5.2.2
「あ、ここです」
特徴的な浅い角度の斜め屋根に、色の濃い海面が白く泡立つような壁。
ほぼ勘に従うように歩いていたが、果たして記憶の通りにそのカフェはあった。港を出たときにも少し思ったが、まだらに或いは一部に靄がかかったように記憶が欠落していると、そのように思いこんでいるだけで、本当はしっかりと残っているのではないかとさえ思える。
だから、まるで常連客のようにすんなりと分厚い木のドアを開けて、軽く店員に挨拶をしながら、空き具合を確認できる。どこに席があるのか分かっていたかのように。
結果、最も入り口から遠い四人掛けのテーブルが空いていることがすぐ分かり、他の二人と年若いウェイトレスに指で合図などを出す。でも、僕は何も知らないのだ。知らないのに、勝手が分かっている。体が操られているのとも違う。僕は確かに、自分の意志で動いている。
「スヴァンテ、お前さん顔色が悪いようだが大丈夫か?」
「ああ、久しぶりに船で長く移動していたから、どうも平衡感覚がおかしくなっちゃったようで」
これは確かな事実ではあるが、平衡感覚などはどうでもよい。この状況がはっきり言って気味が悪い。だが、特に悪影響があるわけでもなく、ここは大人しく動くがままにしておくのが良いだろうと。ちなみにカルラ・アンジェロヴァは薄っすらと笑みをたたえていて、その心の裡など分かりようもない。ともかく僕は、何かを見つけなければならないのだ。
「それでは聖女様。船の中でお話されていた、崇める神様が違うことについて、ご説明をお願いします。ここなら店員以外、誰かに聞かれるということもありませんので」
カフェは広い割に十人もいないが、連れ合いで来ている客が多く、程よく話し声がある。そもそも聞かれて困る話などないはずなので、これくらいが丁度いいのかもしれない。
「あなた本当にカナル大陸のことを覚えていないのね」
「ええ、断片的にですが」
それから彼女は、僕の右前の席でふうと息を一つ吐いた。
右隣にいるヴィクトルの表情は分からない。
「この大陸では、リヒト教の信者はほとんどおりません。シェスト教の信者も」
「そいつは珍しいことですね、聖女様」
僕は何とも思わなかったが、ヴィクトルの反応はとても興味深そうなものだった。
「だとしたら、ここではどんな神様が信仰されているんでしょうかね。俺には想像もつかないんですが」
ヴィクトル・エリクソンは確かこの大陸からの移民二世か三世のはずだ。その彼が知らないということは、地域信仰が幅を利かせているような状況なのだろうか。
「あいにくと私にはここの神は分かりませんが、〈青華教〉という名前だけは知ってます」
「なるほど、〈青華教〉ですか。俺は両親から、名前だけは聞いたことがある気がします。スヴァンテ、お前さんは知ってたか?」
「さあ。その辺りの記憶がどうにも」
「ああ、そうか。すまなかったな」
青華教。初めて耳にする名に思えて、同時に懐かしいとも思える。しかし、青華教とは何かと思い出そうとすると、やはり思い出せず、曖昧で気味が悪い感覚だけが僕に残る。
「それで、聖女様。神様のこと以外で、何か青華教について知っていることはありますか?」
僕の質問に、彼女は無言で首を横に振るだけだった。
それが終われば、カルラはもちろん、隣のヴィクトルからも期待の視線を感じてしまう。この二人が何を期待しているのかと言えば、どうやって調査を進めていくのかということと、それに加えて「早く思い出せ」ということではないだろうか。この肉体の元の持ち主であるスヴァンテ・スヴァンベリが移民一世であることは、前述の通り、すでに二人は知っているのだからやむを得ない。中身が違うことはどうだろうか。ヴィクトルは無理だろうが、カルラは知っていてもおかしくはない。なにせ同じ白炎持ちである。白渡りの際に見せられた可能性は否定できない。いや、そもそも彼女は白渡りを経験しているのだろうか。確認するのも藪蛇のような気がするが。
