第151話 鏡の向こうの花、水面に映ゆる月
5月。
デニズヨル議会、ソルマ家、オドンジョ家、アイウス議会の軍は、一斉にドロナイ大丘陵への侵攻を開始した。
デブラーチェニスの部隊はアバレ領との境から、グンドウムは西、ソルマ家は南西、オドンジョ家とアイウス議会は南東、アイウスに駐留していたイーキン率いる部隊は東、そして作戦の中核と目されるデニズヨル議会の本隊は北西、計6方向からの同時侵攻であれば、いかに固く守ろうともそうそう撃退できるものではない。ルスには4本の街道が繋がっているのだから。
それでも、入り組んだ地形を最大限に利用できるカシシュ側は、侵入者に大きな痛手を与えることはできる。街道は丘の上ではなく、崖の下を通っているのだから。例えば、崖の上から鉄砲や矢を射かける、石を落とす、狭く密集している地点に榴弾を撃ち込む、見え辛い位置に兵士を伏せ、背後から奇襲する、崖の中を抜ける秘密の隧道を張り巡らせ、変幻自在に攻撃を加える。
丘の上にも当然、敵兵がいるだろう。カシシュ家の狼煙台の多くは丘の上にあり、それらを攻撃拠点と共に破壊しなければ、街道を進む部隊が危険な状況になることは容易に予想できた。だが、「多方面から同時に攻め入れば、カシシュ家の兵力では対応できない」ことも予想できた。
ドロナイ大丘陵はそもそもが不毛な土地である。動員をかけたところで、使い物になるのはやはり1000もいかない。10000にも迫る兵士を相手取るには、カシシュ家の土地ではやはりどうにも無理なのだ。
けれど、慢心してはいけない。特にデニズヨル議会とアイウス議会が派遣した軍勢は、民衆からの支持もまだ日が浅い。壊滅的な被害などを受ければ、途端に領主を据えなければならなくなる事態も想定されるところで、数の上では圧倒的に優位でありながら、ドゥシュナンの言うように「じわじわと慎重に口を締めていかなければ」ならない戦でもあったのだ。
視点を変えれば、たとえ士気が下がろうとも、壊走しなければ勝ちが確定しているとも言えるのだが、それでも期限を1ヶ月半に定めた。期限が長ければ緊張感を保てなくなるだろうし、逆に早めれば、転落などの事故が増えたり、警戒を疎かにする可能性がある。1ヶ月半ということの根拠はないが、それはセルハンの勘に頼った。
ところが、いざ作戦を開始してみると、ひび割れによる丘上の土地の分断が予想していたよりも多かった。それは、作戦継続が難しいのではないかとの印象を、各勢力に持たせるには十分だったのだが、結局、多くの場所で丘を掘って作られた丘の上と崖下を繋ぐ通路が見つかったことで、自然と解消されていった。
同時に、懸念していたことの一つが確認されることにもなった。
崖をくりぬいて作られた砦の存在である。その存在が明確になったことで、行軍は一層慎重に行なわれ、襲撃を警戒し続ける日々が兵士の士気を削いでいく。なにせ見えないところから鉛玉や石が降ってくるのだ。偵察部隊や丘の上の部隊がすべて発見できれば良いのだが、当然、巧妙に隠されていて、それは難しい。
侵攻は遅々として進まず、死傷者は少しずつだが増えていく。上の人間がいくら声高に大義を叫ぼうとも、末端の人間にはどうでも良いことで、不平不満が増え、脱走する者も出てきた。
勝利に向かっているという実感が欲しい。
各勢力の指揮官たちは、そう思いながら色の薄い丘の上を、仄暗い谷を、一歩一歩、進んでいく。
これはまずいな……
元々の作戦完了予定は6月初旬から中旬で、5月後半に少し差し掛かったところで6割ほどの道程ならば、それは全く気にすることではなく、寧ろ順調といえるのだが、兵士たちの士気の低下は予想よりも著しい。休ませられれば良いのだが、道中の集落はどこも小さく、水や食料にも乏しい有様だった。
