5.1.8
「ヴィクトル・エリクソン警部補殿、おはようございます」
「おはようさん。こうしてお互い無事に目を覚ますことができて何よりだな」
ウチテルとの会談の翌日、僕と警部補殿はクレーターの外にある宿屋で目を覚ました。ここは駅のすぐ近くにあり、窓からは朝日を浴びて輝く、それは荘厳なウミヴァドゥロの姿を拝むこともできた。向こうのウチテルのことは信用できないが、それでも体も荷物も無事だったことで、いくらか安心することはできた。
警部補殿の顔色も特に悪いということはなく、そうであればと、宿屋の一階の食堂でベーコンエッグとコーヒーを頼み、二人で簡単な食事をとりながら今後のことを話す。建物はハレ大陸北部山岳地帯特有の石の風合いを生かした作りで、木材は窓枠や骨組み程度にしか使われていない。しかし、黒や灰色の石と赤茶けた木材の色合いのバランスが良く、冷たい印象は受けない。そしてこの宿屋には他にも宿泊客がいたようで、昨日の静まり返ったウミヴァドゥロの市街と違い、心地よい雑音に包まれていた。
「このあと僕はカナル大陸に行きますが、警部補殿はどうしますか? 僕の意見としては、これだけ危険な目に遭ったわけですから――」
などと半ば帰るよう説得している途中だったのだが、言われた本人は最後まで待たずに「もちろん、ついていく。まだ、犯人の足取りが少しも分かってないからな」などと、鼻息荒く言うのだ。普通であれば手掛かりも掴めていないのだから、もうすっかり気弱になっているだろうと気を利かせたのだが、その心配は無用だったらしい。
とはいえ、なぜ僕と一緒にいれば、警部補殿が追っているであろうところのジェイニー・ロザリーが見つかると思っているのかは、まったくもって分からない。本人は勘と言っていたが、僕とジェイニー・ロザリーの間に元同僚と仇敵以外の関係はなく、やはり僕も勘だけなのだろうなと思う。もっとも、ヴィクトル・エリクソン警部補は、二〇年以上も捜査官をやっているという話だったので、そういう勘は馬鹿にはできないとも思うのだ。
「ところでカナル大陸といえば、スヴァンベリ司祭の出身地だな。ここからの行き方も分かるので?」
「ええ、まあ、多少は土地勘がありますので。ここからだと汽車でハレ大陸の東海岸沿いの港まで出て、そこから旅客船に乗ることになるでしょうね」
そうは言ったものの、その当てにしている土地勘は、僕が昔、ハレ大陸で過ごしていたときのものだ。十九世紀の今では地形が変わっている可能性もあるから、やはり町に立ち寄る都度、道を尋ねながら進むのが妥当だろう。
ベーコンエッグも食べ終わり、おまけで付いてきたトルデルニークを食べながら苦いコーヒーを楽しんでいたところで、俄かに食堂が騒がしくなってきた。
知らない町で騒ぎに巻き込まれるのは御免だとばかりに、音の方向を見ていなかったが、いよいよその波がこちらに近づいてくるとなると、流石に無視するわけにもいかない。またぞろユリウスかグレアムでも来たのかも知れないと、ほんの少し想像したが、それにしては雑音が黄色いのである。
そうして足音が聞こえるまでになった頃、僕は覚悟を決めてそちらを見た。やむを得ず、見ることにした。どうせ厄介ごとに決まっているのだから。
果たしてそこには一人の女性がいた。この世に穢れなど一切ないかのような美しさを湛えて。
そのうら若き乙女が纏うは、大きなフリルのあしらわれた白いブラウスに白いコルセットスカート、そして白地に瑠璃色の縁取りがされたケープ。髪はきらめくブロンドのロングで、前髪を編み込んで斜めに流している。
そして、その瞳は榛色に輝き、揺れていた。
カルラ・アンジェロヴァが、大きな旅行カバンを持って僕たちに近づいてきていたのだ。誰か他の客に用事があるのかも知れないと期待をしたが、しかし、その麗しい瞳はしっかりと僕を捉えているから、もう、逃げることなどできない。十中八九、僕に用事がある。いや、断言できる。さらに言えば、あの大きなカバンからは、厄介ごとの予感しかしない。
「あ、えーと、おはようございます、聖女様。朝からお目にかかれて光栄です。ですが、このような場所においでになるとは、もしかして、わざわざ僕たちをお見送りに来てくれたのでしょうか」
「なんと。それはありがたいねえ」
本当はこんなことは思っていないし、警部補殿がありがたいと思っているかどうかと言えば、おそらく違う。だけど、もう関わらないでほしいという期待が口に出たとも言える。
「おはようございます、スヴァンベリ司祭にエリクソン警部補殿。私、ウチテル様より、あなた方のカナル大陸までの案内と、カナル大陸での調査に協力するお役目を頂戴しました。しばらくの間、よろしくお願いいたしますね」
これには食堂内が大いにざわめいた。
見知らぬ中年男性二人と、リヒト教の信者が崇める聖女様が一緒に旅をするというのだ。その上、僕の階級は司祭である。司祭はリヒト教には無い階級で、これも色々な憶測を加速させる燃料になっていることだろう。
今すぐにでもこの場から立ち去りたい。そう思ったことが顔に出てしまったのか、彼女が言葉を並べ始めた。
「この先、カナル大陸までの道筋は、すべて敬虔な信徒が住んでおります。しかし、中には異教徒を暴力で排除しようとする者も、悲しいことに存在するのです。そういうときに、私がいればスムーズに旅が進むと、そうは思いませんか?」
それはもうまったくもってその通りで、僕はぐうの音も出ない。
僕が神聖リヒトの勢力圏では異教徒であることは、簡単にばれることはないが、それでも実際不利ではあるのだ。彼女の司教もしくは聖女としての威光を利用することによってそれが防げるのであれば、それは是も非もないのだが、僕の中の何かが快諾を妨げる。やはりリヒト教に借りを作ることを嫌っているのではないだろうか。或いは、何を考えているのか、何が狙いなのか分からない、という部分での不安なのではないだろうか。
だというのに――
「それは大変ありがたいことですな。なにとぞ、なにとぞよろしくお願いします」
机の向かいの警部補殿が満面の笑顔で快諾してしまったではないか。思わず「何を考えているんですか」と小声で言ってしまったが、それは間近にいた聖女様にも当然聞こえることとなり、彼女は口を大きくへの字に曲げながら僕に言うのだ。
「この私を同行させないというなら、それもいいでしょう。過去の衝突もありますから。しかし、それでは、あなた方の身の安全を保証できませんし、何よりも、ウチテル様の御心に泥を塗ることになります。それは看過できません。さあ、スヴァンテ・スヴァンベリ。大人しく私を同行させるのです。いやとは言いませんよね?」
「は、はい。実にありがたいことです」
美人は怒らせると恐い。これはあらゆる世界で共通の真実だ。このときの彼女も実に恐かった。幸いなのは、僕たちの席が隅の方で彼女の形相を目撃した信徒がいなかったことくらいだろうか。いや、むしろ顔が見える位置に信徒がいなかったからこそ、有無を言わせない表情を作ったのかも知れない。
そのような多少の行き違いはあったものの、僕たちにリヒト教で大きな影響力を持つ〝東の聖女〟様が加わり、この先の旅が順調に進むことを予感させた。少なくともハレ大陸の神聖リヒト圏内では。