それはさておき、カルラにはまだ確認しなければならないことがあり、コーヒーを飲んでから口を開くことにした。
「ところで、聖女様。もう一つ質問よろしいでしょうか」
「どうぞ」
彼女もコーヒーに口を付けて、僕の質問を待つ。
「そちらのウチテル様から、カナル大陸での行動について具体的な指示や御助言はありましたか?」
彼女は渋い表情をしてコーヒーカップから口を離した。苦かったのは僕の質問なのか、コーヒーだったのか。
「……それについても、あいにくと、としかお答えできません。以前にも船中でお話した通り、私がウチテル様より仰せつかったのは、カナル大陸まで案内すること、あなた方のカナル大陸での調査に協力すること、並びに毎日状況を報告すること。その三点だけなのです」
「ああ、そうでしたよね。すみません、何度も」
「いいえ、お気になさらずに」
「そうしたら僕の記憶も残念ながら曖昧ですので、こうしましょう。聞き込みから始めるというのはどうでしょうか? 他に、本屋で観光ガイドや青華教の教典を調べるのもいいと思います。この町の治安は神聖リヒト圏よりは悪いですが、三人一緒に行動すれば、変なところに迷い込まない限り問題ないはずです」
「図書館はないのか?」
「さあ? 船に乗るために立ち寄っただけなので、探さなかったかもしれない」
「そうか。なら、図書館のことも聞いてみるか」
「あの、私から一つ良いですか?」
「はい、どうぞ」
「この町にカナル大陸唯一のリヒト教会がありますので、そちらに寄りたいのですが」
「もちろん、僕は構いません。ヴィクトルはどうだ?」
「路銀を融通してもらっているからな、もちろん構いませんよ」
ありがとうございますと、彼女は少し頭を下げて、その後もこの町で何をするか、おおよそ五つの方針が決まった。
一つはこの大陸の大まかな歴史。当然、宗教も含めて。これは図書館や本屋で調べた方が効率的だ。
一つは昔話の類い。これも基本的には書籍の領分になるだろうか。
一つは現在の情勢と青華教の評判。青華教のことは三人ともわからない。評判が悪ければ警戒しなければならない。
一つはジェイニー・ロザリー捜索であるが、これについてはヴィクトルがはっきりと彼女の名前を出さないので、僕とカルラは聞かないふりをするしかない。
最後の一つは調査と直接は関係ない。カルラに対する男二人の話し方だ。ヴィクトルがどうにも僕の話し方が不自然でしょうがないというので、この町を出たら普段通りの話し方でいいですかと、彼女に持ちかけたのである。彼女は例によって眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げていたが、どうやらそれは悩んでいるときにも出るようで、沈思黙考の後に承諾してくれたのだった。
そうと決まれば早速調査開始……といきたかったが、リヒト教会へ挨拶に行くのが先である。かつてリヒト教に殺されかけた僕だが、今は協力体制にあり、危険な行動でもなければ、カルラの言うことには唯々諾々と従うのみだ。もちろん、彼女の方は色々と弁えている人物のようで、これまでのところは変な言動が一切ないから、僕の方としても警戒だけで済んでいるのはありがたい。
顔に大きな傷痕があるスーツ姿の僕、くたくたの服を着て無精ひげを生やした中年男性、そしてリヒト教の聖職者の恰好をした美しい女性が、バルント・ハーヴの町で調査を開始した。あてもなくうろついた。もっとも、カルラ・アンジェロヴァについては服装も容姿もとても目立つので、教会への挨拶の後、衣料品店に赴いて地元の女性が着用しているようなフード付きの厚手のシャツとズボンに着替えて頂いた。色は濃い青系統を基調として、白で草花の模様を大きく描くのがこの大陸の、昔から続く流行とのことだ。もはやこの町では彼女の威光も通じないばかりか、場合によっては一部の排外主義者から襲撃される可能性も考慮してのことである。