そのような状況であるから、セルハンも思わず呟いてしまうのだ。他の勢力も同じ状況であれば、丸ごと離脱するところが出てきてもおかしくはないかも知れないという、良くない考えも頭をよぎる。
まったくもって悩ましい。
もちろん、他の勢力が堪えきれずに撤退をするのを、セルハンが止めることなどできない。問題はその後だ。ケレム・カシシュを滅した後のことだ。どこの勢力が手柄を立てたとか、どこの勢力が手柄を立てなかったとか、そういうもので発言力が変わるものなのだ。
そして、そのような発言力はドゥシュナンの考えには邪魔だった。
*
「父上、お呼びでしょうか」
「来たか」
仄暗い部屋の中で、父と息子が机を挟んで向かい合う。
「アスラン、お前ももう成人だ。今日明日にでもルスを出て、デニズヨルへ行き、そこで暮らすように」
「かしこまりました。どれくらい滞在してくれば良いのでしょう?」
「聞こえなかったのか? お前はデニズヨルで暮らすんだ。ここへ戻ってこなくていい」
「は? な、なぜですか?」
「これは命令だ」
「……」
若い頃のケレムにそっくりなアスランという青年が、やはり父にそっくりな焦げ茶の瞳で、じっとケレムを見る。
「……つい先日、あれは4年前だったか、それくらいにお前の家庭教師だったブラーク卿から手紙が来てな」
「なんと書いてありましたか?」
「そう焦るものじゃない。……皆でここを攻めるから、早めに降伏した方が良いという内容だ」
「……」
「そして、お前の身を案じていた。相変わらず親切な御仁だよ」
「では、すぐにでも出立いたします」
「ああ、強く生きるんだぞ。これは命令だ」
「父上も。私からのお願いです」
「それは――」
そう言いかけたところで、何か言うべきことがあるわけでもなく、早世した妻と自分を半分ずつ持ち合わせたようなアスランの顔をじっと見た後、「いや」と首を振って、懐からありふれた封書を取り出して持たせた。
「これは?」
「これには、お前が頼るべき人間の名前と、その人間に宛てた手紙が入っている。デニズヨルに着いたら中を確認したまえ」
「ありがとうございます。父上、最後に」
「うん」
「僕はあなたのことが大嫌いでした。……さようなら」
「私もだよ。私たちの自慢の息子、アスラン」
*
5月下旬。
デニズヨル議会、ソルマ家、オドンジョ家、アイウス議会の部隊は、ついにルスを包囲することに成功した。
大いなるひび割れが集まる場所に突然現れた、天蓋付きの大きな盆地。街道を行く者は、崖を上から掘って作ったようにも見える街並みに目を奪われることだろう。
平時であれば。
四方にある町の門は固く閉ざされ、石の門塔の上からは容赦なく砲弾と銃弾が降り注いでいた。道は狭く、散開して近寄るようなことも出来ない。
では、周囲にそびえ立つ崖の上から攻撃すれば良いのではないかと考えるのだが、壁面が湾曲している箇所が多く、門塔などの重要な防衛施設は遮蔽されている状態だった。茶の魔石を使って地形を変えようにも、土を動かせばすぐに岩が顔を覗かせるほどドロナイ大丘陵には岩が多い。時間をかけて作業を行なわなければ、崖面の崩落や、陥没に巻き込まれる危険性があるということだった。
だから、参加した勢力は、攻城兵器をほとんど持ち込めない中で地道に攻撃を加えた。
そして、精神に不調をきたすものが増えた。いつ襲われるかもしれない恐怖に曝されながら、なんとか辿り着いたところで、この仕打ちであれば、やはりどうにも多くなってしまう。
一人減り、二人減り、十人減り……。
死傷以外で兵が日に日に減っていく。
