5.1.6
薄暗い廊下を僕たちは進んでいる。
先ほどの光溢れる広間から右手に進むと、また薄暗い廊下があった。ドアが無く、代わりに間仕切りのようなものが置かれていたことから、関係者用の通路だと思う。すれ違う人たちが、一様に瑠璃色のフード付きケープを着用しているので間違いない。このケープは三百年前からずっと変わっておらず、豪奢な教会装飾の割にケープ以外の服装が割と自由なのも三百年前から同じようだ。リヒト教のケープと言えば〈東の聖女〉などと謳われていたカルラ・アンジェロヴァのケープは白かった。白いケープの縁を瑠璃色で縁取ったものだった。あれは何か特別なものなのだろうか。
「ヴィクトル・エリクソン殿は、こちらの部屋でしばらくお待ちください」
ユリウスがこちらを振り返って、堅い顔で扉を案内する。少し顔が歪んでいるあたり、もしかしたら彼なりに笑顔を作っているのかも知れない。
「軟禁ってことだな。ありがたく閉じ込められてやりますよっと。……スヴァンテ・スヴァンベリ、うまくやれよ」
警部補殿はのんびりと歩きながら中に入っていったが、ちらりと見えたソファーやローテーブル、それからティーセットなどから、拷問のような真似はしないだろうことが想像できる。
ユリウスもその部屋に入り、グレアムと二人、無言で取り残されると、今度はグレアムが先を促した。
「……あー、このまま真っ直ぐだ。歩け、スカーフェイス」
そう言われて廊下を静かに歩き始めた。背後の部屋の中からは、「クッキーはないのか?」、「用意させます」などと会話が聞こえてくるから、予想通り問題はなさそうだ。
それにしてもこの廊下はピカピカだ。掃除が行き届いていているにしても、ピカピカすぎる。それに素材も分からない。岩のような白い塔をくりぬいて作ったのだろうと思っていたが、それにしては凹凸が全くない。タイルのように溝は見られるものの、実に不思議な作りだ。
「正面の階段を上がったら、またまっすぐだ。まったく、なんだって俺がこんなことを……」
やはりというか、グレアムはこういうことに慣れていないのだろう。ぶつくさ言いながら、後ろから僕に指示を出している。やがて、二階から三階に上がるであろう階段付近に辿り着いたとき、グレアムが「そこで止まれ」と声をかけ、僕の前に歩み出る。
僕が返事もせずに言う通りにして無言で眺めていると、彼は手近なドアを三回ノックした。
「例の客人をお連れしました」
それに対して「どうぞ」と、ドア越しのくぐもった声が聞こえてくる。
グレアムは小声で「ついてこい」と言い、僕は無言で頷く。彼の顔は明らかに緊張していた。「失礼します」とドアを開け、小声でまた「ついてこい」などと言う。
そうしてグレアムのあとをついて中に入ると、そこは警部補殿がクッキーを所望していた部屋とよく似ていて、ソファーとローテーブルも同じものが置かれているようだった。ソファーはベルベットが張ってあるそれなりに豪華なもので、ローテーブルも装飾があるが、それ以外に絵や花瓶などはない。
予想よりは幾分か質素なその部屋で、予想外の人物が奥のソファーに腰掛け、僕のことをじっと見ている。
「グレアム・グッドゲーム、任務ご苦労様でした。戻っていいですよ」
「はい、失礼します」
声の主は若い女性。
大きなフリルのあしらわれた白いブラウスに白いコルセットスカート、そして白地に瑠璃色の縁取りがされたケープを纏う。髪はきらめくブロンドのロングで、前髪を編み込んで斜めに流していた。
そして、その瞳は榛色。
僕はこの女性に覚えがある。
表向きは楚々としていて東の聖女などとも呼ばれていながらも、ヴィエチニィ・クリッドのヒ大陸ドゥストイニクとして、三百年前のセルハンへの遺恨から僕の殺害を間接的に命じた張本人。ソーサーと紅茶の入ったティーカップを優雅に持つ、カルラ・アンジェロヴァの姿がそこにあった。
自然、僕の緊張は最高潮に達する。
彼女とも帝都で殺し合ったのだ。僕と殺し合いをした人間を次々と会わせるなど、リヒト教のウチテル様というのは、よほど人間が悪いのだろう。
「……どうぞ、お掛けになって下さい」
彼女はティーカップとソーサーを持ったまま、透き通るような声で僕に着席を促す。
僕はどこかぎくしゃくした動きで、ソファーにゆっくりと腰を下ろした。もちろん、この目は片時も彼女を視界から外さない。同時に、いつでもシクロを出せるように心を無に近い状態にまで落ち着かせた。いつ、彼女が僕に攻撃を仕掛けてもいいように。
けれど、そうではなかった。
「先日の帝都での一件、大変申し訳ありませんでした。元ヴィエチニィ・クリッドのヒ大陸ドゥストイニクの一人として、また帝都大教会の責任者の一人として、深くお詫び申し上げます」
僕がソファーに腰掛けると、彼女はティーカップとソーサーを丁寧にローテーブルに置き、そして深々と頭を下げた。
彼女は僕を攻撃する気など毛頭なかった。そもそも彼女よりも立場が上のウチテルに招かれてここにいるのだから、こんなところで害をなすことはおかしいのだが、もちろんそれも、教会の暗部たる、ヴィエチニィ・クリッドのグレアムやユリウスの言葉が真実であればの話である。
だが、こうしてカルラ・アンジェロヴァも含めた彼らのこれまでの言動を見ている限り、拉致・拘束以外では僕やヴィクトル・エリクソンに危害を加えてくることはなかったのだから、やはり嘘は少ないとみていい。全面的に信じるわけにもいかないし、僕やスヴァンテ・スヴァンベリを殺そうとしたことも、決して忘れることはないが。
では、ここから先はどうすればいいのか。相手が頭を下げてお詫びの言葉を口にしている。ここまでは問題ない。しかし、しかしだ。ジェイニー・ロザリーの件も含めれば、帝都のヴィエチニィ・クリッドは四回も僕を殺そうとしたのだ。
「どうか頭をお上げください。ビスコプ・アンジェロヴァ」
「それでは――」
頭を上げたカルラ・アンジェロヴァの機先を制するように、僕は言葉を吐く。
「僕はあなた方を許すつもりはありません」
「そんな……」
彼女は分かりやすく気落ちしているが、その真実は分からない。
「しかし、今後、僕や帝都シェスト教会、帝都の善良な一般市民に絶対に危害を加えないとお約束して頂けるのであれば、多少なりとも受け入れることはできます」
自分に殺意を持って襲いかかってきた人間をほんの少しでも許す。これは結局、相手への救済ではなく、究極、自分へのけじめに過ぎないし、何しろ相手はリヒト教の暗部であるから、条件を飲むかどうかも分からない。
「それでしたら問題ありません。多少なりとも謝罪を受け入れて頂き、感謝します」
予想外の返事だったが、これで僕の心も多少は安らぐことだろう。しかし、何か忘れている。何だったかと思考を巡らせれば、忘れてはいけない、あの件だった。
「あ、ジェイニー・ロザリーだけは許すことはできませんよ。追加ですみませんが、それだけは覚えておいてください」
「それも問題ありませんよ。彼女の行方はこちらでも掴めておりませんので、スヴァンベリ司祭の好きになさってください」
彼女はそう言って、女神様のような顔で微笑んだ。




