルの言に対して思ってしまったが、そういえばここに来た理由は、青華教の法主とやらからお誘いを受けたからなのだった。だから、この本殿と呼ばれる建物の前に僕はいるのだ。
心配そうな顔でこちらを見るヴィクトルとカルラに頷いて、僕はそそくさと矍鑠とした老紳士についていき、本殿に足を踏み入れた。その内部だが、入口のそばはホールのようになっていて、百人は入れそうである。奥にやはり安山岩とモルタルで作られた台のようなものが設置され、供え物の果物や農作物とロウソク、そして香炉が置かれているが、今は誰もいないようだ。リリェフォッシュさんはスタスタと横に見える廊下に入り、「こちらです」と僕らを案内する。その動きは、映画か何かで見た執事のように優雅であり、緊張感や殺気を微塵も感じさせないものだった。リヒト教のウチテルなどは、僕とお茶を飲むために御大層にグレアムなどと言う粗暴な輩に命じて拉致などしたのだから、とんでもない違いだ。
けれど、華那琉大陸において、シェスト教とリヒト教が排除されていることは事実で、法主猊下への対応については、慎重に慎重を重ねなければならないなと思っていたが――
「やあやあ、待ちくたびれたぞ。はようこっちへ参って、妾に話を聞かせるのじゃ」
当代の青華教法主ミーネ・リンドベリ猊下は実に気さくで元気そうな、黒髪ポニーテールの女の子だった。