指揮官たちは毎日毎日、士気をあげようと鼓舞をするが、脱走する兵士たちは後を絶たない。
囲んでから1週間少々で、ルスを包囲した部隊は、早くも負け戦の雰囲気になっていた。
「兵士諸君!」
そんなとき、谷一杯に響き渡る若い男の声がした。
デニズヨル議会やソルマ家、オドンジョ家、アイウス議会の兵士どころか、カシシュ家の兵士も声の主をきょろきょろと探すが、声の主は見当たらない。
「上だ!」
誰かが叫ぶと皆一斉に崖の上に視線を送る。
そそり立つ崖の上、確かにまばらに人影が見えるが、その顔は逆光で判然としない。
「兵士諸君!」
影になった男が再び崖に声を跳ね返らせる。
「余はビュークホルカ王国第7代国王アルテンジュ・ハリカダイレである!」
一瞬の静寂の後、敵も味方もなくざわざわとし始めた。
あれは偽王子だと。いいや、本物だと。
「我らが父王ハリト・ハリカダイレを殺した、逆賊ケレム・カシシュは未だのうのうとして、ルスに在ることが私はとても悲しい」
けれど、偽物だとか本物だとかは、この際、どうでも良いことなのだ。
「勇敢なる兵士諸君、一刻も早く逆賊らを討伐せよ! また、カシシュ家の兵士たちよ! お前たちの主に少しでも非があると思うなら直ちに投降せよ! 余は投降する勇気を示す者を寛大な心で受け入れる!」
王を名乗る人物がいて、自分たちの味方をしてくれる、敵を糾弾してくれる。それだけで、英雄王マリクという存在を刷り込まれた彼らの士気は上がるのだ。対して、糾弾された側には罪悪感が芽生え、或いは畏怖し士気は落ちる。それは、どうしようもなく、この大陸に生まれた者の特質だった。
「ソルマ様、後方より水色のチュニックを纏った兵団が近づいてきております」
「おお、タルカン殿か! 急ぎ援軍が来たと触れ回るのだ!」
そうなればソルマ軍の士気は最高潮に達し、精彩を欠いた南西の門塔を瞬く間に突き破った。勢力同士が互いに連絡を取ることが難しい状況であるにも関わらず、その熱気は不思議と伝わり、北西、南東、北東の門塔も次々と打ち破られる。そうなれば、すっかりと住民の気配が消えた陰気な谷底は、異様な興奮と絶望に包まれていた。
「キズミット殿」
「タルカン殿。ご助力、感謝いたします」
「なあに、こちらこそ遅れてすまなかった。少々、仕込みに手間取ってしまってな」
「仕込み……。あの偽王子のことで?」
「ああ、その通りだ。ユズク制圧の早馬の二日後くらいに、アイナに儂を訪ねてきてな、必死になって、王子を騙ってごめんなさいと謝ってたよ」
「そんなこと、妾も有力者もみな知っていたというのに。知っていて利用したというのに」
「儂もそれを話して、お互い様だと言ってやったのだがな、それからまた1日経った頃に、王宮で雑事の使用人長を努めていた男が訪ねてきてな」
「もしかして、ユズクでアルタンの面倒を見ていたという男ですか?」
「さあ? 恐らく同じ人物であるとは思うが、ともかく、その元使用人長が相談……というかお願いをしに来たのだよ」
「なんと?」
「アルタンはハリト王から預かった子なのだから、見つけたらどうか面倒をみてあげて下さい、とな」
「それが本当だとすると――」
「そういうことで、儂はアルタンを呼びつけて、こう言ったのだ。最後までやりきれ、とな」
「本人にその男の言葉は?」
「伝えておらん。やりきるなら、真実は不要だからな」
「タルカン殿もなかなかに人が悪い」
「む……。全てが終わったら、話そうかと思っておるとも。いずれにしても、いくら本人が望んだところで、決して手に入らないものだったのだがな」
シェスト暦1638年6月中旬、城門が破られたルスの町には、大量の兵士がなだれこみ、あっけなく陥落した。